最後に、彼女が自分の名を呼んだのはいつだっただろう?
もう、それを考える気力すらなかった。
こちらを、見つめつづける瞳。自分を見ていない瞳。
嬉しそうに彼女は微笑んで、抱き寄せる。でも、その腕にいるのは、自分じゃない。
彼女は、甘い声でささやく。
『私の名前を呼んで』
彼は、ささやくような声で、彼女の要求に応える。
それ以上の声は、彼女を苦しませるだけだと、知っているから。
彼の声は、まだ『あの人』の声ではない。
ただ、彼女の求めるまま、何度も呼び続ける。
そして、いつものように彼を抱きしめたまま寝入ってしまった彼女を、ベッドに寝かせてため息をつく。
彼女の顔を見つめて、なんど言ったかしれない言葉を、もう一度つぶやいた。
「母さん、僕は、父さんじゃない」
そして、フリックは部屋を後にする。
フリックは、自分の父親の顔を知らない。
生まれる前に、なにかの戦闘で命を落としたのだと聞いている。
『そりゃあ、凄腕でなぁ』
父を知る者たちは、そう語る。
『で、ハンサムと来てたから、村中の憧れの的だったのさ』
そんな彼を射止めたのが、戦士村の紋章師の娘である、母だったのだという。
彼女もまた、その美貌で村中の戦士たちの憧れの的だったらしい。
結婚式のときは、村イチの美男美女のカップルだということで、話題になったとか。
みな、口をそろえて、本当に仲のよい夫婦だった、と言う。
そして、フリックをまじまじと見つめながら、お前は本当に、父親に似ているよ、と締めくくる。
そう、母は父を愛している。
父しか愛せない。
父が死んでから、十数年が経つ、今でも。
くや、狂気に虫食まれていっている彼女は、年々、父しか見えなくなっているといっていいかもしれない。
最初は、なにかのはずみ、というようにフリックをみて、父の名を呼んだ。
が、すぐに気付いて、彼の名を呼んで抱きしめてくれた。
「ごめんなさいね。あの人のいてくれた証拠に、あなたがいるのに」
彼女はそういって、微笑んでくれた。
それが、すこしずつ、焦点のあわぬ瞳でこちらを見るようになり、父の名を呼ぶ回数が増え、そしていまは。
彼女の瞳に映るのは、父だけになった。
外で、紋章師の仕事をしているときには、まったく狂気を感じさせないから、だれも彼女が狂っていることを知らない。
そう、誰も。
朝。母が目覚める前に、フリックは家を後にする。
フリックを目にした瞬間から、彼女の狂気は始まるから。それまでは冷静な瞳でゆったりと微笑んで、彼女は自分の仕事をこなすことができるのに。
でも、自分の愛する者を抱きしめずには、彼女は昼間の正気を保つことは出来ない。
家に帰るタイミングが、大事なのだ。仕事は、普通にする。でも、それ以上は、正気は保てない。
それを、誰にも知られる訳にはいかない。
彼女は、村で唯一の紋章師なのだから。この特殊なしきたりの多い村で、よそから来た者が商売をするのは難しい。
それは、わかっていた。彼女がいなくなってしまったら、村中が困るのだ。
だから、自分が背負うしかない。
そんな気配は、露ほども感じさせず、フリックは他の子供たちと一緒に、普通に戦士になるための修行をこなす。
修行が朝早くから始まるのは、ありがたかった。家を早く出る理由にできる。
でも、修行が終わったあと、他の子供たちと一緒に遊びに行くことは出来なかった。
母の元に帰らなくてはいけないから。
『本人に自覚はないみたいなんですが、ちょっと体調が悪くて』
彼がそう言うと、大人たちは納得して頷いてくれる。彼のちょっと困ったような視線と、彼女の線の細い美貌が、説得力を増しているのだろう。
でも、子供たち相手には、そうはいかない。
付き合いの悪いヤツ。そう言われて、仲間はずれにされた。
じつのところ、ほとんど笑わない、いや、他の感情も顔に出ないフリックを気味悪がっているところもあるのだが、そんなことは、フリックは知らない。
でも、いまではもう、寂しいとか、感じることも無くなっている。
そんな感覚さえ麻痺している、という自覚さえ、無くなっているのかもしれない。
ともかく、母の狂気を、誰にも知られたくない。
ただ、それだけだった。
その日も、フリックは修行が終わると、その足でまっすぐ自分の家へと向かう。
もう、子供たちのほうも、形ばかりの誘いをかけることすらしない。
家に着くと、いつものように自分を見つめて、彼女が笑いかける。
