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 見之後、到遇見  アッテカラ、デアウマデ

最初に影に住み込んだのは、父親だった。
ニールが生まれる直前に、死んだはずの。
母親にほっとかれがちのニールの面倒を、マメに見てくれた。
だから、怖くもなんとも無かった。
ただ、母からは忌み嫌われた。
「気味の悪い子。影としゃべってるなんて」
面と向かって言われたことも、何度もあった。
母親が、ニールのことを嫌う理由はもうヒトツ。父親の血を引いていると、はっきりとわかる容姿のせいもあったろう。
褐色がかった肌も、漆黒の髪も、少し釣り上がった目も、瞳の色も、どれも父の血から譲り受けたモノだったから。
母親にとっては、責められているも同然だったのだろう。
己の殺したも同然の男に、そっくりな息子を見せつけられて。
結局、母親は、ニールをサーカスに売り飛ばすことで、厄介払いついでに金をも手に入れようとした。
ニールがサーカスと共に旅立ったところで、父親は別れを告げて影から消えていった。
風の噂で、骸骨に抱きしめられるようにして母親が死んでいた、と聞いた。

二人目は、とてつもなく我侭なヤツだった。
勝手に伸び上がってきたりするのは、日常茶飯事。
おかげで、金を出して買ったはずのニールを、サーカスは放り出すことになった。
そこそこ技を覚えていたおかげで、どうにか食いつないだ。
影に住み着いた当人は、勝手に満足して勝手に出て行った。

それからも、何人も何人もが、ニールの影へと住み着き、どこかへと消えていった。
人に対しては、己の秘密を隠すために愛想が良くなり、反比例するように影の住人には素っ気無くなっていった。
そうでなければ、とても付き合いきれなかったから。
なぜ、ニールの影にだけ、わけあって天に行けない人が住むのかわからない。
父親が、長いこと住んでいたせいかもしれないし、元々そういう体質だったから、父親も住めたのかもしれない。
考えてもせん無いことだ。
止める手立てはどこにもないのだから。



何人目なのか、数えてないから、わかりようもない。
ただ、来たと言うことだけは確かだ。
ちら、と振り返ったニールは、面倒くさそうに尋ねる。
「で?じいさんはなにが心残りなわけ?」
「年寄りに対する態度がなっとらんな。年上に、特に年寄りに対しては、常に尊敬の念を持って相対さねばならん」
影は、ゆらりと揺れて、咳払いをする。
ニールは、芝生の上に腰を下すが、影はにょっきりと伸びて立ち上がる。
「なんじゃ、そのいかにも面倒くさいという態度は」
「面倒なんだよ、実際。だいたい、人の影に勝手に住みついといて、尊敬しろもなにも、あったもんじゃないと思うんだけどね」
いくらか細くなった目に睨みつけられて、影はもう一度咳払いをする。
「むむ、確かに許可も取らず影に入り込んでしまったことは詫びるに値する。この通りじゃ」
殊勝に頭を下げられたところで、状況が変わるわけではない。
「で、なにが心残りなんだよ?」
「名前すら名乗っとらんのに、質問ばかりするもんじゃない」
同じ問いを二度やられて、影はムッとしたらしい。
が、影以上に、ニールの方がずっとムッとしている。
「名前なんか関係ないよ、心残りをどうにかしてくれないと、じいさん影に居着きっぱなしになっちまうんだよ、迷惑なんだ」
「迷惑!この年寄りに出て行けと!」
さらに、ニールの目が細まる。
「だーかーらー、話聞いてないのはどっちだよ。心残りが片付かないと、じいさん昇天出来ないんだよ。だから、とっとと心残り片付けようという建設的な意見を述べてるんじゃないか」
「同じことじゃ、心残りを片付けて出て行けということじゃろうが」
影は、ステッキ持参なのか、地面を小気味いい音で叩く。
「なっとらん、本当になっとらん!」
