その地名が出た瞬間に、ほんの微かにビクトールの表情が歪む。
もう、終わったことなのに、まだ痛みを感じる。
たぶんそれは、一生つきまとう痛み。
消えることの無い、それ。
「ノースウィンドウで、不審な出来事が……」
サウスウィンドウの市長、グランマイヤーの言葉が続く。
終わったことだ。
でも、見たくない。
もう、あの街は消えてしまったのだと、この目で何度も確認したくはない。
頭ではわかっていても、心の痛みは消えないから。
それなのに。
「ビクトールさん、あなたなら土地感があるでしょうから、調査に行っていただけませんか?」
それが、受け入れるための条件だということは、言葉にはしていないが、わかる。
選択の権利はないのだ。
ナナミが、楽しそうに言う。
「おもしろそう、私、行く行く!!」
たしかに、ちょっとした冒険に見えないことも無い。
場所がそこでなければ、ビクトールもおもしろがるところだ。
だけど、そこには、行きたくはない。
しかし、話は一方的に進められる。
サウスウィンドウ側の人間として、フリードも参加する、と告げられる。
見張り役ってわけか、と吐き捨てるように心で思った。
「じゃ、さっそく行ってみようよ!」
ナナミは大張り切りの様子だ。もしかしたら、空元気かもしれないが。
いまのビクトールには、そんなことを察してやる余裕など、なくなっている。
そこに行かなくてはならない。
その事実だけで、苛立っているのが、自分でよくわかった。
苦笑する。
こんなに、弱い人間だったんだ、と。
振り返って、フリックと瞳があった。
グランマイヤーとの会見の間、終始、無言に近かった彼は、すっかり無表情だ。
フリックの機嫌も悪いのだ。
当人は無意識のようだが、機嫌が悪くなると表情がつくれなくなる。
でも、不機嫌の理由はたぶん、彼自身のことではなくて。
ビクトールの心境を、自分のことのように感じ取っているせいだ。
フリックは、ノースウィンドウがどういう場所かを、知っている。
その上、察しがよすぎる。
そして、それに痛みを感じるほど、やさしすぎるのだ。
彼には、まだ、それを呑み込んで明るく返すほどの余裕はない。
まるで、鏡のようにビクトールの感情を映し出している。
成り行き上とはいえ、フリックがサウスウィンドウに残ることになったのは、いいことだと思った。
二人して沈んでいたら、変に思われるだろう。
出発前に、ビクトールはフリックの肩をたたく。
「もう終わったんだから、大丈夫だよ」
「え?」
フリックは、怪訝そうにこちらを見る。
自分がどんな顔をしているのか気付いていないらしい。
まったく、俺が元気付けられるはずのとこなのになぁ、とぼやきたくなる。
でも、そのおかげで自分がしっかりしなくては、と思えるから、ありがたくもあるのだが。
ビクトールは、笑顔を浮かべる。
「お前が落ち込むこたぁ、ないって」
「そんな顔してたか?」
照れくさそうに、口の端をゆがめる。
「してた」
「悪い」
いつもの、穏やかな笑みが、もどってくる。
そして、ゆっくりと言った。
「気を付けろよ」
普通なら、口にしない台詞だ。気にするな、といっても気になるのだ、ということだ。
「ああ」
素直に頷いてみせるビクトール自身も、いつもとは違うのかもしれない。
ノースウィンドウが近づいてくるにつれ、自分の足取りが重くなっていくのがわかる。
生まれ故郷だった。かけがえのない人がいた。
なのに、死んでしまった街。
墓標をたてたのは、自分自身。
たった一人、取り残された自分。
あそこにいくと、一人になってしまったのだと、思い知らされる。
誰が、周囲にいたとしても、それはかわらない。
周囲の人間も、いつもとはビクトールの様子が違うと察したのだろう、必要外には話しかけてこない。
子供に気を使わせているのが、なんとも辛かった。
しかし、不思議なことが起こっているという街には、相変わらず興味津々らしく、外観が見えてくると、
はしゃぐように走り出す。
いつもなら、危ないといけない、と追いかけるのだが。
今日ばかりは、その気力がでない。
近づかなくてすむなら、そうしたい。
