『 すべては夢の中 』
今日の予定の確認を終え、携帯端末を仕舞いながら、梶原がにっこりと笑う。 「あのポスターですけれどね、大変に好評ですよ」 あの、という指示語だけで、健太郎にもなんのことかはすぐにわかる。 先日、罰ゲームと称して亮を引っ張り出して撮影した、チャイルドアパレル部門のブランドポスターのことだ。 「大変に、ねぇ?」 健太郎は、軽く首を傾げる。 ポスターは、亮が、真白のノースリーブのワンピースに皮の編みこみベルト、ほんの僅かに水色がかった変わり編みのカーディガンは腰まではなくてベルトを殺さず、袖は手首を隠すルーズさ、という計算されつくしたかのようなかわいらしい姿で、撮影待ちの間にソファに膝をついて外を眺めていたところを、収めたモノだ。 物思いにふけるかのようなどこか遠くへ投げられている瞳も髪も、まるで水で薄めたかのような儚い色合いで、それもまた服と雰囲気に最高に合っていた。 親の欲目というのを差し引いても、確かに似合っていたしかわいらしかった。 が、梶原が「大変に」などという接頭詞をつけるとなると、話は別だ。 大げさな物言いをするような男ではない。 健太郎の疑問を察したのだろう、梶原の笑みが大きくなる。 「こちらが何も言わなくても、マスコミは取り上げてくれてますしね、なにより口コミがすごいというのは注目に値するでしょう。どうやら、あの、どこか寂しげな視線が人の心を捉えたらしいですよ」 「なるほど、外見の年齢とのギャップがウケたわけだな」 いくらか複雑な苦さを含んだ笑みが、健太郎の口元に浮かぶ。 そんな表情の変化にはおかまいなく、梶原は続ける。 「ええ、そりゃもう効果のすごいことといったら、正確に数えるのがおっくうになるほどのご意見が届いてます」 「興味を持っていただけるのは、大いに結構だ」 「そうですねぇ、服に関する問い合わせも少なくはありませんが、圧倒的に、あの子が待ってる人に会わせてあげて、と」 さらり、と言われたことに、健太郎の眼鏡の奥の眼が、いくらか見開かれる。 「あれはポスターだぞ、作り物だ」 梶原はあっさりと肩をすくめる。 「わかっていても、そう頼みたくなるくらいに切なそうな視線だったということですよ。作り物だからこそ、というのもあるでしょうが」 「なるほど、ハッピーエンドも作り出せる、ということか」 健太郎は、面倒くさそうに肩をすくめる。 くだんのポスター撮影も、『罰ゲーム』という切り札をヒトツ持っていたから出来たことだ。そう滅多なことでは亮を引っ張り出すことなど出来ない。 「言っておくが……」 「このままでは、署名運動になりかねません」 言いかかった健太郎の言葉に被せて、なんとも物騒なことを梶原は言う。 いくらか、眉根を寄せて健太郎は椅子にもたれかかる。 他人はいざ知らず、梶原が健太郎に言うということは、「絶対」のレベルでそれが必要と判断したからだ。 余計なことを持ち込むような男ではないことは、健太郎が最も良く知っている。 「皆を納得させようと思ったら、幸せそうに笑わせるくらいしかない」 健太郎は、梶原をまっすぐに見つめながら言う。 梶原は、微かに首を傾げる。 「それが出来る人は、どこにいますか?」 一切、健太郎やその周辺のプライベートに関わることには、梶原は首を突っ込んではいない。だが、亮がソファから投げていた視線で、実在の人間を思っているのだと確信したのに違いない。 それだけの観察をすることが出来る人間だ。 「さて、どうやって引っ張り込むのか、かなり難しいぞ」 眉を寄せる健太郎に、梶原はくすり、と笑う。 「それどころか、まずは当の本人を巻き込むのが難しいでしょう」 「そっちは、先ずあたるしかないだろうな。誤魔化したところでどうにもならんし」 相手に忍を使うと聞こうものなら、ますます難しくなるだろうが、と思いつつも携帯を手にする。 かけた相手は仲文だ。 「久しぶりだね、どうかな?」 なにを問うているのかは、仲文にもわかる。 が、いくらか声が落ちる。 「ちょっと熱を出してるようですが、自覚がないみたいで……」 「おやおや、それは困ったね」 困った、と返したが、実のところは「しめた」だ。 