『 ゆきのうた 』

 冷たいものが一つ、俊の首に触れた。
 あれ、と顔を上げる。
 見つめた先に広がる、空に異変は一つもない。
「や、ちょっと異変がないってのは違うか」
 実はよく分からないのだ。
 見上げた世界にあるのはただただ広がる闇の黒だったから。もう夜だ。
 しばし立ち止まって、異変をまつ。けれど。
「なんもないか」
 呟いて、歩き出して。
 また、一つ。
「つめた」
 なんだかからかわれている気分だ。
 苦笑しながら歩き出して、俊は目的地へと急いだ。
 とりあえずコレをコレで解決してきてください、といわれたのだ。
 確かに全員でいくようなことでもなかったし、自分がもっとも得意とすることでもあったから、向かうことに異議はなかった。
 ただ、なぜ、バイクではなく徒歩で行きたくなったのかは分からない。
 雪が激しくなってきた。
 先ほどまでは探しても目視できなかったというのに。
 ふる、と首を振った。うかうか物思いにふけっている場合ではない。
「積もるだろうな、これ」
 白い雪が視界をくもらせていく。肌にふれたソレはすぐに水となり、つもることなくきえていくけれど、それでもいつかは積もることをしっている。
 まだ本当に無邪気だった頃に、自分は聞いたことがある。
『なあ、ゆき、きらい?』
『すきもきらいもありません』
『そうなんだ』
 なぜ、自分はそんなことを、聞きたくなったのだろうか。
 ただ雪が、全てを白く染め抜く雪が、よく似ていると思ったのは覚えている。
 それからまた、なにか二言三言、会話をした。
 けれど思い出せない。それがどんな会話だったのか。


 想像以上に任務は早くに終わってしまった。
 一晩泊まっていくといい、といわれたけれど、なんとなく気が乗らなかった。 
 外を見れば降り続いた雪ももうやんでしまったのが分かる。
 だから丁寧に申し出を断って、歩き出した。
 歩く。
 殆ど雪は残っていない。
 それでも少しずつ、雪が残っているのを発見して俊は目を細めた。


「亮」
 呼ばれて振り向く。
 くい、と首をかしげるようにして、コーヒーカップを手にした忍がいた。
「どうしました、忍?」
「俊のバイクそのままだけど、あいつ歩いて出かけたの?」
「ええ、そうみたいですね。バイクのほうが?と言いましたが、気が乗らないと」
「気が乗らない?」
「そういいましたね」
「なに、それ。あいつ腹でも壊した?」
 真剣に忍が眉をよせたので、亮はおかしくなって少し笑う。
 たしかに俊がバイクで出かけるのを厭うのはおかしい。
 おかしすぎるといっても足りないくらいだ。
 バイクのメンテに失敗するわけもないよなあ、と忍が真剣な声でいうので、「なんとなく歩きたいからと言っていましたよ?」と付け加えた。
「俊自身で理由が分かってないなら、たんなる気まぐれってことか」
「そうでしょうね。忍」
「ん?」
 呼び止められて忍が振り向くと、ほかほかのおにぎりと香ばしい玄米茶を差し出される。
「なんか夜食ねだりにきたみたいだなあ」
「ねだられずとも、持って行こうと思ったところですよ」
 亮に笑われて、忍はありがたくソレを頂戴した。ぱくり、と握り飯を口に運んだのをみてから、亮は「そういえば」と目を細める。
「任務のほうはもうおわったと、連絡がありました」
「まあ、そうだろ。得意範囲だろうし」
「そうですね」
 くすり、と笑って、亮はくるりと忍に背をむけた。
 その拍子に、見えた。

「雪が降っている……」

 呟いて、ぱちり、と亮は瞬きをした。
 拍子に、唐突によみがえってくる記憶がある。
 にっこりと笑った、子供の顔と声だ。
『おれはね、ゆき、すきだよ』
『そうですか』
『すぐにきえちゃうけど、きおくにのこるから』
 あの子供はそういって、外に飛び出していったあと、雪を一握りつかんで戻ってきたのだ。
 はい、と渡された雪を受け取ったとき。
 いつもは自分よりもよほどか高い体温をしている手が、冷たくなっていたのが。
 不思議だ、と思った。


 くすり、と笑った。  それに忍が気づいて、亮をうながすように首をかしげる。
「雪だから」
「は?」
「積もることなく消えていくだろう、雪が」
 それだけ答えて、亮は口をつぐんでしまった。
 渡された雪は当然ながらすぐに溶けてしまった。
 目の前にいた子供は口をへの字にして、なにやらバツの悪そうな顔になったのだ。
 消えてしまうものを渡したのが、よくなかったと思ったのだろう。
 けれど。
 嬉しかったのだ。
 消えてしまうとか、そんなことは関係ない。
 ただ、姿は消えても記憶に残るというものを、カレがくれたのが嬉しかった。
「亮?」
「なんでもありません。ここはもう終わりますから」
 心配なく、という言葉を暗にふくめて亮は笑った。


 全員がねしずまった頃。
 そうっとそうっと、俊は玄関のドアをあけた。
 首筋に、今度はふわりと暖かいモノ。
「あ」
 思わずぬくもりにふれた首筋に手をやった。
 指先は凍りつくように冷たくなっている。だから冷気がまた全身をかけぬけたけれども。