ここまで来て、まだそんなことを思っている。
往生際が悪いよな、いいかげん。
そう、自分に言い聞かせる。
あきらめろ、もう。
門を、駆け足でくぐり抜けていくのが見える。
ナナミたちの姿は見えなくなるが、その向こうでどんな様子になるのか、手に取るようにわかる。
目前にあるものに、立ちすくんでいるはずだ。
振り返った瞳には、怯えと問いかけがないまぜになっているだろう。
そして、やっと追いついたビクトールの目にしたものは、まったくそのとおりだった。
「ここはな、俺の故郷だったんだよ」
目での質問に、答えてやる。
「いろいろあって、皆、死んじまった……墓は、俺がたてたんだ」
もう、終わったことだ。
詳しく語る話でもない。
少年が、うなだれた。
「ごめんなさい、はしゃいじゃって……」
かまわない、と言おうとして、はっとする。
禍禍しい、気配。
これは、よく知ってる気配だ。
もう、この世に存在しないはずの……
しかし、顔をそちらに向けたビクトールは。
葬ったはずの、仇が生きていたことを知った。
ショックだった。
そんな単語では、生ぬるいほど、ショックだった。
この感覚を、言葉で表すことなど、できない。
なのに、自分でも、気味が悪いほど落ち着いていた。
周囲の方が、ネクロードの台詞から状況を察して激昂している。
飛び掛かろうとした少年を、止めたのは自分だ。
本当なら、真っ先に飛び掛かるはずだと思う。自分でも、そう思うのに、止めていた。
「このままじゃ、ネクロードは倒せない」
そう、相棒が、いなくては。
夜の紋章の化身、星辰剣が必要だ。
奇妙に冷めた判断をしている自分がいる。
背を向けようとして、背後の複数の気配に、やっと自分が冷静ではなく、これから起こることを、
予測していただけなのを知る。
振り返らずに、逃げ出した。
振り返ったら目にするものを、知っている。
あの時、切っても切っても、襲い掛かってきた彼ら、だ。
そしてそれは、かつて、一緒に暮らしていた街の人々の変わり果てた姿。
本当なら、目を閉じて、耳を塞いで、走り出したかった。
もう、二度と目にしたくない。
あの悲劇は、もう二度と。
でも、ここにあいつがいる限り。
悲劇は繰り返されるのだ。いまは、それを、先送りにしただけだ。
苦笑が浮かぶ。
「でも、まだましか」
門を出たところで、ぽつり、とつぶやいたビクトールの方を、少年が不思議そうに見上げた。
「ああ、なんでもねぇよ、次に行くのは、『風の洞窟』だ」
そう告げて、先頭を切って歩き出す。
呟きの続きは、心の中だけにした。
……あいつが、出てこないだけ。
そして『悲劇』は繰り返される。
あの時と同じように。
自分の手で、町の人々を斬り捨て、葬り去っていかなくてはならない、悲劇。
星辰剣は、『風の洞窟』であれだけごねたにしては、いやにおとなしくビクトールの手に収まっている。
人生経験(?)の多い彼は、だいたいのところを察しているのかもしれなかった。
お互い、口にはしなかったが。
でも、まだましだ。
城の階段を駆け上がりながら、もう一度、そう思う。
あいつがいないだけ。
あとは。
もう一度、星辰剣と共に、ネクロードを斬り捨てればいい。
その存在が消えるまで、何度でも。
あいつを奪ったネクロードを、許すつもりは、ない。
この世で、もっとも憎いモノ。
だけど、『悲劇』は繰り返された。
まったく、あの時、と同じように。
城の最上階に、今度はネクロードに捕らえられた姿で。
真っ直ぐにこちらを見て、悲痛な表情で、声を上げた。
「助けて!」
かつて、自分がどうなるかを覚り、
『私を殺して』
と言った少女。
『助けて』などとは、絶対に口にはしなかった。するわけがないのだ。
あの、意地っ張りが。
そう、あのときとまったく一緒。
助けを求める唇も、差し出す手も、生きているときと寸分違わない。
ただ、好きだったあの海色の瞳は、どこにもないのだ。
どこにも。
それを知っていて、彼女はまっすぐにこちらを見ている。
それに、ネクロードは気付いているのだろうか?
動いて、しゃべれば、彼女が戻ってきたと思うと、信じているのだろうか?