「少し時間も取れそうだから、今回は俺が引き受けるよ。仕事があると言えばすぐ来るだろうから、頼んでいいかな?」 「わかりました」 携帯を切るまでのやりとりで、健太郎が亮を巻き込むのの第一歩に成功したのは、梶原にもわかっている。 「どうする気です?」 に、と健太郎の顔に笑みが浮かぶ。 『Aqua』の要人で最もイイ男の名を欲しいままにしている要因たる、爽やかなのではなくて、明らかに企でいる方のが。 「ちとスレスレだが」 笑みと台詞で、健太郎が何を考えついたのか、梶原にも察しがついたらしい。大げさに肩をすくめてみせる。 「おやおや、責任重大ですね」 顔には、食えない笑みが浮かぶ。 「では、早速手配しましょう」 「場所はアソコがいいだろう」 健太郎がモニタに視線を戻しながら言った言葉に、梶原の笑みが大きくなる。 「そちらは手配済みです」 「ならいい」 驚いた様子もなく健太郎が返す。軽く頭を下げると、梶原は総帥室を後にする。 一見さりげないのだが、洗練されたその車体が高級車の部類に充分に入るモノであることを、車好きの忍は知っている。 ただ、こんなところに止まっているのが珍しくて足を止めた。 そのはずだったのに、中から手招きしている人の顔に、思わず眼を見開く。 近付いて、ぺこり、と頭を下げる。 「こんにちは」 忍は彼を知っている。 天宮財閥総帥秘書を務める梶原志紀だ。 なぜ彼を知っているのか、という点については、苦い思い出と共に語らざるを得ないのだが。 一年も前になるだろうか。 恐喝未遂事件に巻き込んでしまった、と財閥総帥自らが頭を下げに来た。たまたま、脅迫状を出した犯人を見かけてしまったのだそうだ。 見られたと思った犯人は、忍を誘拐したらしい。 なぜ、殺さずに誘拐したのか、どんな男だったのか、忍にはわからない。 事件に関わる、一切の記憶が抜け落ちてしまっているから。 とてもしっかりしている忍くんでも、思いだしたくないことなのかもしれない、と医者は言った。 忍自身としては、どんなに嫌な記憶であろうと無いよりはマシだと思う。だが、記憶を処理するのも己自身だ。 嫌だからとどこか奥底に封じ込めてしまう自分自身がふがいなくて、時にひどくイライラする。 ただ、詫びるだけでなく、視線を合わせて、本当に忍が大丈夫なのかどうかを時間をかけて確認していった総帥自身と、その後のフォローを一手に引き受けた梶原の印象は悪くない。 超絶に多忙な総帥の代わりに定期的に様子を見に来る梶原は、財閥総帥の片腕と言われるような立場であるのに、実に腰が低いし、行き届いている。 もっとも、財閥に関わったと知られると、また狙われる可能性が否定出来ないということで事件自体が伏せられていることもあり、定期的に様子を見に来る梶原のことは誰にも話していない。 こうして、挨拶出来たのも、周囲に知り合いが誰もいないからだ。 「やぁ忍くん」 頭を下げ返した梶原は、珍しくいくらか困った顔つきだ。 「二時間くらい、忍くんの時間をくれないかな?車離れなきゃならない仕事があるんだけれど、ここらへんには駐車場が無くてね、車を見ててくれると助かるんだけど」 「はい、大丈夫ですよ」 頷き返すと、梶原は済まなそうなの半分助かったというの半分な顔つきで助手席の扉を開ける。 「ありがとう。ただ、余計なこと考えるヤツがいないとも限らないし、キーは外から私がかける。このキー以外で開けることは、内側からでも無理なんだ。もしも、出たい用事が出来た時には、この携帯からいつでもかけて」 「はい」 誘拐された経験のある忍を気遣った処置だということはわかっているので、素直に頷き返す。梶原自身が余計なことを考えるような人種ではないことは、今までで良くわかっている。 「あまり広くはないけれど、車内を冒険してくれる分には、いくらでも構わないから」 に、と微笑んで梶原は運転席から立つ。 キーがロックされる音がして、助手席側の扉を梶原は引いてみせて、開かないことを確認する。 こくり、と頷き返すと、片手で拝んでみせ、梶原は早足に立ち去る。 誰もいなくなった車内を、忍はぐるっと見回す。 