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暁月夜



元帝は、彼女の頬に伸ばしかかった手を止めた。
床から見上げている彼女の表情は、どう見ても不機嫌だ。
部屋を訪れた時は、間違いなく微笑んだと思ったのに。
たまには、皇帝に愛されることを望まない女もいることは知っている。だが、機嫌がよかったのが急に不機嫌になるのは、別の理由しかあるまい。
元帝は横になりかかった体を起こすと、彼女にそっと尋ねる。
「王昭君よ、なんぞ気に障ったか?」
元々、気性のやさしい性質だ。無理強いはしたくないと思ったのだ。
尋ねられた方の王昭君は、後宮の女にはない素早さで起き上がると、まっすぐに元帝を見る。
その視線には、まったく怖じたものはない。
「私は、様々なことを語り合える御方を夫としたいと思っておりました」
「ほう?」
話が見えぬまま、ひとまず元帝は相づちをうつ。
「郷里の者が言うには、それは陛下以外にはおるまいと」
「で、後宮に入ったのか?」
「はい」
真剣な瞳で、こちらを見つめたままだ。
「様々な、とは曖昧であるな……そなたのしたい話とは、如何様なものだ」
「天の理、史、音曲、民、すべてでございます」
元帝は、ひとつ、瞬きをした。
それらはほとんど、男が語るべきとされるモノではないか。
彼女は、それを語りたいと言う。
「ふむ……」
稀に、そういう才気走ったつもりの女も入ることがある。おままごとでも、一度付き合えば気も済むモノだ。
元帝は、柔らかい笑みを浮かべる。
「では、今日はそなたと話をするとしよう」

ふと、元帝が我に返った時。
外はもう、しらじらとし始めていた。
「夜が明けたか」
少し目を細めて、元帝が立ち上がる。さすがに王昭君も驚いたようだ。
「申し訳ありませぬ、本日の執務に差し障りましょう」
「いや、そなたとの話は実に有意義だった」
元帝の顔には、疲労ではなく喜色が浮かんでいる。心からの言葉のようだ。
「実を申せば、最初はおままごとに付き合えば良いと思うておったのよ」
王昭君は、微笑んでこちらを見つめる元帝を、ただじっと見詰める。
「ところが、そうではなかった……また来ようぞ」
去っていく時の後ろ姿は、後宮にふらりと立ち寄る1人の男ではなくて。
漢をいう国を背負う、皇帝のモノだった。
王昭君の頬は、紅に染んでいる。
元帝と同じく、彼女の顔にも疲労の色はない。
あるのは、喜びだ。
やっと。
やっと、自分の話に耳を傾けてくれる男が現れた。
ただ、閨の相手を求めるだけではなくて。その容姿を愛でるだけではなくて。
やっと、幸せになれるのだ。

言葉通りに、元帝は幾度も王昭君の部屋を訪れた。
語り合うのは、孔孟の思想のことであったり、話題になっている詩であったり。
夢のような日々。
王昭君は、語り合うために部屋を清め、身を飾った。
少しでも、元帝が長く語り明かしてくれるように。
望み通り、皇帝は夜が明けるまで語り尽くした。

今日は政治だ。
いまの漢王朝にとり、最も難しい課題である匈奴との均衡をいかにして保つか。
戦をするのは、愚かだ。
いまの兵力では、勝ったとしても犠牲が多すぎる。
だから、和平の使者が必要だ。
そこまでは、意見が一致している。
「どのような使者を送るべきであろうか?」
元帝は、大和殿で政務と執るときと同じ視線で尋ねる。王昭君も、たじろぐことなくその視線を受け止める。
「ただ和平をもたらすだけではなりますまい、恒久の和平でなくては」
「うむ、それには何が必要と考える?」
王昭君は、しばし考えてから何かに思い当たったかのように、すこし肩をびくりとさせた。が、はっきりと答えを口にする。
「長の時を共にする者が必要でしょう、常に漢と共にあると意識させるのでございます」
視線を、反らさずに続ける。
「漢の女を、妻として娶らせるのでございます」
一息に言った。
もう、なぜ元帝が、抱かれることよりも昼間充分に検討しているはずの政治、思想について語ることを望む女の元へと通ったのか、わかっている。
「その役目は、己がなにをすべきか理解しておる者にしか、勤まらぬ」
元帝も、視線をたじろがせることなく王昭君を見つめる。
「ただ、器量があるだけでも才気走り過ぎていてもならぬのだ……真に賢くなくては」
王昭君はただ、元帝を見つめている。
「そなたに、漢をあずけたい」
それは、王昭君が匈奴へと嫁ぐことを意味している。そう、その為に元帝は彼女を試していたのだ。
重責を、負うことができるかどうかを。
そして、彼女は合格したのだ。
華のような笑みが浮かぶ。
「私にそのようなお役目、ありがたく存じます……必ずや勤めてみせまする」
「うむ、半年後にはこの長安に呼韓邪単干が入朝する、彼が帰る時、そなたも同行せよ」
「御意」
深く頭を下げた王昭君を、しばし元帝は黙って見つめた後。
「それまでに、ごく一部の者しか知らぬことも、知ってもらわねばならぬ……またしばらく通うぞ」
その言葉だけをおいて、元帝は部屋を去った。

明日、呼韓邪単干が入朝するという夜。
久方ぶりに元帝が部屋に現れた。最近は互いに準備に忙殺されて、それどころではなかったのだ。
それまでは、実にまめに足を運んでいた。
後宮に足を運ぶ日は、必ず王昭君の元と言っていいほどに。
匈奴の話が無い日は、前と同じように史書や詩、政治について語り明かした。
互いに相見るのは、一ヶ月ぶりであろうか。
顔を見た王昭君は、その眉を微かにひそめた。
「陛下、すこしおやつれになられたのでは?」
「そなたもだ」
微かな笑みを浮かべる。
「……試したりして、すまなかった」
「いえ、私を見込んでくださったこと、感謝しております」
そっと、元帝の手が頬に触れる。笑みは、どこか奇妙な寂しさがあった。
「いつからか、そなたと語り明かすのが楽しみになっていた」
穏やかで、寂しい笑みを浮かべたまま言う。
「匈奴の地への旅は長い……体をいとえよ」
「陛下……」
思わず、自分の頬に触れている手に、そっと触れる。
言葉がいらないこともあるのだと、初めてわかった気がした。

外が、しらじらと明けてくる気配がする。
元帝が、その身を起こして外へと視線をやる気配がする。
「ほう」
その声に、彼女も視線をあげる。
「日が昇る中に、月も見ゆるわ」
でもその月は、すぐに沈んでしまう。日の、届かぬ場所に。
どんなに、日が追ったとしても。
もう二度と、その手は届かない。


〜fin.〜
2002.01.28 AKATOKIDUKUYO



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