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夏の夜のLabyrinth

■■■花屋に贈る花の始まり■■■



屈辱だと思った。
それまで、敗北という文字が浮かんだことなど、なかった。
努力しないでも、なんでも得られると思うような愚かさはないと自負していたし、得たいものがあるのなら血反吐吐くほど努力するということも知っていた。
その時点で、人よりも一歩は抜きいん出ている、という自信もあった。
少なくとも、自分の周囲にそんな人間はいなかった。
育った環境が、独特であったからもしれない。
大企業のご令嬢。
それが、私の立場だった。
努力をすれば、その気になれば、欲しいものは全部手に入る。
そう信じていたし、ずっとそうだった。
天宮財閥の跡取りである、天宮健太郎との結婚の話が来た時、今までの努力が実ったのだと思っていた。
財界一のやり手の息子は、俊才の聞こえが高かったし、実際、見てくれも良かった。
あまり社交界などは好きではなさそうで、たまに現れても、どこか陰のある表情だったけれど、それはそれでカッコいい、などと女の子たちの間では囁かれてた。
彼と結婚することは、最高のステータスと、最高の夫を手にした、という意味。
自分が、最高の女、という称号をもらったのも同然のことだったのだ。
だから、誰にも譲る気は無かった。
天宮の言う、誰よりも大事な人間、とやらにだって。
私は、愚かにも信じ続けていたのだ。
想いだって、努力で手に入れられるのだ、と。
だから、努力に努力を重ねた。
天宮と麻子さんとの間に生まれた子である俊を、慈しみ、大事にして。
ごく自然に、お母さん、と呼ばれるようになり。
俊がいる時には、天宮の表情も柔らかくなる。それが見たくて、私は俊をかわいがっていたのかもしれない。
躰が弱く、ずっと病院にいたという亮も、同じことだった。
入院し続けていただけに不憫なのか、天宮はひどく気にかけて、よく部屋に入り浸っていたから。
だから、この子も私を、お母さん、と呼ぶようになれば。
一方で、五年以上努力しても、少しも振り返ろうとしない天宮に、業を煮やしはじめてもいた。
だから、伸之介さんの言葉に耳を傾け、協力することにしたのだ。
伸之介さんは、天宮が憎悪に近い感情を差し向けているにも関わらず、結局のところ逆らえずにいる相手だったから。
だから、伸之介さんが味方になれば、嫌でも私の方を向く。
そんなことを、おぼろげに思っていた。
それなのに。
天宮は、鮮やかに、全てをひっくり返してしまった。
後ろ暗いことに手出しをしていた伸之介さんを国外退去に追い込み、その周囲を固めていた有力政治家たちを別の汚職で逮捕しつくして。
そして、私と別れた。
全てのしがらみを、ばっさりと切り捨ててみせたのだ。
初めての、敗北。
屈辱だと思った。
このまま、大人しく引き下がるつもりなど、さらさら無かった。
少しでも、刃を返したくて。
だから、俊を引き取ったのだ。
自分に懐いていたからじゃない。
ただ、天宮を傷つける為に。

「お母さん、お母さん」
ぱたぱたぱた、という足音がして、佳代の思考は途切れる。
俊が、すぐ側まで走り寄ってきたのだ。
闇のような考えが渦巻いていることなど、何も知らない瞳が、切なそうな表情を浮かべて覗き込んでくる。
「ね、お腹すいたー」
「そこに、パンあったでしょ」
慣れない家事、慣れない商売。
正直言って、お金がなければ食べることすら出来ないわけで、まずは慣れないながらも商売が優先になっている。
ということは、家事は完全にお留守なわけで。
かといって、全て外食にするほどのお金も無く、とてつもない物体が食卓に並ぶ日々だ。
当然、俊も佳代も、それをお腹いっぱいに詰め込む勇気などない。自然、安く買えて味も問題ないモノが増えつつあった。
パンも、そのヒトツ。
「パン、朝食べちゃったよう」
言われて、舌打ちしたいような衝動にかられるが、佳代はかろうじて我慢する。
「そう、じゃ、好きなの買ってらっしゃい」
ハンドバックを引き寄せ、いくらか握らせてやる。
「お母さんは、なに食べたい?」
正直、頭の中がぐるぐるとして、なにか食べるという気持ちにはとてもなれないのだが。
なにか胃に入れないと、店頭にすら、立てなくなる。
「ヨーグルトがあったら、買ってきて頂戴。なにも、入っていないのよ」
「わかったー、ヨーグルトー、ヨーグルトー」
忘れないようにするためか、まじないのように呟きながら、俊はごそごそと靴を履くと、振り返る。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい」
かろうじて、笑顔で手を振る。
天宮の子供である俊を、自分にひきつけておくには、完璧な母親でなくてはならない。
が、今のところ、家事が完全にお留守だ。
せめて、笑顔がステキな、ぐらいはしなくてはなるまい。
完全に、俊の後姿が消えてから。
佳代は、大きなため息を吐く。