ずず、と大きくなってきた影に、ニールは相変わらずの冷ややかな視線を向ける。
「ほぉら、俺は座ってるのに影はどんどんでかくなる。おかげさまで、母親に売られてこの方、どこにも長居出来たためしがないんだよね」
ぴたり、と影は動きを止める。
「捨てられた?実の母親に?」
ひどく、驚いた口調だ。
冷ややかな笑みは、皮肉なものへと変化する。
「別に、驚くことでもないだろ?影が勝手に動いて、それとしゃべる子なんて気持ち悪いに決まってるさ」
肩をすくめる。
「実の親だってそうなんだから、ましてや赤の他人がねぇ?」
「では、お前さまの影には、いつも誰かが住み着いていると?」
影の問いに、もう一度、ニールは肩をすくめる。
「今だって、じいさんの前のヤツが勝手してくれたおかげで、何度目かわからないお払い箱さ、どっか俺のコト知らないサーカス探さなきゃ食ってけ無い」
「むむ、それはいかん、それはいかんぞ」
影は、考え込むように軽く首を傾げ、それから慌てたように元に戻して、するりと縮む。
「座ってとるお前さんの影は、こんなもんかの。月は高く昇っておるし」
半ば独り言のような言葉に、ニールはまたも肩をすくめる。
「俺のホントの影のフリをする気?無理無理、前にもそう言ったのはいたけど、ちっとも出来なかったんだから」
「そりゃあ、お前さんにお前さん自身が見えんように、わしにはわしが見えんからのう。お前さんが教えてくれにゃ」
ニールは絶望的なポーズで首を横に振る。
「そりゃ無理だね、俺だって普通にしてたらどんな影が落ちるのか、見たこと無いんだから」
「まぁ、多少は難があるかもしれんが、長さは想像付けられるじゃろ、お前さんと同じ高さのモノを並べてみればいい」
言われて、ニールはいくらか目を見開く。
「確かに、それはいい考えかもしれないな。思い付きもしなかったよ」
「年の功じゃ」
いくらか得意気に、影が答える。
口うるさそうだが、なんだか憎めない性格のようだ。
ふ、と口元に笑みが浮かぶ。
「そりゃありがたいね。で、もう一度確認するけど、心残りはなに?」
「ふむ、かなり長いことかかろうてのう」
先ほどまでの直截な物言いからは想像のつかないような、妙にもったいぶった口調と言葉だ。
微妙に嫌な予感を抱きつつ、ニールは首を傾げる。
「時間がかかる?」
軽く、影は頷いてみせたようだ。
「そうさのう、わしはサーカスを見に行くのが好きでのう、特に、あれじゃ、軽業じゃな」
「綱渡りとか、空中ブランコとか」
ニールが指折り数えたのに、影は大いに頷きかかって我に返って止める。
「そう、それじゃ。で、ずっと思っておったのじゃよ」
そこまで言われれば、なんとなく話が見えてくる。
「自分で、やってみたい」
二人の声が揃う。
「そういうことか、なるほど」
思わずため息をつく。先ずはサーカスにもぐりこまなくてはならないのは、影も一緒、というわけだ。
「じゃ、せいぜい大人しくしててもらわなきゃな。俺、軽業そのものもピエロも出来るから。上手く行けば、派手なこと出来るよ」
「ほう、そりゃ楽しみじゃのう。早く雇ってくれるサーカスを見つけにゃならんのう」
影は、それはそれは嬉しそうに言ったのだが。
ニールの視線は、いくらか漂う。
現実を知っているのは、本日居候になったばかりの影よりも、ニールの方だ。
「まぁ、上手く行くよう祈るしかないね」

影は、ほどなくしてニールの言葉の意味を覚る。
手酷く雇うことを断られて、憤慨しているのは影の方だ。
「なんじゃなんじゃ!影が多少伸び縮みしたからとて、不気味だからじゃと!人間を見ぃ、人間を!」
エライのは、唾を飛ばしそうな勢いで怒っているにも関わらず、影の大きさが変化しないところだ。
自分が立てる物音は、ニールにしか聞こえないと知っているので、ここぞとばかりに怒鳴るのはいただけないが。