そして、彼の名ではない名を呼び、抱きしめる。
「あら、手袋が汚れているわ」
彼女はそう言って、フリックの手を取った。
修行中に転んだときにでも、汚れたのだろう。
「洗うわ、はずして」
言われるままに、フリックは手袋をはずす。
愛する人のために、彼女がかいがいしく世話を焼くのは、いつものことだ。慣れている。
しかし、今日はいつもとなにかが違った。
手袋をはずした彼の手を、彼女が呆然とした目つきで見ているのだ。
「……?」
彼が、怪訝そうに見つめかえす。
やがて、彼女が震える声で問う。
「ねぇ、紋章はどうしたの?」
言われて、はっとする。彼女は紋章師だ。そして父は剣だけでなく、紋章の使い手としてもなかなかだった、と誰かが言っているのを聞いたことがある。
父の手には恐らく、彼女が宿した紋章がついていたのだ。
まだ、修行中の身の上のフリックの手に、紋章などついているわけがない。
「これは……」
思わず、我を忘れてあとずさる。
彼の困りきった表情を見て、彼女はにこ、とした。
「わかっているわ。また誰か困っている人に譲ってしまったのね?」
そう言って、彼の手を、とる。
「大丈夫よ、また宿してあげる」
綺麗に微笑む、焦点の合わない瞳に、ぞっとする。
分不相応な紋章は、ヘタをしたら命取りだ。
でも、彼女を止めることは出来まい。
彼女の瞳に映っているのは、フリックではなくて、彼女の愛する夫なのだから。
そして、その夫は高位紋章を使いこなしていたのだ。
彼女の白い手が、こちらに伸びる。
「さ、手を出して?」
フリックは、一度、目を閉じた。それから、ゆっくりと、自分の手を差し出した。
いつも通りに、村長の繰り出してくる剣を受けとめたつもりだったのだが。
「っ!」
激しい衝撃を感じて、思わず顔を歪める。
フリックの手から、剣はあまりにもあっさりと、落ちた。
同年代の子供たちの間では、もっとも剣術に高じていているはずのフリックが、こんな簡単な一手で剣を取り落としたことに、まわりもちょっと驚いたようだ。
村長も、不思議そうに首を傾げたが、すぐにこう言った。
「ちょっと集中力に欠けているな」
その言葉で、周りは納得してしまったようだったが、そうでないことはフリックがいちばんよく知っている。
昨日宿された紋章が、彼の体にはまだ不相応だから、激しく痛みつづけているのだ。
でも、それを感づかれる訳にはいかない。
「すみません」
フリックは、頭を下げる。
「戦場では、一瞬の油断が命取りだぞ、気をつけろ」
「はい」
素直にうなずく。
そのまま、修行のほうはいつもどおりに進められ、今日も、急いで家路に向かおうとしたフリックは、村長に呼びとめられる。
「フリック」
「はい?」
振りかえった彼は、手招きされて村長の部屋の方に招かれた。
「大丈夫か?」
村長は、そう言った。
「え?」
思わず、聞き返す。
「手、怪我をしてるんじゃないのか?」
「いえ」
間髪いれずに答えるが、ぎくり、とする。
やはり、歴戦の勇士である村長の目はごまかせない。
「集中力がなかったのは、お詫びします、申し訳ありませんでした」
早口に言って、頭を下げる。
村長はそんなフリックを、しばらく黙って見つめていたが、やがて言う。
「謝らなくていいが……なにか、困っていることがあるのなら、遠慮無く言うんだぞ?」
母一人、子一人の自分たちのことを、なにかにつけて気にかけてくれているのは、よく知っているので、フリックは笑顔になる。
「ありがとうございます」
もしかしたら、この人生経験豊富な村長は、うすうす感づいているのかもしれない。
母が、狂気に取りつかれている、ということに。
でも、母のことを、誰にも言うつもりはない。
たとえ、それを相談して、親身になってくれる相手であっても。
そう、誰にも言わない。
彼女の瞳が、自分のコトを見てはくれないことは。
戦士となるための修行も、もう終盤、といっていいだろう。
このごろでは、外に実際にモンスター退治などに行くことが多くなっている。
十七歳になったフリックは、同年代、だけではなく戦士村のなかでも、トップクラスの剣術と紋章の使い手として、認められつつある。
今日も、彼は数人の仲間と近隣の村を騒がせている盗賊討伐に出ていた。
相手は自分たちの数倍の人数だったが、戦うことを専門に修行をしてきている彼らに、盗賊たちが敵う訳もない。