通いなれたコンビニへの道を、軽い足取りで歩いていた俊は、前から来る人影に首を傾げる。
相手が、実に深々とおじぎをしてみせたからだ。
首を傾げたまま近付いて行って、そして気付く。
相手は、天宮家の執事、榊だ。
「ご無沙汰しております、俊様」
家を出てからも、この老練な執事は、佳代にも俊にも敬意をもった態度を崩さない。
俊にとっては敵となった天宮の家の人間だが、酷いことをしてのけたのは主である健太郎と、かわいい弟と信じていた亮の二人だけだ。
榊はなにも悪くない、と俊の中では分類されている。
「こんにちは、榊」
ぺこり、と俊も頭を下げる。
「おでかけでいらっしゃいますか?」
榊は、軽く首を傾げて、尋ねる。
「うん、コンビニに、ヨーグルトとパン、買いに行くんだ」
「おやつでございますか?」
「ううん、お昼。ヨーグルトはお母さんの分」
「さようでございましたか」
何気なく会話をしながら、榊は俊と並んで歩き始める。
すっかり春爛漫の空気は、なにやらのんびりとしていて気持ちがいい。
俊は、機嫌が良さそうに眼を細める。
そんな様子を見ながら、榊は、もうヒトツ、問いを発する。
「時に俊様、母の日の贈り物は、なさいましたか?」
「母の日?」
問い返して、はっとした顔つきになる。
そういえば、年に一度のお母さんにお礼を言う日、を忘れているではないか。
慌てたように首を横に振る俊に、榊は穏やかな笑みを浮かべる。
「さようでございましたか、それはいけませんね」
「うん、いけない。どうしよう?」
かなりな困惑顔で、俊は榊を見上げる。
「そうでございますね、僭越ながら、ご提案させていただいてもよろしゅうございますか?」
「なんか、いい考えある?!」
素直に、ぱっと顔を輝かせる俊に、榊は頷き返してみせる。
「お花を、贈られなさいませ」
「花ぁ?」
俊は、ぽかん、と口を開ける。
「花なら、ウチにいっぱいあるよ?」
見飽きてるんじゃなかろうか。商売もまだ軌道に乗っていないことは、子供の目から見ても明らかだ。
が、榊は珍しく、笑みを大きくする。
「そこでございますよ、お店にある花は、全て、他の方への贈り物となっていきます。だのに、花屋でいらっしゃるからこそ、どなたもお花を贈ろうとは思い至らないのでございます」
「あ!」
榊に言われて、それこそ俊の眼は、大きく大きく見開かれている。
言われるまで、全く思い至ってなかったが、まったくその通りではないか。
花が身近にあるからこそ、誰も花を贈ろうと思わない。花が好きだからこそ、花屋という商売を選んだのに。
「すごい、榊、すごいよ!うん、そうする。ね、もうちょっと行った所に花屋あるから、一緒に選んで」
「榊がですか?いえいえ、そのような」
「お願い、ね?」
「では、お供するだけさせていただきます」
大きく頷くと、俊は、いきなり走り出す。
「俊様?」
「早く早く、お母さん、コンビニ行くだけと思ってるから、遅くなったら心配するじゃん!」
ぶんぶん、と手を振って呼ぶ俊の姿に、榊はいくらか笑みを大きくして、彼なりに急いで追いつくことにする。

俊が手にしてきた花を見て、佳代の眼も、大きく見開かれる。
「コレ、私に?」
「うん、母の日、過ぎちゃってゴメンね」
にこにこと、嬉しそうな顔がこちらを見つめている。
「お母さん、お花好きなのに、お花屋さんになったら、だーれもくれないんだもんね」
言われて、何度か、瞬きをして。
その、素直な好意に、泣きたいような気持ちになる。
俊を引き離して、天宮を傷つけようとして。
その為に、本当のことは、全部隠して。
何も知らないからこそ、この笑顔なのだと思うけれど。
「そう、そうなのよ」
泣きたいような、ではなくて、泣いていたかもしれない。
「ありがとうね、すごく嬉しい」
明るい色の花と、屈託の無い笑顔と、自分への限りない好意。
そう、自分は。
そんな気持ちを、誰かに捧げたことがないくせに、欲しかったのだ。
ずっとずっとずっと。
単純なことに、やっと気付かされる。
天宮を、傷つけてやる。
そんな言い訳をして、唯一、自分へ好意を向けてくれる者を、手放したくなかったのだ。
ぎゅ、と、思い切り抱きしめる。
「ありがとうね、頑張るから、ものすごく頑張るから」
「うん、一緒に頑張ろうね、僕、いろいろ見てきたんだよ、お花屋さん」
「え?」
言い出したことに驚いて、佳代は躰を話して、俊の顔を見つめる。
「えーっと、ショウバイガタキって言うの?でも、いちおう先輩だから、どんな工夫してるのかなぁって、僕、見てきたんだ、だから、一緒に頑張ろう」
また、じわり、と涙が浮かんでくる。
ごめんなさい、を心の中で、何度も繰り返す。
俊に、それから、天宮へと。
ごめんなさい、でも、お願い。
いつか、必ず返すから。
だから、この子を私の側に置いておいて。私が、強くなれるまでの間。



榊は、お茶を淹れながら、静かに告げる。
「俊様は、お花を持って帰られました」
その言葉に、健太郎はパソコンに向かっていた顔を、微かに上げる。
「そうか」
とだけだが、ほんの微かに空気が緩んだのが、榊にはわかる。
「これで、佳代さんも大丈夫だろ、元々強いからなぁ」
微苦笑が、口元に浮かぶ。
ほんの微かに、榊は首を傾げる。
「だって、そうじゃないか?絶対に振り向かない男相手に、六年間も頑張れるんだから」
相変わらず、口元には微苦笑が浮かんでいるが、その口調に嫌味はない。
榊の口元にも、微かな笑みが浮かぶ。
「さようでございますか」
「お互い、時間が必要なんだよ」
それは、自分に言い聞かせているようでもあり。
す、と一歩下がってから、そっと付け加える。
「俊様は、お元気そうであらせられました」
「ああ」
一瞬、その顔に父親がかすめて消える。

そして、また、いつも通りの日常が始まる。


〜fin.

2004.01.09 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Begining of flower gifts for florist〜


■ postscript

迷宮完結リクもの。
榊が動く裏には、糸引く影一人、でした。


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