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いつか見た虹



「御剣!」
明るい声が、二重奏で自分を呼ぶ。
一歩遅れて丘に登り終えた御剣を、明るい二つの笑顔が迎える。
「な、すごいよ!ほら!」
「すっげ、でっかいよー!」
「ホントだ!」
思わず、御剣も眼を見開く。
学校の帰り道、にわか雨に降られてほうほうの体で雨宿りをした後、彼らが見たのはぐしょぐしょに濡れたのなんて忘れてしまうくらいの鮮やかな虹。
道路から見上げるよりも、と言ったなり、走り出したのは成歩堂。
二人して、慌てて追いかけて、たどりつた場所は少々薄暗い林の向こうの、丘だ。
「やっぱり、ココから見るとスゴイよなぁ」
成歩堂の嬉しそうな声に矢張も頷く。
「すっげ、よくこんなとこ知ってたなぁ」
「へへ」
ちょっと得意そうに、成歩堂が笑う。
「秘密の場所だったんじゃないの?」
首を傾げたのは、御剣だ。
なんとなく、そんな気がしたのだ。成歩堂にとっては、大事な場所。
一人で、この広い空を独り占めできる場所。
問われた成歩堂は、いくらか照れ臭そうな笑みになる。
「うん、今日からはさ、三人の秘密の場所」
矢張と御剣は、どちらからともなく顔を見合わせる。
そして、にまり、と笑う。
「わかった、誰にも言わないよ」
「おう、誰にも言わねぇ」
成歩堂の笑みも大きくなる。
誰からとも無く、また空を見上げる。
「すごいね、あんな大きな虹を独り占め」
「違うぞ、三人占めだ」
矢張の言葉に、弾けるように笑い出しつつも、二人が頷く。
「うんそうだ」
「三人占め!」
虹が消えるまで、三人でずっと、空を見上げていた。



これを、再会と呼ぶのかわからない。
これまで、何人もの人間が御剣怜侍の真向かいに立ってきた。
が、これほど相手を意識して見据えたことは無い。
相手も、まっすぐにこちらを見つめ返している。
互いから視線を逸らすことなく、裁判官の問いに答えを返す。
「検察側、準備完了しています」
「弁護側、準備完了しています」
今日の相手である成歩堂龍一は、まだ二度目の裁判だ、と糸鋸刑事が言っていた。
が、そうとは思えない落ち着いた表情だ。
だが、眼だけが、強い光を放っている。
なにかを、やり遂げると決めた人間の眼。
しかし、意思の強さならば、負けるわけがない。
そして、負けるわけにはいかない。
この男だけには。
幼い頃、なりたいと言っていた弁護士ではなく、検事となった自分へと、何度も手紙をよこしていた。
返事は、返さなかった。
それどころか、読んでさえいない。
あの事件よりも前のことなど、今の自分には何の意味も無い。
成歩堂も矢張も、そして、父親の職に憧れていた自分も、全部過去のモノだ。
相手が誰であろうが関係ない。
完璧に有罪を立証するだけだ。
なにがあろうと、どんな手段を使おうとも。
「御剣検事、冒頭陳述をお願いします」
そして、戦いの火蓋は切って落とされる。
自分の事務所の所長が殺され、世話になった所長の妹が被告なのだから、必死に食い下がってくるだろうとは思っていた。
だが、まさか。
政治家、検察、刑事にいたるまで、各種情報でがんじがらめにし、思い通りにコトを進めてきた小中の犯罪を立証し、逆転してしまうとは。
無敗を誇っていた自分が、敗北を喫するとは。
控え室で、ぎり、と歯噛みをする。
なにもかもが、悪夢のようだ。
成歩堂龍一が自分の目前に現れたことも、彼が弁護士になったことも、見事に自分の論理が覆されたことも。
大きな音を立てて、手にしていた紙コップがひねり潰される。
驚いた声を上げたのは、証拠に見落としがあったことを謝りに来た糸鋸刑事だ。
「検事、大丈夫ッスか?!」
「なにが」
「いや、あ、熱くないッスか?や、やけど……」
驚きのあまり、しどろもどろになっている。視線を受けて自分の手を見て、やっと気付く。
淹れたてのコーヒーが入ってた紙コップからは、茶色の液体が全て零れ落ちている。
握りつぶした手は、真っ赤になっている。かろうじて、ズボンにかからなかったのは幸いだろうか。
そこまで観察して、やっと自分の手の痛みに気付く。
「……ああ」
早めに冷やしておかなくては、明日の仕事に響くことになる。感情にまかせ、なんてマヌケなことをしたのだ、と心で毒づきながら立ち上がる。
酷いことにはならなそうだが、一晩は痛むだろう。
毎晩見なかったことの無い悪夢は、一段と酷いものになるに違いない。
最低だ。
なにもかもが。