あっという間に雑魚どもは叩き伏せられ、あとは親玉だけになる。
追い詰められた彼は、最後の手段に火の紋章を発動させようとする。
それを見たフリックは、慌てるどころか、その端整な顔に、不敵な笑みを浮かべる。
「へぇ、剣で敵わないなら紋章ってワケか?」
剣を真っ直ぐ縦に構えると、呪文を唱え出す。
「天雷!」
相手が呪文を唱え終える前に、ひときわよくとおる声が響き、手にした細身の長剣が煌いたかと思うと、大音響と共に盗賊の頭目に激しい光線が落ちる。
声を上げるヒマさえなく、頭目は倒れ臥した。
これで、今日のお役目は終了、というわけだ。
剣術、魔法ともにトップクラスの上に、顔がいいのだから、戦士村だけでなく、近隣の村でも彼のことは話題になっている。とくに、女の子達の間では。
声をかけられれば、普通に応対しているようだが、別にもてて嬉しいといった風情でもない。
どちらかといえば、迷惑そうに見えることが多かった。
口さがない者は、『おふくろ以上に綺麗じゃないと、女にも見えないんじゃないか?』
などと言っているらしい。
そんなことには、お構いなしに、フリックは今日も役目を終えたその足で、家路を急ぐ。
外に出ることが多くなってから、彼女は本当にふせるコトが多くなっていた。
狂気に飲みこまれて忘れているはずなのに、夫が外で戦闘に倒れたことを、どこかで覚えているのかもしれない。
通常ならば、この村で一人前の戦士となるための最大の儀式『成人の儀式』のための旅に出るのは、二十歳前くらいだが、剣術・魔法ともにとびぬけているフリックをそろそろ、旅に出してもよい、
と言う声がある、と先日、村長から告げられた。口ぶりからいって、村長もそれに賛成らしい。
認められるのはありがたいことだったが、いま、旅に出たら彼女はどうなってしまうのだろう?
数日、家を空けただけで、臥せってしまうというのに?
家に着いたフリックは、もう夕方だというのに、客がいることに気付いて、ぎく、とする。
この時間はもう、彼女は正気を保つことは出来ないはずだ。
誰であろうと、彼女の狂気を見せたくはない。
慌てて扉を開ける。
ひどく勢いよく開いた扉に、中にいた者が、驚いて視線をこちらにむける。
「あら、おかえりなさい、フリック」
落ち着いた声がして、フリックは思わず手にしていた剣を取り落としそうになる。
この声は、間違い無く彼女のモノだ。
でも、いま発せられたのは、自分の名ではなかったか?
「おい、どうした?」
彼女とカウンター越しに向かい合っていた村長が振りかえる。
そうだ、いまは客がいるのだ。
驚きを顔に出してはいけない。
「あ、いえ……ただいま」
ぼそり、と言う。
「早かったな、今日も調子良かったみたいだな」
村長のほうは、笑顔でそう言った。フリックは、黙ってうなずいてみせる。
顔色を取り繕うのが精一杯で、声が上手く出なかったのだ。
「いま、許可をもらったよ」
「え?」
声がかすれかかったので、一呼吸おいてから尋ねる。
「なんのですか?」
「お前が、早めに旅に出る、だよ」
旅、というのは、もちろん『成人の儀式』のことだ。
フリックは、視線を彼女の方に向ける。
彼女は、にこにこと微笑んでいる。心から嬉しそうに見える。
母親の笑顔だ。
息子の成長が嬉しくて仕方がない、という。
ずっと、見たいと望んでいて、見ることの出来なかった笑顔が、目前にある。
狂気のかけらを、まったく感じさせない笑顔。
村長も、笑顔で続ける。
「準備さえ、いいのだったら、来週にも旅立ってもらおう」
それから、こう付け加えた。
「出発前に、剣の命名式をやるからな。よく考えとけよ」
「はい」
機嫌がよさそうな村長を見送って、もう一度、彼女のほうを見る。
相変わらず、彼女は母親の顔でこちらを見ている。
「嬉しいわ、さすがあの人の息子だけはあるわね、こんなに早く『成人の儀式』ができるなんて」
彼女はそう言って、にこにことしている。
「今日は、ごちそうにしましょうね。お祝いよ」
すっかり、狂気を収めてしまった彼女は、母親の笑顔のまま夜を迎える。
食事の間も、嬉しそうな笑顔のままだ。
「あなたは、剣になんて名前をつけるのかしら?あの人はね、私の名前をつけてくれたのよ」
そう、たいがいの戦士は、自分の愛する者の名を、剣につける。
自分のいちばん大事なモノの名を、剣の名とするのがこの村の『しきたり』だから。
そのことに関しては、フリックは戸惑っている。