「まぁまぁ、いつものことだから」
「確かにな!これで何回目じゃ!腹立たしい!」
ニールは、苦笑を浮かべる。
「仕方ないよ、じいさまが悪いわけじゃないからさ、そんなに怒らなくても」
「わしが悪いかどうかじゃないわい!確かに、前の間借りしてた輩にも腹は立つがのう!人様の場所を借りておいて、好き勝手をしくさるとは全くもってけしからん!」
サーカス仲間の間の噂は早い。
ニール・ラーセンは、腕はいいが不可思議なモノに取り付かれているらしい、と知れ渡ってしまっているのだ。
不可思議なモノなど、誰も背負いたくはないわけで、結果、不採用となるわけだ。
ごくたまに、本職がケガや病気で困りきっていて、数日代役として立つことはあっても、座付きになる可能性は無いといっていい。
結果、舞台に立つよりも、次の拠り所を探して旅する期間の方がずっと長い、というわけだ。
「確かに、じいさまが楽しめる時間が少な過ぎるか」
「わしは、そんな小さいことで怒らん!お前さんを、取り付かれてるとかなんとかという評価しか出来んバカ者どもに腹が立つんじゃ!」
ニールは、思わず足を止めて、影を見つめる。
「言うたじゃろうが、わしは何年も何十年もサーカスを見ることを楽しみに生きてきたんじゃ!軽業を見た回数は、お前さんが演った回数なんぞより、ずっと多いわい。そのわしが保証する、お前さんの腕は、最高じゃ!天下一品と言うていい!」
熱のこもった声が本気だと示す為か、ごほん、と咳払いをしてみせる。
どんなに熱が入ったとしても、ニール当人の影というカタチを逸脱しない。
ニールの口元に、ふ、と笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
「バカもん、わしの言葉なんぞで満足するでない、認めるだけの器量があるサーカスを探すんじゃ」
ありがたいハッパだが、現実はそんなに甘くは無い。
「そんなに上手く行くかな」
「希望というもんは、灯かりのないところに灯かりを点すもんじゃ」
ニールの笑みが、いくらか大きくなる。
歩き出しながら、笑みはにやり、としたものへと変わる。
「なるほどね、勉強になるなぁ。亀の甲より年の功ってね」
「これ!年寄りをからかうもんじゃない!」
返事は、笑い声。
何年ぶりだろう?心から、声を立てて笑ったのは。

相変わらず、日雇いに近いままに、様々なサーカスを回る日々が続いたけれど。
次のサーカスを探して歩くニールの足取りは、今までよりもずっと軽い。
「なんじゃ、機嫌が良さそうじゃのう」
「なんとかなるかな、と思ってね」
に、と口の端に笑みを浮かべる。
「なんとか、とな?」
尋ね返す影の声は、不機嫌なモノではない。
「うん、なんとか」
ニールの笑みが、大きくなる。
「なんとか、のう」
繰り返す影の声も明るい。
「さて、次に向かうのはどこじゃったかのう」
「フィンスターワルド・マジック・サーカスってとこだよ。軽業師が一人、引退したんだってさ。おっきなところだから、人数が欲しいらしい。上手く行けば、しばらくは食べてけるんじゃないかな」
ニールの説明に、影は、ほほう、と唸る。
「団長のベンジャミン・ドーフマンはけっこう出来た人らしいし。ま、ダメでも公演を見るのは悪く無いと思うよ。ブライアン・キャヴェンディッシュがいるんだってさ」
「ブライアン・キャヴェンディッシュ!」
思わず、影の声が大きくなる。
「ほう、ほう、あのキャヴェンディッシュが旅を共にするとはのう。手品も天下一品じゃが、人品も相当なものじゃて。お前さん、これは脈があるかもしれんて」
「へーえ、じいさまがそこまで言うような人なんだ。それは、ちょっと楽しみかな」
二人の目指す先に、カーニバルでにぎわう町が見えてくる。
ニールの足が、いくらか速くなる。

団長のドーフマンは全く屈託の無い笑顔で迎えてくれる。
