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唯一無二の



さらりと裳裾が音を立てる。
「小碓は来なくていい」
ぴしりと言ってのけると、大碓の後姿はずんずんと遠ざかっていく。
「兄上!ご不興を買うようなことをしたのなら、おっしゃって下さい!」
必死の声を上げてみても、振り返りもしない。
何が大碓を怒らせてしまったのかわからず、小碓は戸惑うどころか、泣き出しそうな顔つきだ。
帝が待っていらっしゃるというから、一緒に参内しようと誘っただけのはずだったのに。
眉を、きり、と上げたかと思うと、「自分一人で充分」との言葉と共に背を向けられてしまった。
誘うまでは、機嫌は悪くなかった。
間違いなく自分の誘いが怒らせたのだと思うと、いたたまれない。
それでいて、来なくていいと断言されてしまうと追うことも出来ず、小碓はその場に立ち尽くしてしまう。
どのくらい、そこで悄然としていたのか。
背後から、聞き慣れた声が呼ぶ。
「おや、小碓ではないかえ」
「あ、叔母上!こんにちは」
倭姫と呼ばれる彼女は、幼くして母を失った大碓と小碓を憐れんで、なにかと気をかけてくれている。母とまではいかないが、小碓にとっては数少ない気安い相手の一人だ。
小碓の丁寧なお辞儀に軽く返しながら、倭姫は首を傾げる。
「なにやら元気が無い様子だったようだけれど」
「え、あ、その、兄上を怒らせてしまったのです」
取り繕うことが出来ない小碓は、素直に言って、またうなだれる。
「帝が私共をお待ちだとうかがったので、共に参りましょうと誘ったのですが。一人でいいと」
「まぁ」
倭姫は、口元を軽く覆う。だいたい話が見えたのだ。
この宮中で帝の皇子として育ちながら、この甥はいつまで経っても純粋無垢そのものだ。権謀術数が存在することは知っていても、己が用いることなど思いもよらないらしい。
それだけならいいのだが、他人が己を嵌めることがあるのだという事実にも、いまいち気付いていないふしがある。
だからこそ、今日のようなことになるのだろう。
大碓は、双子でありながら対照的だ。現実というものを知っているし、降りかかった火の粉を払う方法も会得している。
時に傲慢に映るような振る舞いもあるが、行き過ぎたのではと思われる行動の全てはよくよく見れば全て小碓を守る為なのだ。
今日のこととて、大碓は、なぜ帝が二人を待っているのか正確に理由を察したからこそ、小碓を取り残して去ったのだろう。
大碓の心はわかるが、こんなことを繰り返していれば、いつか二人の間にも溝が出来てしまうかもしれない。
「それはね、小碓。帝が、先日のことをお咎めになるおつもりだとわかったからでしょう」
小碓は、はっと大きく眼を見開く。純粋過ぎる点を除けば、聡さは大碓と変わりない。
「もしや、兄上の御命をいただいてなしたあのことでしょうか?」
「そう、そのことです」
倭姫の肯定に、小唯の顔に苦渋が浮かぶ。
先日、帝が奥にいる間に、ある緊急の訴が持ち込まれた。本来ならば帝の裁可を仰ぐべきだったのだが、ことはそう待ってはくれぬものだったのだ。
犠牲者が出るくらいならば、咎めがあっても私が、と言ったのは他ならぬ小碓だ。
それを聞き、たった一人ではどうすることも出来まいと、日嗣の皇子の権限をもって大碓が命を発したのだ。
どのように伝わったものか、帝の怒りを仰ぐこととなってしまったらしい。
あれは、けして兄の独断などではなかった。
咎めを受けるならば、むしろ小碓の方だ。
なのに、己が命を発したからと、全てを兄は背負ったらしい。
「そうでしたか……叔母上、お教えいただき、ありがとうございます」
深く頭を下げてから、視線を兄の向かった先へと向ける。
「小唯」
倭姫は、強めにその名を呼ぶ。
真実を知ったとなれば、帝の元へ乗りこんでいきかねないと思ったのだ。兄一人、咎められるのは耐えられぬとて。
が、小唯の足は吸いつけられたかのように動かぬままで、妙に血の気の引いた顔が振り返る。
「兄上のお気持ちを無にするような真似はしますまい」
搾り出すようにそれだけ言うと、背を向ける。足早に去っていった頬には、もしかしたらまた、涙が伝っていたのかもしれない。
兄の背負った苦渋を思って。
倭姫は、かける言葉のないままに見送る。