「なんというか、その、なあ」
 嬉しいっていうのかな、こういうのは?
 暖かい空気がふれたのは、戻らぬ人のために居間の空調がそのままになっていたからだと、理解してしまった。
 何時になったとしても、戻る、と判断してくれたからだ。
 誰も起こさぬようにと、静かに中にすべりこむ。
 途中でキッチンによった。
 当たり前のように、布のかけられた夜食がおいてある。当然のように、添えられた箸は俊のものだ。
 指で箸を転がした。メッセージがそこにあるわけではないけれど、ちゃんと分かる。
 おかえりなさいと、おつかれさま、だ。
「調子狂うなあ、今日は」
 頭をかき回して、苦笑を一つ。
 誰もここにいないと知っているから、昔を思い出して少し泣きたくなってしまった。
 もちろん、本当に泣きはしないけれど。


 冷凍庫には、小さな雪だるまが一つ。




+++ 竹原湊 サマ +++

誕生祝いにいただいた幸せの一品です。雪なのに、どことなく温まります。
そして、忍はもちろんなんですが、俊がどことなくカッコよくてありがたいことです。亮の柔らかさとか、なんかこう、読むだけでふんわりとさせていただいて幸せいっぱいです。
とても優しい話を、ありがとうございます!
返しは、こちらで↓。




『 Snow chant 』

通信機を使うほどのことでも無いと判断したのだろう、亮からの任務完了の連絡は電話で入る。
当然の結果なので、健太郎はあっさりと、そうか、とだけ返す。
一瞬の間があってから、亮が付け加える。
「歩いて行ったようですよ」
主語は無いが、誰のことかはわかる。任務内容を考えたら、想像力の欠片も使わずにわかる話だ。とすると、大変に珍しいことが起こったことになる。
無意識に、眉が寄る。
「腹でも壊したのか?」
健太郎の反応がおかしかったのか、受話器の向こうから小さな笑いがこぼれる。
「忍も同じことを言いましたよ。確かに珍しいですが、少し失礼ではないですか?」
「いや、忍くんの反応は正しいね」
さらりと言うと、亮は苦笑気味の声で返してくる。
「すぐに消えてしまう雪が、降っていたからでしょう」
その程度の雪で、と返そうとして健太郎は口をつぐむ。
亮は、ささやかな謎を投げてよこしたのだ。なんの、と思考を巡らそうとして、ふ、と目前に景色が開ける。
それは、幼い俊が頬をいっぱいに膨らませた顔。
『ゆきが、ふってたの!おとうさんにも、みせたかったの!』
仕事が忙しく、三日ほど家を空けた後だった。だからこそ、寂しさもあって俊はひどく怒っていた。
物心ついて、初めて見た雪だったのもあったろう。
健太郎は、しっかりと視線の高さを合わせて、俊の瞳を覗き込んだ。
『雪は、見たよ』
『ほんとうに?』
帰ってこられないほど忙しいのだ、というのは子供心にわかっているらしい。疑う視線が健太郎を睨み付けた。
『うん、こんな小さいのが、ちらちらと舞ってただろう?手に乗せると、すぐに消えてしまうんだ』
雪を見たのは、本当だった。移動途中に、ほんの偶然ではあったけれど。
『ちょっと離れた場所にいたけれど、俊と同じ雪を見たよ』
健太郎も見ていたのだ、とわかり、怒りは解けたらしい。代わりに、寂しそうな顔つきにかわった。
『いっしょにあそぼうとおもったのに、きえちゃった』
俊の肩に手を乗せ、ゆるやかに微笑んだ。
『雪はすぐに消えてしまったけれど、記憶には残ってるよ』
何を言われたのかと、俊は目を大きく見開いて健太郎を見つめた。
健太郎は、もう一度、ゆっくりと繰り返した。
『俊と同じ雪を見たのを、覚えてるってことだよ。俊もそうだろう?雪が降ったのを覚えてるだろ?』
『うん、おぼえてる!おとうさんもみてたっていうのも、おぼえたよ!』
笑顔になったのを、くしゃ、と撫でた。
『今度は、一緒に見られるといいな』
『うん!』
満面の、自分を信じきった笑顔。
それを裏切ったのは自分自身のことを思い出して、健太郎は苦笑する。
なるほど、亮の謎の意味はこのことだ。
たった一年過ごした間に、俊はいつもベッドの上にいる亮に同じことを言ったのだろう。
年相応の少年だった俊に、小賢しい言葉が出てくるはずがない。当然、それを教えた人間がいる。
それを、無意識に俊が思い出したのだろう、と亮は伝えてくれているのだ。
大好きだった、と過去形でしか現せない父親を、忘れたわけではない、と。
「ああ、そうか」
ぽつり、と返して、もう一つ、付け加える。
「あれは、俺じゃない。麻子が言ったんだ」
また、少しの間の後。
「そうでしたか」
どこか、やわらかい声が返る。
「じゃあな」
通話を切って、もう、雪の気配などどこにも無い空を見上げる。
もう一つの景色が、目前を掠めていく。
『綺麗ね。私、健ちゃんと一緒に見た景色は忘れないわ。この雪はすぐに消えてしまうけれど、ずっと覚えているわ』
鮮やかな笑顔と、風に揺れる髪と。
もう、どんなに手を伸ばしても届かないけれど、それでも。
彼女は確かに、あの子たちに何かを残してくれている。
健太郎は、静かに瞼を落とす。

2006.02.19 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Snow chant〜



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