母親の狂気に気を取られていたので、誰とも付き合ったこともないし、だいたい、誰かを好きだと思ったことがない。
というより、誰かを想うことを、避けてきた、と言ったほうがいいかもしれない。
彼女を見つめつづけていると、『想う』ということが、恐怖にしか感じられなかったから。
彼女の正気を奪ったのは、彼女の『想い』に他ならない。
だから、どんな女の子に何を言われても、心を動かされるということがなかったのだ。
真剣に言われれば言われるほど、うざったいよりは、恐怖を感じた。
自分に言い寄ってくる女たちも、いつ、正気を失うのかわからないのだ。
そう思ったら、誰かを『想う』ことなど、嫌悪すべき感情としか、思えなかった。
それは、間違っているということがわかっていながら。
でも、フリックにそんな考えを植え付けた当人の彼女は、昨日までの狂気を、まったく感じさせない笑顔で、こちらを見つめている。
ちょっと、はしゃぎすぎのように見えなくもなかったが、子供の成長を喜ぶ親というのは、こういうものなのかもしれない。そこらへんは、フリックには、よくわからない。
正気の親というものが、どういうものなのか、もうすっかり、忘れてしまっている。
「さぁ、どうしようかな」
フリックは、どういう笑顔が子供らしいモノなのだろうと、戸惑いつつ微笑んだ。
はっとして目が覚める。
そこに迫っているのは、間違い無く殺気だ。
「…………」
黙ったまま、相手がもっと自分に近付くのを待つ。
充分、引きつけきったと思った瞬間、毛布を相手に投げつけて、飛び起きる。
相手は、急に視界を遮られて戸惑ったようだ。
投げかけられた毛布を取ろうともがいている。
その隙に、窓の木戸を開け放った。
幸い満月で、かなり明るい光が部屋を満たす。
枕元に常に置いている剣を抜き払った。
相手も、毛布を取り去った。
そして浮かんだ相手の顔に、フリックは愕然とする。
完全に、狂気だけに支配された彼女が、そこには立っていた。
ぎらぎらとした瞳が、こちらを見ている。
息を呑む。
夕飯が終わり、おやすみ、と言ったときには完全に正気の瞳をしていたのに。
いまの彼女の瞳は、いままで見たことのない殺気と狂気をはらんでいる。
「………………」
彼女が、低い声でなにか言う。
「……え?」
戸惑いつつも、聞き返す。
「また私を置いて行くのね!?」
高い声が、そう叫んだ。
「また私を置いて、遠くへ行ってしまう気なのね?!」
言ったかと思うと、激しい勢いで斬り込んでくる。
すばやい動作で、それは避ける。
「行かせないわ、私を置いてなんて、行かせないわ!!」
剣を構えなおしながら、長い髪を振り乱して、そして彼女は叫んだ。
フリックの名ではない、別の名を。
「いやよ!私を置いていくなんて、許さないわ!」
またすごい勢いで、斬りかかってくる。
「置いてくくらいなら、私が殺してやるわ!!」
それから、幾度となく、叫ばれる自分ではない名に、耳をふさぎたくなる。
違う、とは言えなかった。
その名は、自分ではない、と。
そう、言いたかったのに。
おぼろげに分かっていた。今日の夕方の彼女は、最後に残された微かな正気だったのだ。
もう、彼女にあるのは、すさまじいまでの狂気だけ。
狂気を、彼女は選んだのだ。
大事な者を失ったという事実に耐えられなくて。大事な者の形見を失うかもしれない恐怖に、耐えられなくて。
たった一人で取り残されることに耐えられなくて。
そう、彼女にとっては、生きていること自体が、耐えがたい苦痛なのだ。
また、勢いよく斬りかかってきた彼女を、抱きしめた。
「苦しかったんだよな」
耳元でささやく。
「もう、大丈夫だよ……楽にしてあげる」
右手に持っている剣を、握り直す。
そして、感じるにぶい衝撃。
彼女の、微かな細い、そして嬉しそうな声が、彼のモノではない名を、はっきりとつづり、そして、力が抜けた。
それからの記憶は、どこかおぼろげだ。
すべてを察した村長のはからいで、フリックは母親殺しの汚名をかぶることはなかった。
母の死因は、病気、ということになったのだったと思う。
臥せりがちだったこともあり、誰も疑問をはさむ者はいなかった。
そして、フリックは剣に名の無いまま、『成人の儀式』に旅立った。
誰の名もこの剣には付かないのだろう、そう思ったことだけは、妙にはっきりと覚えている。
1999.05.29