己が屋敷で待ち構えていた小碓に、大碓は朝の不機嫌など欠片も無い笑顔を向ける。
「どうした、珍しいな、私の屋敷に来るとは」
「兄上」
いつもならば大碓の笑顔を見れば素直に笑う小碓の顔は、こわばったままだ。
「本日の帝のご用件ですが」
「ああ、あれか。思った通り、たいしたことは無かったぞ。私とお前と二人の手を煩わせるまでも無いことだった。もう済んだから、小碓は気にせずと……」
ふと小碓へと視線をやった大碓の言葉が、止まる。
「小碓?どうした?」
眉を釣り上げて、唇を噛み締めて、じっと大碓の顔を見詰めている。
どうやら、大変に珍しいことに怒っているらしい。
「思った通りということは、最初から兄上は、たいした用事ではないとご存知でしたか?」
「帝がああして呼び出す時には、たいていは」
肩をすくめる大碓に、小碓は一歩、歩み寄る。
「では、なにゆえ、私と一緒に参らぬとお怒りになりましたか?」
「いい年をして、お手手繋いで朝参もあるまいに」
さらりと流され、小碓の頬はだんだんと赤くなってくる。
「兄上、私をたばかるのはお止しになって下さい」
「たばかる?私がお前を?」
ぐ、と小碓はもう一度、唇を噛み締める。
目尻に涙が浮かんできたのを、堪えたらしい。
大きく息を吸うと、一気に言ってのける。
「帝がお呼びになったのは、先日の件でございましょう?兄上のご命を賜って、私が成したあの件につき、お咎めがあったのでございましょう?」
大碓の目が、軽く見開かれる。
あの時動かねば、多くの犠牲が出たようなことに咎めが来るなどとは、思うはずが無かったのに。
が、すぐに不機嫌に眉が寄る。
誰かに聞かねば、小碓に察しがつくはずがないと気付いたのだ。
「余計なことを、誰がお前に言ったんだ?」
「誰でもいいことでしょう。大事なのは兄上一人がお咎めを受けた、そのことです!」
握った拳が、かすかにわななく。
「帝をさしおく僭越を犯したのはこの私です!兄上がご命を発してくださったのは、どうあっても私が動くとなったからです!本当に咎めを受けるのは、私ではないですか!」
ほとばしるように一気に言った小碓の目から、涙が溢れ出す。
「私のことをかばって下さった兄上のお心は、嬉しゅうございます。ですが、兄上一人にお苦しい思いをさせることなど、望んではおりません」
小碓は、ぐ、と袖で涙をぬぐう。
「このようにいつも泣いてばかりで、兄上からされたら頼りない弟ではありますけれども、でも、私も兄上をお守りしたい。いつもいつも助けられてばかりでは、あまりに不甲斐ない」
飲まれたように小碓の言葉を聞いていた大碓の頬に、笑みが浮かぶ。
「わかった、小碓。今回のことは、私が悪かった」
肩に手をかけて、覗き込んでやる。
「これからは、共にあたることにしようよ。それが、辛い役目であるとしても」
「本当でございますか?お約束下さいますか?」
必死の顔つきに、大碓の笑みは大きくなる。
「どのようにささやかな事であろうと、これからは二度と欺くまい。たった一人の実の弟のお前だもの」
やっとのことで、小碓は頷く。
それから、笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、兄上」
「私の方こそ、礼を言わねば」
大碓の笑みも、大きくなる。
「これからは、手を携えて行くとしよう」
「はい」
一緒に、大きく頷き合う。
ずっと、共にあろう。
例えどんな未来が、待つのだとしても。

2005.04.18 My one and only brother by blood




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