「ラーセンくん、かなりの身軽だと聞いているよ」
ということは、フィンスターワルド・マジック・サーカスにも、不可思議な影を持つということは知れている、ということだ。
だが、団長の居場所まで案内してくれた者にも、ドーフマンにも、奇妙な人間だとて引く様子は無い。
それだけでも、ニールにとっては心地いい場所だ、と思える。
案内された先のテントには、軽業の為のロープや空中ブランコと、一人の人。
「はじめまして、ブライアン・キャヴェンディッシュと言います」
柔らかな笑顔で、手を差し出してくる。彼の表情にも、おかしな人間が来たという素振りは全く無い。つられるように、ニールも笑顔になる。
「はじめまして、ニール・ラーセンです」
握手を終えたのを見て、ドーフマンが視線を上へと上げる。
「先ずは、君の身軽さを見せてもらえたらと思ってね。まだ、私たちは君の演技を見たことがないものだから」
その言葉も、純粋に職を求めてやって来た人間を評価しようとするだけのモノだ。
「はい」
頷いてから、ニールも用意された舞台を見上げる。
「自由に使わせていただいてもよろしいですか?」
「もちろんだ」
ドーフマンが頷くのを見て、ニールは、にこり、と笑う。
「では、お言葉に甘えまして」
広げた両手は、すでに舞台に立つ人間のモノ。
大きくお辞儀をしてみせると、綱渡り練習の支えに使うのであろう棒を握って、一気に飛び上がる。
「おお」
綱の上に立ったニールに、ドーフマンの口から感嘆の声が漏れる。
舞台に立ってさえしまえば、ニールにとってはこちらのモノだ。
空中ブランコも綱の上も、歩くも飛ぶも回転するも思いのままなのだから。
次々と飛び出す大技に、ドーフマンもキャヴェンディッシュも拍手を惜しまない。
一通りの演技を終えて降りると、ひときわ大きな拍手で迎えられる。
「素晴らしい!看板になれるだけの腕があるねぇ」
「演技に花があるのが、特に素晴らしい」
出来ると認められたことは何度もあるが、心からの賞賛だど思える言葉は珍しい。
ニールは、素直に頭を下げる。
「ありがとうございます」
が、ドーフマンの顔には、いくらか困った表情が浮かぶ。
「是非にうちに加わって欲しいのだが……こりゃ、参ったなぁ」
おやおや、とニールは心の中で呟く。
自分の噂を気にしていないと思ったのだが、自分よりもずっと多い人生経験が上手く包み隠していただけだったのだろうか。
ドーフマンは少し考えていたが、意を決したように話し出す。
「そのだねぇ、ウチにいる皆よりも、出来すぎてしまってるんだよ。ラーセンくん、失礼を承知でお願いするのだが、皆のレベルに合わせた演技をしてくれる気はあるだろうか?甘いと言われるかもしれんが、一生懸命ウチでやってきてくれている子たちを、見捨てることは出来んし」
「つくって言っておるわけじゃないようじゃぞ」
黙っていた影が、そっと口を挟む。
日々の糧を得なくてはならない立場だ、贅沢は言っていられない。それに、技を抑えるだけでいいのなら、ここは居心地が良さそうだ。
いつも口うるさい影も、ドーフマンを認めたようだ。
ニールは、頷いてみせる。
「はい、問題ありません」
「本当かね!助かるよ、今日からでも、加わって欲しい」
身を乗り出すだけでなく、しっかりと手を握られて、いくらかニールは戸惑う。
「ええと、あの、では」
「もちろん、給料は君の技量に見合った金額にさせてもらうよ、無理して抑えてもらうのだからね。それから、もうヒトツ。もしも、この先、本当に君の技量を発揮出来る場所が見つかったのならば、遠慮せずに申し出てくれたまえ。あれだけの技を、このまま埋もれさせてしまうのは余りにも惜しいからねぇ」
今までには提示されたことの無い好条件に、上手く頭がついていかない。
少なくとも、雇ってもらえることには決まったらしい。