最悪な気分のまま仕事を終え、帰宅する。
嫌な夢を見そうだから寝るのは嫌だ、なんていうのは、子供じみすぎている。
それでも、いくらか躊躇った後に、ベッドへと入る。
ほどなく、視界が黒くなる。
瞼を閉ざしたからではなく、今日も始まった悪夢の為に。
もう、たくさんだ。
そう思うのに、覚めることも、視線を逸らすことさえも許されず、夢は続く。
なにかの声に、弾かれるように顔を上げる。
視界に入ってくるのは、あの地震の後、薄れ行く空気の中で、父と警務官が争う姿。
そのはずだったのに。
「?!」
思わず、大きく眼を見開く。
目前に広がる景色は、驚くくらいに鮮やかだ。
真っ青な空に、大きな虹。
響く笑い声。
「ほら、すごいよ!」
「すっげ、でっけぇ!」
飛び込んでくる笑顔。
「え……」
戸惑う自分の手を、あの頃の彼らが勢い良く引く。視界に入ってきた自分の手も、二十五歳の成人男性のモノではない。
年頃の男の子よりも華奢で、ひそかに気にしていた小学生の頃の自分のモノ。
これは、十五年前だ。
だから、自分はまだ小学生で、目前には成歩堂と矢張がいる。
「ほら、行こう!」
成歩堂が、なんの屈託の無い笑みを浮かべる。
あの悪夢よりも、前だから。
だから、自分も笑っているのが普通で、それが、許される。
しっかりと、引かれた手を握り返す。
「うん」
笑みを返す。
深い青の空に浮かんだ鮮やかな虹は、いつまでも消えない。

目覚ましの音に、はっと瞼を開ける。
時計を見ると、起きると決めた時間だ。
ゆっくりと、躰を起こす。
「…………」
もう一度、まじまじと時計を見る。
やはり、目覚ましをかけた時間に、目覚ましの音で目覚めたことに、間違いない。
昨晩は、あの悪夢を見なかった、というなによりの証拠。
いつもならば、何度も繰り返して、最後には眠れなくなって目覚ましよりも先に起きる。それが、十五年間の毎日だった。
法廷で、二日間の間、ほんの数時間顔を合わせていただけなのに。
裁判でのやり取り以外は、何一つとして会話をしていないのに。
いともあっさりと、彼は十五年の時を越えて、自分の側へとやって来た。
その上、あの悪夢から救ってみせた。
「最低だ」
立ち上がりながら、ぼそり、と呟く。
あの事件の前のことなど、関係ない。
過去のことだ。
だから、忘れなくてはならない。
そして、あの事件のことを、けして忘れてはならない。
心に蘇った鮮やかな虹を、強引に封印する。
成歩堂が弁護士でいる限り、また相対することになる。
この次に、打ちのめすように勝てば、こんなことは二度と起きるまい。
あの笑顔を思い出すこともあるまい。
もう、二度と。
思い出しては、ならない。

2004.03.21 Over the Rainbow




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