あれは、いつのことだったのだろう?
夕焼けが、キレイだったのを覚えている。
いつも通りに、秘密基地こと時計台で遊んでいたところへ、アナタが迎えに来て。
そして、いつも通りに「もう少しだけ」を繰り返して。
「本当に、少しだけですよ」
その言葉も、いつも通り。いくらか、困った顔だったのも。
窓枠に腰掛けて、外を眺めていたのも。
いつもだったら、言葉どおりに、少しだけで帰ることになるのに、その日はそうじゃなかった。
夢中で遊んでいて、あたりが薄暗くなってきたことに気が付いて。
アナタの言った、少し、がとっくに過ぎ去っているのを、変だと思って。
顔を上げて、窓枠に腰掛けたままの、アナタを見つけた。
「ペル?」
返事がないので、眠ってしまったのかと、側まで行って覗き込んで。
視線が、どこか遠くに投げられたままなことに、気付いた。
「ペル、何を見ているの?」
尋ねると、ぽつり、と答えが返ってきた。
「空を」
「空?」
相変わらず、視線は遠くを見つめたまま。
「果てないと言いますが、どこまでも飛んだなら、どこへたどり着くのだろうと」
心臓が、きゅ、と痛くなった。
アナタは、隼になることが出来るから。
言葉通りに、どこまでも飛ぶことが出来るから。
だから、本当に、その遠くへと飛び立ってしまう気がして。
急に、すごく、怖くなった。
私の知らないところへ、アナタが一人で行ってしまうような気がして。
きゅ、と袖を引いた。
「帰ろう、ペル」
「え?」
いくらか、戸惑ったような顔が、こちらを向いた。
いつものアナタじゃない気がして、余計に、きゅ、と心臓が痛くなった。
「ね、一緒に帰ろう」
ぎゅっと、袖を握り締める。
私から、帰ろうと言われたことに驚いたらしくて、アナタは相変わらず戸惑ったままの顔つきだったけれど、外がすっかり暗くなりかかってることに気付いたらしい。
頷いて、立ち上がった。
いつもいつも、飛んで帰ろう、とワガママを言って困らせていたけれど。
初めて、歩いて帰りたい、と強く思った。
大地を踏みしめて、一緒に帰りたい、と。
今日はなにをした、誰がこう言った、としゃべり続ける私が、黙ったまま歩いているので、心配になったのか、アナタが顔を覗き込んだ。
「今日は、静かですね?」
リーダーたちとケンカでもしたのか、と心配してくれている顔。
いつものアナタだ。
私は、首を横に振った。
それから、尋ねた。
「ね、遠くに、飛んで行きたいの?」
「そうですね、こんなにキレイな空を見ていると……空になりたい、という衝動にかられることがあります」
足を止め、ゆっくりと薄闇に包まれていく、空を見上げた。
その視線は、さっき時計台で見たのと同じ、遠い遠いところを見ていた。
私なんか、全く眼に入っていない。
「こんな空を飛べば、いつか融けていけるのではないかと……」
「ダメ!」
私の、悲鳴にも似た声に、アナタはびっくりした表情を向けた。
「ビビ様?」
「ダメったら、ダメ!ペルが空になっちゃうなんて、ダメ!」
夢中で、叫んだ。視界が揺れて、歪んだ。
「いなくなっちゃダメ!絶対に、ダメ!」
わんわんと泣く私をなだめるのに、どのくらいかかったのかは覚えていない。
あれから、しばらくの間は、アナタが隼になって飛ぼうとするたびに泣き出す私を安心させるのに、必ず「ただいま」をしてくれていた。
いつからか、私は、当然のことと思うようになっていた。
どんなに高く、遠くへと飛んだとしても。
アナタは、必ず、私のところへ帰って来てくれる、と。
「ビビ様、私は、あなた方ネフェルタリ家に仕えられた事を、心より誇らしく思います」
喧騒の中で、その声だけが凛と響いて。
アナタの姿は、みるみるうちに遠くなっていく。
声を出すことも、手を伸ばすことも出来ずに。
遠く、遠く。
声が届くことも、手が届くことも無い。
遠く、遠く。
アナタが、いつか言っていたように。
空に、融けて。
立志式が終わって、ここに残るとはっきりと決めて。
血の痕がすっかり消えた、宮廷の広い広い場へと、一人出る。
目前に広がったのは、あまりにキレイな夕焼けで。
あの日と同じ、夕焼けで。
ぽろり、と、なにかが頬を伝っていく。
アナタは、空に、融けてしまった。
キレイな、空に。
幸せかしら?
そうだといいわ。
だって、アナタは、空になりたいと言ったのだもの。
でも、私は。
あふれ出してしまったものは、止まらない。
景色は、みるみるうちに、融けていく。
崩れていく空の中に、なにか。
あるはずのない、なにか。
はっとして、私は必死で眼をこらす。
ほんの微かな、小さな、影。
見慣れているはずの。
でも、もう、二度とは見ないはずの。
私は、幻を見ているのだろうか?
この光景を、望むあまりに。
そんなことを片隅で思いながら、それでも、必死で影を見失うまいと眼を見開く。
私の夢だというように、影は小さいまま、ゆらりと揺れる。
帰って来て、ここに帰って来て。
私のいる、この場所へ。
「……空になっちゃうなんて、ダメぇ……」
まるで、その声が届いたかのように。
影は、はっきりとしたシルエットへと変わっていく。大きく翼を広げた、隼の姿へと。
それこそ、私は凍りついたように見つめる。
眼を一度でも閉じたなら、消えてしまうような気がして。
やがて、隼は私の前に降り立ち、そして人の姿へと変じる。
「大変遅くなりました、ビビ様」
金色の瞳が、柔らかく微笑む。
「ただいま、帰りました」
私は満面の笑顔になる。
視界は、また、すぐに溶け出して、暗くなり、そして、暖かく包まれる。
私は、当然だと信じていたの。
どんなに高く、遠くへと飛んだとしても。
アナタは、必ず、私のところへ帰って来てくれる、と。
「おかえりなさい」
2004.01.08 Endless Sky