だとすれば、あまりにも愚かだ。
彼女のことを、一番よく知っているのは、俺。
俺のことを、一番よく知っているのは、彼女。
たとえ、息が絶えたあとでも。
だから、彼女は、真っ直ぐにビクトールを見つめている。
もうこの世のものではないことを告げる為に。
「星辰剣……」
ぽつり、と言う。
「好きにしろ」
おそらく、どんなに葛藤しているかと、察してくれているのだろう。
そう、それでいい。
できるだけ、近づくのだ。
彼女の望みを、叶えるために。
『私を殺して』
彼女はそう、望んだ。他人に蹂躙されるくらいなら、死を与えられることを。
誰よりも大切な者だから、ビクトールはその願いを叶えたのだ。
あの時の感触は、一生忘れないだろう。
いとおしい者を、この手で貫く感触。
うつむいて、ゆっくりと近づく。
愛してる。誰よりも。
誰を想うことがあっても、お前以上には、想えない。
だから、お前の望み通りにしよう。
忘れたはずの、暗い感情。
忘れたかった、あの感触。
そのどちらもに、かすかに震えを感じる。
まだこんなにはっきりと、覚えていたなんて。
ネクロードが、うつむいたままのビクトールを見て、薄く微笑む。
己のねらい通りになることを、確信して。
だが、次の瞬間、床にあったのは投げ捨てられた星辰剣ではなくて。
彼女の首、だった。
それが、彼女の望みだったから。
「くだらねぇ感傷に騙されるほど、このビクトールさまは青臭くねぇんだよ!!」
一瞬、ネクロードの顔に怯えが走ったのは、見間違いではあるまい。
が、その姿は高笑いと共にすぐにかき消えた。
やっとの思いで、ネクロードの残した使い魔を倒す。
そして、足元に残されたモノに、目を落とした。
変わり果てきった、彼女。
とうに、その命が終わっていることが、はっきりとわかる。
そう、彼女は死んだのだ。
ほかならぬ、この自分の手にかかって。
かつて、彼女であったことを告げているのは、白い骨さえ見えている指に光る、綺麗な石。
金属部はくすんでしまっているが、彼女の瞳と同じ色をしたそれは、光をはなっていた。
彼女に、贈るはずだったそれ。
はめてやることができたのは、彼女が息絶えた後だった。
はじめて、怒りが込み上げてくる。
二度も、彼女に手をかけた。
もっとも、やりたくないことを、ネクロードは2度も。
しかも、当の仇は、姿をくらました。
追いたくても、どこへ行っていいのかすら、わからない。
やりきれない想いだけが、残る。
終わらない、悪夢。
この地上のどこかで、まだネクロードは、ほくそえんでいる。
暗い感情だけが、自分を支配している。
許さない、許せない。
憎んでいる。
微笑めない。
今まで通りには、振舞えない。
「これのケリがついたら」
フリックは、いきなりそう言った。
ラダトに向かう途中の、夜営の見張りをしながら。
火を挟んで、向こう側に座っている彼の表情は、うかがえない。
少年たちの保護者、としてではなく、会話をするのはサウスウィンドウ以来だろう。
使い魔を倒した後、外を出たところでフリックたちと合流した。
星辰剣がその手にあることを見ただけで、フリックにはなにもかもがわかったのだろう。
だが、そのことには触れずに、彼は自分の方で起こったことだけを告げる。
サウスウィンドウが、落ちた、という事実だけを。
そして、これからどうするか、を決めて、今、ラダトに向かっている。
『これ』というのは、少年たちの行く末が落ち着いたら、ということだ。
彼らが、いまこんな目にあっていることの責任の一端は、自分たちにあるから。
まずは、他人を巻き込んでいることを、片付けなくてはなるまい。
「一緒に、探すよ」
「探すって……」
戸惑って訊き返す。探すモノがなんなのか、はわかるが。
「一人より、二人の方が効率がいいだろ」
風が吹いて、焔が揺れる。
火の向こうのフリックの顔が、はっきりと見えた。
穏やかな、表情。
サウスウィンドウでの、無表情、ではなくて。
「でも、これは……」
珍しく、歯切れの悪い口調になってしまう。
「俺の、個人的な問題だ」
「個人的な問題に、俺には首を突っ込んで欲しくない、と?」
相変わらず、穏やかな口調で、フリックは言う。
そんな言い方をされたら、返事に窮する。
それを知っていて、彼はそんな言葉を選んでいる。
沈黙は、決まり悪くて、しどろもどろの返事をする。
「いや、その……」
「理由が必要なら」
フリックは、助け舟を出してきた。
「俺の故郷も、蹂躙してくれたからな」
彼にとって故郷は、ないも同然だ、と知っている。
帰りたくはないのだ。自分とはまた、違った理由で。
なのに、それを理由にするのは、ビクトールの気を楽にするためで。
彼はそんな方法しか、知らない。
一人じゃないんだ、と直接告げるのは、照れくさいから。
ああ、そうか。
こうやって、心から心配してくれる相棒がいる。
あの時とは、違うんだ。
あの暗い感情も、感触も、忘れることは出来ないけど。
少なくとも、孤独、ではない。
ビクトールの顔に、笑みが戻る。
「一生かかっちまったら、どうするよ?」
「さぁ、それもいいんじゃないのか」
こちらの声が、いつもの調子に戻ってきたのを感じ取ったのだろう。
フリックの声も、単調さがとれる。
「お前と一緒に一生過ごすってのが、気に食わない気もするが」
「一緒に探すって言い出したの、お前だぞ」
口を尖らせて見せる。
「言ったからには、とことん付き合ってもらうからな」
「はいはい」
「よるとこに、よってから、な」
言われたフリックは、一瞬、言葉に詰まったようだ。
「行くだろ?」
「ああ、行くよ」
焔の向こうのフリックは、真っ直ぐにこちらを見て、微笑んでいる。
はっきりとして、意思を秘めた笑顔。
そう、彼も、繊細なだけで、弱いわけではない。
そんな相棒が、ついていてくれる。
俺は、また、いつも通り振舞える。
ビクトールは、そんなことを思う。
フリックが新しくくべた薪が、高い音を立ててはぜた。
1999.10.16