「あの、ありがとうございます」
思い切り、頭を下げる。
「いやいや、こちらこそ無理をお願いする立場だ、よろしく頼むよ」
にこやかに告げられる。
「さぁ、皆にも言って来なきゃならんな、新しい仲間が加わったと」
いそいそと歩いていくドーフマンを見送ってから、キャヴェンディッシュがもう一度手を差し出す。
「ようこそ、フィンスターワルド・マジック・サーカスへ。嬉しいよ、君が仲間に加わってくれて」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
手を握り返すと、キャヴェンディッシュは笑みを大きくする。
「君には、いい道連れがいるようだね。その方にも、ここが気に入ってもらえることを祈っているよ」
ニールの目が、見開かれる。
噂を信じていないのか、と思いかかっていたところで、はっきりと言われてしまった。
「とても軽業が好きな方なんだろう?ほんのちょこっとだけね、君が見事な空中回転を決めた時に、はしゃいでらっしゃったよ」
「す、すまん」
影が、慌てた声で謝る。
いつも、本当に見事に影になりきってくれているのを、ニールは知っている。
本当に、ほんの少しだったろう。影の勝手には敏感なニールが、気付かなかったほどに。
それよりも、問題は、だ。
「あの……」
「大丈夫、ミスタ・ドーフマンも私も、一緒にいらっしゃる方を含めて君をここに迎えて問題ないと判断したのだから。知っていて気付かないふりでは、窮屈なままだろう?」
イタズラを企んでるような笑顔で、ウィンクしてみせる。
「もちろん、節度は必要だけどね?あれくらいなら、普通の人はまず、気付かないよ」
ニールと影は、どちらからともなく、顔を見合わせる。
もう一度、キャヴェンディッシュをまっすぐに見つめる。
「ありがとうございます」
心から頭を下げる。
「よろしくお願いします」

団長の作る空気なのかどうか、新参者のはずのニールもあっという間にフィンスターワルド・マジック・サーカスに溶け込めた。
軽業の仲間たちも、気さくで楽しい連中ばかりだ。いつも、笑いが耐えない。
「少々小技に終始するのがいただけんが、居心地はええのう」
影もすっかりここが気に入った様子だ。
「でも、前よりもずっと技も磨かれてきたんじゃないのかな」
ニールの言葉に、影も頷く。
「そうさのう、お前さんの地道な教え方がいいんじゃろうよ。最近は、なかなかに教える方も上手くなって来たぞ」
「そりゃ、どうも」
にこり、とニールは笑う。
そういえば、影はすっかりとニールの元に居ついてしまったようだ。
毎日のように軽業が出来る上に、目前でブライアン・キャヴェンディッシュのマジックときたら、好きな者にとってはたまらないのかもしれない。
それはそれで、いいか、とニールは思う。
影が気に入ってくれていて、自分もここに落ち着いていられて。
落ち着くことが、初めてだったからだろうか。
驚くくらいに、早く時は行き過ぎた。
年老いたピエロが、さすがに舞台に立てないとなったのは、次の町へと到着する直前のこと。
ドーフマンに呼び出されて、代役をしてくれないか、と頼まれる。
「急なことで済まないが、だからこそ、君しかいなくてね」
「もちろん、喜んで」
笑顔で頷いたニールに、ドーフマンも大きく頷く。
「ありがとう、一人で舞台に立つことになるわけだから、思い切り演じてくれてかまわんよ」
軽業の仲間たちも、ニールが思い切り演じられると知って、大いに喜んでくれる。
ピエロも、ニールの手を握って、何度も何度も頭を下げる。
「すまんね、道化を頼んで。でも、ニールの演技は私も知っているよ、お客様を喜ばせてくれるのは、ニールしかいない。頼むよ、頼むよ」
人の良い彼の手を、ニールもしっかりと握り返す。
「俺は道化も好きだから、大丈夫ですよ。それよりも早く元気になって、俺の演技がダメだったところ、ちゃんと教えてくれなきゃダメですよ」
