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遠い思い



己が手を染める赤い液体と、触れている間にも消えていく温もりとが、大碓の命が消えてしまったことを告げている。
なんてことを、なんてことを。
小碓は、血の気の引ききった顔で何度も繰り返している。
何か仔細があるのだと、理性が告げたけれど。
大事な人を、生涯共にあるのだと誓った人を奪われた悲しみは、理性をも飲み込んでいく。
「お返しくださいませ、大碓命様を、お返しくださいませ!」
兄橘がほとばしるように叫ぶと、小碓は面を覆うようにして走り去ってしまう。
涙すら出ないままに、必死で名を呼ぶ。
もう、戻ってこないと知りながら、呼ばずにはいられなくて。
そうしているうちに、己の手の下に、なにか違和感があることに気付く。
着物の色と違う、それは絹だ。細く折りたたまれた端に、確かな大碓の文字で兄橘、とある。
そんな場所に布を込めていたことにも、書かれていたのが己の名であることにも驚いて眼を見開く。
いくらか震えている手で、急いで開く。
大碓らしい力強い文字が、簡潔に綴られている。

お前がこれを手にしている時、私はこの世には最早おるまい。
小碓を頼む。
私がどのような死に方をしたのだとしても、あれを支え、守ってやって欲しい。

それだけで、終わっている。ぎゅ、と握り締める。
「貴方様……」
なぜ、よりにもよってこのようなことを。
大碓を手にかけたのは、他ならぬ小碓であったのに。
小碓のことを、私に頼むとは。
強く首を横に振る。
そんなことは、出来ようはずが無い。
最も大事な人を奪った人間を、支え守るなど。
それが、例え最も大事な人の、最後の頼みであったのだとしても。
「お許しくださいませ、貴方様。私には、それは出来ません。私に出来ますのは」
きり、とした視線が、宙を睨み据える。



翌日、小碓の始末を耳にした兄橘は、二つのことに驚く。
一つは、小碓が処刑されず、熊襲征伐に一人で向かうこととなったこと。
もう一つは、小碓は何ゆえ兄を手にかけることとなったのか、一言も申し開きをしようとしなかったこと。
気持ち荒ぶるままに手をかけた、と、それを繰り返すばかりだったという。
わからない、わからない。
ここ数日、大碓はひどくなにかに追い詰まっていた。
それは、帝へと届けるよう命ぜられた自分たち橘姉妹を、己の手中に収めてしまったからかと思っていた。
確かに、それも一因だったろうが。
だが、それ以上の何かが、大碓を追い詰めていた。
そう思うのに、大碓は何も言ってはくれず、一人逝ってしまった。
そしてまた、小碓も何も言おうとはせず、一人旅立とうとしている。
兄橘にわかるのは、一つだ。
大事な者を奪った者は、まだ生きている。
のうのうと、生きているのだ。



