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翼の向こうの景色



聞き慣れた足音が、扉の前で止まる。
静かに扉が開き、そっと覗き込む気配。
ペルは、薄い笑みと共に振り返る。
「どうなさいましたか、ビビ様」
「入ってもいい?」
ほとんど口だけの動きで、ビビが問う。
怪訝そうになりつつも、ペルは頷く。
周囲をうかがってから部屋へと入ってきたビビは、そっと扉を閉じる。
それから、不可思議そうな顔つきのペルの目前へと来て、まっすぐに見つめる。
「お願いがあるの、ペル」
「お願い、ですか?」
問い返すペルの瞳から、ちらとも視線を逸らさずにビビははっきりと言う。
「私を乗せて、飛んで」
成長するにつれ、ビビの口から我侭を聞くことは滅多に無くなった。そして、アラバスタが枯れ始め、なにかがおかしくなり始めてからは、全く無くなった。
絶対に外そうとしないまっすぐなソレが、どれほどに真剣なのか、それはペルが最も良く知っている。
それは、お願いしているというよりも、むしろ。
なにが、あったのですか。
喉のすぐそこまで出かかった問いを、ペルはかろうじて飲み込む。
代わりに、こう問い返す。
「今ですか?」
「夜の方がいいのはわかっているわ。でも、今じゃないと景色が見えないから……」
ほんの少しだけ、視線が落ちる。
アルバーナの景色など、高台の城からはいくらでも見ることが出来るはずだ。そして、ここ最近のビビは、ずっとそうしてきたはずだ。
ビビが、理由もなく、こんなことを言い出すはずがない。
なぜ、今、そんなことを。
問いは、やはり喉の奥に引っかかったままだ。
それは多分、目前のビビも、同じだ。
先ほどから、ひくり、と喉が鳴り、そして唇が、何度もわなないている。
なにか、言葉を飲み込んでいる。
問い詰めたのならば、隠し事をするのならば願いをきく事など出来ないと言えば。
きっと、ビビは口を開くのだろう。
それが、彼女の本当の望みであろうとなかろうと。
ビビの性格は、誰よりもペルが知っている。
でも、ビビは何かに耐えるように、必死で拳を握っていて。
「……ビビ様」
沈黙を破ったのは、ペルだった。
静かに、微笑む。
「わかりました、飛びましょう」
「ありがとう、ペル」
ほっとしたように、ビビの顔にも笑みが浮かぶ。

ペルの肩越しに見える景色が、勢い良く遠ざかっていく。
どれほど高く飛び上がったとしても、ペルが飛んでいることはこの国の誰もが見分けることが出来る。
でも、これほどに高く上がってしまえば、背に誰かいるかなど、誰にもわからない。
雨のことでぴりぴりとしている民衆の感情を、どんなに些細でさえ逆なですることは、背のビビも翼を広げているペルも望んではいない。
「ビビ様、しっかりとつかまっていていて下さい」
いつも以上の高度に上がっていることを気にしているのだろう、ペルが乗る風を選びながら言う。
「ええ、大丈夫よ」
返事と同時に、さらにしっかりとペルの服を掴む。
幼い頃、何度もワガママを言っては乗せてもらった時と変わらず、ペルの背は温かい。
ふ、と自分の口元に笑みが浮かぶのがわかる。
「ねぇ、ペル?乗せてもらうのは、随分と久しぶりね?」
「そうですね、何年ぶりかになるでしょうか?」
その返事に、はっとする。
「あ!もしかして!私、重くなってない?!」
ここ数年で、またぐっと背が伸びている。当然、体重だって増えているはずで。
だが、ペルからは軽い笑い声が返る。
「全くと言っていいほどお変わりないですよ……きちんと食事を食べておられるのか、少々疑問になるほどに」
後半の声には、真剣な懸念が含まれているのが、ビビにははっきりとわかる。
ずっと側にいてくれるこの心優しき護衛隊副官には、多少の痩せさえもわかってしまっているのだろう。
「大丈夫よ、きちんと食べているわ。ペルこそ、ちゃんと食べているの?」
「無論です。体力が低下してしまったら、戦えなくなりますから」
じっと前に注がれている視線は、どこにいるのかもわからない敵へと向けられているのに違いない。
先ほど、ペルの部屋で飛んで欲しいと頼んだ時。
何度も、ペルが言葉を飲み込んだのを知っている。
自分が、いつもと何か違うことを、敏感に察しているのに違いない。
ビビが何も言わないことを尊重して、口をつぐんでくれたのだろう。
それだけ、ビビという人間を信頼してくれているから。
許されるのならば。
ペルには、全てしゃべってしまいたかった。
イガラムから聞いたこと。
それから、自分が決めたこと。
でも、そんなことをしたら、ペルは絶対について来ると言うに違いない。
そして、付いて来てしまったら、何をおいても自分とイガラムを守ろうとするに違いない。
最も死に近くなるのは、間違いなくペルになる。
行く、と決めたビビに、イガラムは言った。
死なない覚悟は、おありですか?
それは、死ぬ覚悟よりもずっとずっと、難しい。
諦めるよりも、諦めないことの方が、難しいのだから。
ただ、ヒトツだけ。
自分が諦めることを、止めるかもしれない楔。
この国に、貴方がいる、ということ。
私にとって、誰よりも大事な貴方が待っていてくれるということ。
それがあれば、諦めずにいられるかもしれない。
いつか、また、この景色を一緒に見られると思えば。
そっと、背を撫でる。
「ビビ様?」
少し、驚いた声が返る。
「……ペル」
瞳の奥に溜まってきた熱いなにかを、必死に堪える。
「ねぇ、またいつか……私を乗せて、飛んでくれる?」
少しの間の後。
ペルから、静かな声が返る。
「ビビ様が、そうお望みになるのでしたら」
らしい返事に、少し笑みが戻る。が、重ねて問いかける。
「約束してくれる?」
「ええ、お約束します」
静かで、でも、強い声。
一度瞼を落とし、また、まっすぐに前を見る。
ペルの肩越しに見える、アルバーナ。
大丈夫、絶対に生きて帰って来てみせる。
そして、もう一度、この景色を見よう。

2004.05.16 Landscape Over The Wing




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