皆から離れてから、影が含み笑いを漏らす。
「なんだよ?」
首を傾げたニールに、影は楽しそうに言って返す。
「お前さんの口から、あんな殊勝な言葉が聞けるとはのう」
最初に出逢った時、どれだけつっけんどんな物言いをしたのか、ニールも忘れてはいない。
「ほっとけ」
ニールの頬がいくらか赤くなっているのを見て、あまりからかっても可哀想だと思ったのか、影は話題を変える。
「おや、お客様のようじゃの」
言われた先を、ニールも見やる。
「へーえ、なかなか舞台栄えしそうな子だね」
「いっちょまえのことを言いおって」
叱っている口調では、もちろん無い。
「だってほら、俺もこの世界で生きてる方が長くなったからね」
「ふむ、それもそうだの。なかなかに技も磨かれてきているが、まだまだ修行の余地はあるぞ」
説教好きの影らしい言葉に、ニールは口元に笑みを浮かべる。
自分のテントへと戻り、公演の為の衣装などを確認してるところへ軽業仲間が顔を出す。
「ニール、キャヴェンディッシュさんところに新しい弟子が来たんだって、見に行かない?」
「新しい弟子?」
首を傾げるニールの手を、もう一人の仲間が引っ張る。
「行こう行こう」
「かわいい女の子なんだって!」
結局のところ、ニールも好奇心に勝てず、一緒に付いて行く。
やはり、今朝見かけた女の子だ。
アイリーンというらしい、と、先に覗き込んでいた猛獣使いたちから教えられる。
「なかなか、スジが良さそうなんだよ」
「キャヴェンディッシュさんの教え方が上手いんだろ、グレンだってアレだけ出来るようになったんだぜ?」
と、もう一人。
「いやほら、見てみろよ」
誰かが指差して、皆の視線がテントの中のアイリーンに集中する。
キャヴェンディッシュに教えられたのを、さらりとやってのけて、にこりと笑う。
「え、今、何回目?」
「コレは一回目だろ」
「すっげ、危なげないじゃん」
口々に感心する声に、影のモノも混じる。
「ほう、ほう、ありゃ見事な腕じゃな。ああいうのを、神に祝福された手と言うんじゃ」
思わず、ニールは返してしまう。
「神に祝福された手?」
言ってしまって、しまったと思う。が、周りに影の声は聞こえないから、その言葉はニールが発したモノとして受け入れられる。
「なるほどー、聞いたことあるある、天才以上の手を持ってるってことだよな」
「へーえ、神に祝福されたかぁ、わかるわかる」
あっという間にその言葉は仲間たちに広まり、そして町へと広まる。
そんな野次馬たちの目をよそに、アイリーンは毎日のように次々とマジックをモノにしていく。
団長が、本格的にマジックを学ばないかと誘いかけたとか、日々噂にはこと欠かない。
そんなこんなで賑やかに過ぎ行って五日目。
いつも通りに、ニールが公演の準備をしていると、だ。
「ふぅむ、お前さんのところに世話になって、もう随分になるのう」
影が、いきなり言い出したので、ニールは口元に笑みを浮かべて首を傾げる。
「いきなりどうしたの?確かに、随分になるけど」
何年になるのかとか、そういうことは忘れてしまった。でも、このじいさまが影に住み着いてから、随分と変わった。
まさか、こうしてヒトツのサーカスに年単位で身を置くことが出来るようになるとは、思いも寄らなかったことだ。
「お前さんのおかげで、わしは随分とサーカスも軽業も楽しませてもらっておるわい」
楽しげだが、今まで、こんなことを口にしたことは無い。
ニールの笑みが、どことなく硬いものとなる。
「じいさん?」
「わしはの、このままずーっとずーっとお前さんの影に住みついておるつもりでおったのよ。そうすりゃ、お前さんは影に妙なもんがいることに、そう酷くは悩まされんで過ごすことが出来ると思うてな」
そのことには、おぼろげには気付いていた。