剣の腕は己よりも上だ、と大碓は言っていた。
が、あまりにもあっさりと剣先をかわされ、兄橘は唇を噛み締めて睨み上げる。
小碓は、襲ってきたのが誰なのかを知り、酷く驚いた顔つきになる。
「兄姫?!兄姫ではないですか?!」
一瞬の間の後、悟ったのだろう。視線が、ふ、と落ちる。
「兄上の敵討ちに参られたのですね?」
す、と膝をついたので、わびるのかと思った。が、そうではない。
叩き落とされたはずの小柄を、握らされていた。
驚いて、小碓を見やる。
苦悩に満ちた、悲しい顔が見つめ返している。
「どうか、ご存分になさって下さい」
言うと、座ったまま姿勢を正し、瞼を落としてしまう。
いい覚悟ではないか。
小柄を握り直し、構えて見つめる。
正面から見つめて、ぎくり、とする。
双子だとは知っていた。が、こうしてまともに小碓を見つめるのは初めてだ。
あまりにも。
あまりにも、大碓に似過ぎている。
微かに、小柄を持つ手が震える。
同時に、一人生き延びたのだと知ってから、その命あることが許せない一点だった心に、いくらかの平静が戻ってくる。
小柄を、下ろす。
「その前に、お教え下さい。なにゆえ、大碓命様を手にかけられましたか?」
問いに、ぎくりと小碓が瞼を開ける。
「何も……私が兄上を殺してしまった、ただ、それだけです」
覗き込めば、その瞳が揺らいでいるのがわかる。少なくとも、ただ理由もなく殺すような人間ではないことはわかる。
「大碓命様は、何かに追い詰められていらっしゃいましたが、私には何も話しては下さいませんでした。あのことは、何か委細あってのことに違いありません。どうか、本当のことをお教え下さいませ」
必死の兄橘の視線に、負けてしまったかのように、小碓の視線は落ちる。
口が開きかかり、躊躇うように閉じられる。
「小碓命様、どうか!」
その声に、心からの必死が込められているとわかったのだろう。
視線を落としたまま、ぽつり、と小碓は言う。
「兄上は」
微かに、声が震える。
「兄上は、妄想に取り付かれていたのです」
ぐ、と拳を握り、空を見上げて立ち上がる。
「帝や皇后に疎まれ、命を狙われているという妄想に」
言葉を失い、兄橘は小碓を見つめる。
まさか、そのようなことが。
「帝に刃向けると言う兄上を、私はお止めしました。誰にも告げませんから、兄上もお忘れくださいとお願いいたしました」
小碓の声が滲む。
「ですが、兄上はお聞き届け下さらず、剣を抜いて切りかかってきたのです。そして、揉み合ううちに、私はこの手でッ」
まさか、大碓がそこまで追い詰められていたとは。
刃を先に向けたのが、大碓だったとは。
なんてことだろう。
大碓は、己の父を手にかけようとしていた。そして、それを止めようとした弟にも刃を向けた。
小碓の言葉に、嘘は無いと信じられる。
それが、昨日起こった全てなのだろう。小碓は己が身を守ろうとしただけだったのだ。兄の凶刃から、逃れようともみ合っただけだったのだ。
だが、だとすれば、真実を告げれば正当防衛と認められたやもしれない。少なくとも、ただ一人で熊襲を討てなどとは、命ぜられなかったろう。
「小碓命様は、なにゆえそれを帝に告げなかったのですか?」
兄橘の視線の先で、小碓の頬には涙がつたっていく。
が、答えは返ってこない。
「まさか、大碓命様のお心を隠す為に?名誉を守られる為に?」
「私は、恐ろしかったんです。兄上は賢いお方だ。妄想などではなく、現実なのでは、と」
そのまま、顔を覆ってしまう。
小碓が無言を貫き通したのは、ただ大碓の為だった。
命を失い、言葉を発せられぬ大碓が悪し様に言われることの無いように。
立派な日嗣の皇子であったと、言われ続けるように。
呆然と言葉を失っている兄橘と同じ視線に、小碓の顔が戻ってくる。
「兄姫、お願いがございます」
まだ涙の残る瞳が、まっすぐに兄橘を見つめる。
「私は兄を手にかけた大罪人です。この手で兄を殺しました。今、一人熊襲を討ちに行ったところで、死ぬのは明白。どうか、その小柄で私を刺してはくれないでしょうか?」
言葉を終えると、また、座り直して瞼を閉ざしてしまう。
大碓を手にかけてしまった小碓の苦悩は、目前にしていれば痛いほどに伝わってくる。
そして、ただ一人で熊襲を討つという帝の命の無謀さもわかる。
遠回しに、死ねと言っているのに他ならない。
敵の手で悶え苦しむくらいならば、この手で一挙に命奪ってしまった方が、小碓にとっては楽なことかもしれない。
小柄を、握り直す。
が、決然と命を差し出すことに決めた小碓の顔は、あまりに大碓と似過ぎている。
お前を娶ることに決めたと告げた、大碓の顔に。
と、同時に、頬の涙の痛々しさに泣きたくなる。
大碓は、なぜ、この心優しい弟に刃を向けたのだろうか。
大碓に手にかけたことに、こんなに苦しんでいるのに。
そこまで思った瞬間。
あの絹に記された言葉が、鮮やかに甦る。
どのような死に方をしたとしても。
大碓は、小碓の手にかかることを感じていたのでは?
もう一度、小柄を構え直す。
でも、このように苦しむとは思わなかったのでは?
瞼を閉ざしたまま、拳を握って来るべきものを待っている小碓を見つめる。
まじまじと眺めて、軽く首を横に振る。
大碓の心が、まるで流れ込んでくるようにわかったのだ。
大それた企みが成功しようとしまいと、ただ小碓と運命を共に出来れば、それで良かったのだ。
そして、その望みが叶わぬくらいならば、小碓の手にかかりたかったのだ。
心優しすぎる弟が、苦しみぬくことを知っていながら。
だから、後を託していったのだ。
小碓を助け、支えて欲しいと。
「小碓命様」
呼びかけられ、驚いた顔つきで見つめ返す小碓の瞳を覗きこむ。
「小碓命様、私には貴方様を刺すことは出来ません。大碓様の生き写しで、ずっとお優しいのに」
小碓は、ぽかん、と眼を見開いて兄橘を見つめている。
「兄姫?」
「お待ちしておりますから、生きてお帰り下さいませ」
兄橘の言葉に、小碓の瞳が揺れる。
「でも?」
「どうか、生き延びて下さいませ」
まっすぐに言われて、小碓はそっと兄橘を引き寄せる。
「兄姫……」
大碓を自らの手で失った小碓には、待ってくれる人など誰もいないと思っていたのだろう。
大事そうに、そっとそっと手を回してくる。
兄橘は、しっかりと抱きしめてやりながら耳元で告げる。
「小碓命様の側には、大碓命様がきっとついていらっしゃいます。お一人などではございませんとも。大碓命様は、誰よりも小碓命様のお心をわかっていらっしゃいます」
「そうだろうか。そうであってくれれば良いが」
大碓の手による絹を見せれば、納得するかもしれない。そうすれば、心強く旅立てるかもしれない。
「大碓様のお心を記したものが……」
それを告げようとした瞬間、遠く声が聞こえる。
小碓を呼ぶ声とわかった途端、二人は慌てて距離をとる。
「小碓命様、必ず帰って来て下さいませ。お待ち申し上げております」
立ち上がり、すばやく小柄を拾い上げた兄橘に、小碓は戸惑った声を上げる。
「兄姫!」
大碓の心を記したものが、と言われて気にならぬはずは無い。
だが、返って良いかもしれない。
知りたいとなれば、生きる力にもなるだろう。
「どうぞ、必ず!お待ち申し上げておりますから」
もう一度繰り返し、背を向ける。
走りながら、ただ祈る。
どうか、大碓の心が通じますように、と。
生きて、今度は笑顔を向けてくれますように、と。

2005.04.20 Hold he dear




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