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夏の夜のLabyrinth

■■■ いつかの未来への ■■■



テーブルに置いた弾みに、グラスの中の氷が澄んだ音を立てる。
その音が気に入ったのか、彼はグラスを手にすると、軽く揺らす。
高く、澄み切った音。
いくらか眼を細めて、聞き入った風だったが。
やがて、ぽつり、と言う。
「ものすごく年をとると、現在がわからなくなるものらしい」
隣で、マイペースに自分のグラスを空けていた彼が、視線をよこさずに、軽く、片眉を上げる。
ほんのかすかの仕草での静かな問いに、彼が答える。
「百を越えた婆様がな、自分が嫁いだ場所も生んだ子供のことさえもわからなくなってしまっているのに、ただ、生まれ故郷の名を繰り返すんだそうだ」
眉だけで問うた彼の口元に、ふ、と穏やかな笑みが浮かぶ。
「子供に返ったのか、それとも」
「さて、な」
グラスの中の氷が、また、音を立てる。
無意識にグラスを揺らしたことに、彼は苦笑する。
それから、また、ぽつり、と言う。
「俺たちは、どうかな」
穏やかな笑みを浮かべたまま、彼が応える。
「そうだな、子供まで、返るヒマがあるかどうか」
「それはそうだな」
苦笑が、大きくなる。
その苦笑を見て、穏やかな笑みが、ふ、と掻き消える。
ますぐな視線に、彼は苦笑を消す。
「大丈夫だ」
珍しい、はっきりとした答えに、彼は微苦笑を漏らし、それから、立ち上がる。
「悪い、もう、行かないと」
「ああ、夜の飛行機だったか」
「時差埋めの時間ももらえない」
おどけたように肩をすくめるのに、彼は口の端をゆがめる。
「時差埋め分で、ここに来たんだろうが」
「おっしゃる通り、自業自得ってヤツだ」
彼も、にやり、と笑う。
「悪かったな、呼び出して」
「いや、俺も会いたいと思ってたところだったから」
「よく言う」
にやり、としていた笑みは、緩やかに穏やかなモノへと変化する。
「子供に戻るヒマはないだろうが、多分、いくらかは戻るだろうな、そう、二十歳くらいには」
それだけ言うと、彼は、本当に背を向ける。
その後姿を見送ってから、彼はまた、グラスを傾ける。
もう、中身がない。
彼は、軽くグラスを上げる。
カウンターの向こうで、静かに頷いた男が、同じものを注ぐ。
新しいグラスを手にした彼の口元に、また、うっすらと笑みが浮かぶ。
ああいうクサいことを、何気なくさらりと言ってのけて、そして嫌味がないのだから参る。
でも、多分、彼の言うとおり。
いつか、思い出すのはあの日のことに違いない。
たとえ、何年経っていたのだとしても。


〜fin.

2003.12.31 A Midsummer Night's Labyrinth 〜For the far future〜 Presented by Yueliang


■ postscript

残っている方がジョー、仕事で旅立つのが忍。
『10years』を読了済みの方は忍がどんな職につくかご存知と思いますが、その関連です。
場所は、モスコーミュールではありません。



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