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瞳の奥



「いいこと、麗華」
母は、大事と思うことを教える時は、いつもこう切り出すのだった。
「殿方は、嘘を吐く生き物です」
小首を傾げながら、少女は母の言葉の続きを待つ。
「殿方の嘘は、瞳をよく見つめれば、すぐにわかります。肝心なことは」
にっこりと、とっておきの笑みを、母は浮かべる。
「殿方が、私を想っているかどうかで、嘘を吐いているか、です」
「はい」
幼い少女は、素直に頷く。
「良い子ね、麗華」
母は、少女を抱き締める。
「いつか、貴方も、殿方に嫁ぐことになるわ。幸せになるのよ」
「母上は、幸せ?」
「幸せよ、旦那様が、いつも守ってくださっているもの」
父の陰陸は、昨年、亡くなった。
時折、寂しそうな表情をしていることもあるが、おおむね、母は微笑んで家のことを切り盛りしている。
「父上が?」
「そうよ、亡くなられる前に、いつも私を守ってくださるってお約束をしたの」
「母上は、父上の瞳を見たの?」
無邪気な質問に、優雅に頷いてみせる。
「もちろんよ」
そして、やわらかに微笑む。
麗華もにっこりと笑って、母に抱きつく。

あれから、時は流れて。
いま、麗華の前にいるのは、困惑顔の夫である。
劉秀、字を文叔。
漢の高祖劉邦から数えて九代目の孫にあたる。漢王朝を滅ぼした王莽を追い詰めた一端を担った将であり、いまや光武帝と呼ばれる立場にある。
「……なりたくてなったわけでは、ないがな」
歯切れの悪い口調で、劉秀は言う。
思わず、麗華は吹き出しそうになるのを堪えた。
世間では、慎重居士として知られるが、時としてそれは優柔不断とも取れる決断の鈍さになる。
ここ、という場では、乾坤一擲の決断を下すくせに、だ。
だが、麗華はこの夫のことが嫌いではない。
本音のところを言えば、心から想っている。
嫁いだのは、劉秀が王莽軍最大の軍勢を破った翌年だった。彼はすでに二十九歳で、麗華も十九歳の時のことだ。
婚礼するには、遅めといってよいだろう。
「貴女に相応しい立場になってから、迎えたかったのだ」
劉秀は、照れ臭そうに笑った。
麗華は、彼の瞳を覗きこんだ。
嘘はないと、信じられた。
結婚してすぐに、北方征伐に望んだ劉秀は、そこで皇帝に即位した。寄っていた更始軍に、とうとう見切りをつけ独立したのだ。
「生きるのならば、皇帝になるしかなくて、な」
ケ禹とことを謀った時には、こんなにぐずぐずしていたはずはない。
きっぱりと決めて来たはずだ。
皇帝になること事体に、迷いはないはずなのだ。
問題は。
「皇后を、立てねばならん」
やっと、劉秀はそれを口にした。
いま、彼を悩ませている一番の問題は、それなのだ。皇帝になったからには、体裁というものがある。
妻のある身なのだから、当然、皇后が必要だ。
一夫多妻が当然であるが故に、彼には麗華の他に、もう一人妻がいる。
名を、郭聖通。
同じく劉家の一族である真定王劉楊の姪にあたる。劉秀が北方平定を成し遂げられたのは、彼の兵力に拠るところが大きい。
いま、彼の機嫌を損ねるのは、得策ではない。
よく、わかっている。
わかっては、いるのだが。
「そなたを、皇后にしたいのだ」
麗華は小首を傾げると、夫の顔を覗きこむ。
正確には、その瞳を。
その奥にある色を、すばやく読み取る。
麗華を皇后にしたい、という劉秀の言葉には、嘘はない。
それから、尋ねる。
「でも、いま聖通の叔父の助けがなくなっては、困るのでしょう?」
「それは……困る」
いま、十万余の大軍に抜けられるのは、致命的になりうる。
「では、聖通を皇后になさい」
劉秀の心が自分にある限り。
その立場は関係ないということを、麗華は知っている。
皇后になりたくないか、と問われたら、なりたい、と答えるだろう。愛する夫の隣りに並ぶのは、自分でありたい。
「麗華……」
劉秀は、そっとその頬に手をやる。
「本当に、それでよいのか?」
「まずは、生きること、そうではなくて?」
感情を優先させることは、容易い。だが、それで滅びてしまったら、元も子もないのだ。
「いつかは、そなたを……」
口元に笑みを浮かべて、白い人差し指を開きかかった口に立てる。
「それ以上は、おっしゃらないで」
微笑む麗華を、劉秀は抱き締める。
「忘れるなよ、麗華、私が想うのは、そなただけだ」
ええ、知っているわ。
麗華は心でそう答えて、それから劉秀の背に手を回す。
「私も、いつも、貴方を想っていますわ」
貴方の瞳が、嘘をつかない限り。


〜fin.〜
2002.09.15 In your eyes



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