とっくに、影自身は満足しているのではないか、と。
ずっとここにいるのは、もしかしたら自分の為なのではないか、と。
でも、それを口したら終わってしまう気がして、黙っていたのだ。
それを、影が言い出してしまった。
「……行くのかな?」
ずっと、一緒にいてくれた。
初めて、自分を認めてくれた。
いつの間にか大事な存在へと変わっていたことに気付かされて、声が微かに震える。
「お前さんの影を、必要としている者がおるようじゃ」
「俺の影を?」
ニールと影以外は誰もいないテントの中で、するり、と影が伸び、はっきりとした老人を形取る。
「よく聞くんじゃ、お前さんの影はのう、わしらのようなものを隠すことが出来るんじゃよ」
「隠す?」
ニールがおうむ返しにしたのに、影は深く頷く。
「そうじゃ、人からだけでなく、あらゆるモノからのう。それこそ、化け物だろうがなんだろうが、じゃ」
影の口調には、熱が入る。
「いいかの?選ぶのはお前さんじゃ。いま、なにかからどうしても逃げたいと思っておるワケありの御仁が、こちらに向かっておる。わしの見る限り、かばうに値する御仁じゃが……」
こんなに急に、別れが来るなど思ってもみなかった。出逢った時には、いかに早く出てってもらうかばかりだったのに。
に、と笑みを作る。
「わかったよ、引き受ける。じいさんの推薦なんだろ?信じるよ」
「お前さんの運命は、また大きく変わるじゃろう。じゃが、お前さんなら、必ず乗り越えられる。わしは、信じておるよ」
手が伸び、ふわりと掠めるように頭をなでるように動く。
「お前さんの旅路に、幸が溢れておるように」
「じいさんの旅路にも」
精一杯の笑顔を浮かべる。
一瞬、影が微笑んだように見えて。
すっかり慣れていた気配が、消える。
思わず周囲を見回すが、どこにも気配は無い。
代わりに、風のように別のなにかが収まる。
ニールは、再び影を見下ろす。
「俺の影に住み込む為のルールは二つだ。俺の影の形を崩さないこと、俺が演技している間は、絶対に邪魔をしないこと」
「ありがとう、心からお礼を言うよ。おじいさんから、君なら絶対に助けてくれると言われて……」
ニールが目を見開いたのに、新しい影の住人は戸惑ったように問う。
「もしかして、迷惑だったかい?」
「いや」
軽く首を横に振る。
「名前、聞いておこうかな」
じいさんの名前は、最後まで訊かなかったけれども。
影は、静かな声で答える。
「サイラス、サイラス・ガードナー」
思わず、もう一度目を見開いたところで、足音が近付いてくる。
「ニール!」
軽業仲間が、勢いよく顔を出す。
「キャヴェンディッシュさんとこに、すごいお客様が来たよ!」
「すごい客?」
顔を上げたニールの顔に、先ほどまでの驚きは無い。
「うん、あのからくりの天才、リフ・バーネットが来てる!」
リフ・バーネットの名は、ニールも知っている。彼の作るからくりを得たサーカスは、必ず成功するとまで言われた人物だ。
最近は、己のサーカスを作るために旅をしているという、もっぱらの噂がある。
なにかが動き出している。
それだけは、はっきりと感じる。
じいさんは、運命が動くだろう、と言った。
ニールにしか、出来ないことがある、と。
本当に、己の影で誰かを救うことが、出来るだろうか。この特殊な体質が、役立つのだろうか。
どちらかといえば、不安の方が先立つけれども。
に、と笑みを浮かべて、立ち上がる。
「へーえ、面白いな、それ」
灯かりが無いのなら、点せばいい。
じいさんが点してくれた希望を消さずにいれば、いつかきっと。



〜fin.


2004.11.01 Vespertin Masic 〜yu jian zhi hou, dao yu jian〜

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