キレイに手入れされている車内は、けっこう広い。座っているクッションもいい。 大人しく座ったまま二時間は、いくらなんでも退屈だ。靴を脱いで、運転席へと移動する。 エンジンがかかっていないので、少々見難くはなっているが、洗練されているといわれる計器を覗き込んでみる。 シフトを握ってみたり、ハンドルを握ってみたり。 ふわ、と大きな欠伸をする。 ぽかぽかといい陽気だからだろうか。 次はどこを覗いてみようか、と伸び上がりかかったところで、その体は座席に深く倒れ込んでしまう。 総帥室に姿を現した亮に、健太郎はとっとと用件を告げる。 「この間のポスターが大変に好評でね、プロモを作ることになったから」 罰ゲームは前回のポスターで終わったはずだ、と口を開こうとして、機先を制される。 「罰ゲームの続きだな。まぁ、これで終わりにしとくけど」 「……ありがとうございます」 腑に落ちないかと言われれば、全くもってと返したいところだが、とてつもない心配をかけた結果なのだということはわかっている。 ぽつりと返して、口をつぐむ。 なんだか、口を開くのもおっくうだ。 「じゃ、行こう」 どこか別の場所で撮影することは亮もわかっているので、素直に健太郎について歩き出す。 連れていかれた先の屋敷は、前回のポスター撮影時よりも大きい洋館だ。この場所が元々、どういった場所なのかを亮は知っている。 アスクレス事件で政界を追われた政治家の別宅だった場所だ。なにかに使えると健太郎がキープしたのだ。が、今はそんなことは関係ないことだ。 今回はどんなシチュエーションなのか、キレイに磨かれたシャンデリアが眩いくらいに煌いている。 そんな部屋を通り過ぎて、着替える為の部屋へと入る。 前と同じスタッフが、大歓迎で白地に空色が優しいドレスのような服をもってくる。 ほんの薄くだけ口紅をひかれて、髪を結い上げられると、なんだか自分が自分でなくなったような奇妙な気分になってくる。 いろいろと前回のポスターの件やら、今回の格好について話しかけてくる言葉は耳に入ってくるのだが、イマイチはっきりとしない。 終わったから、階段の下へと降りてくれと言われ、立ち上がった足元も、なんだかふわふわとしている。 慣れない格好のせいだろう、と虚ろに思いつつ、指示された扉を開けて、目を見開く。 ソファに、少年が眠っている。 しかも、この少年は、知っている。 自分の中に忘却があるとしても、彼のことだけは絶対に忘れないだろう。 速瀬忍。 自分がどんな人間か聞いても、信じていると笑ってくれた人。 まさか、あり得ないと思いつつも、ぽつり、とその名が唇から零れ落ちる。 「忍……?」 その声に、弾かれたように彼の瞼が開く。そして、目前の人物にその目は大きく見開かれる。 「天使ちゃん?」 名を呟いてから、照れた笑みが忍の顔に浮かぶ。 「あ、そっか、夢だ。天使ちゃんが名前呼ぶわけ無いもんなぁ」 苦笑しつつ、立ち上がる。 「ああ、夢……」 ぽつり、と亮も返す。なるほど、こんなところに忍がいるわけがない。誰かと一緒に撮影することになっているのに、それが忍に見えてしまっているらしい。 「すごい、キレイだね」 にこり、と微笑まれて、どきり、とする。 この間、にわか雨のおかげであった忍は照れ臭そうだったのに、今はまっすぐに覗き込んでいる。 ああ、本当に夢だと思う。こんなこと、あるわけがない。 「……ありがとう」 消え入りそうな声で返す。 ふわり、と広がった袖の中の手を、そっと握られる。 微かに首を傾げたのに、忍は照れたような笑みを返す。 「なんかさ、溶けて消えちゃいそうだから。消えちゃ、困るからさ」 僕も、亮がいなくなっちゃうのは嫌だよ。 あの誘拐の時、最後に叫んでくれた忍の声が耳朶に蘇って頬が熱くなる。 「いえ、あの」 戸惑ったような表情に、忍の頬もいくらか染まる。 「だから、その、手、繋いでていいかな?」 これは、夢の中。 だから、側にいたら思いだしてしまうとか、そういうことは考えなくてもいい。 それならば。 頷き返す代わりに、そっと手を握り返す。 「ありがとう」 言葉と共に、きゅ、と強く握り締められる。 どこかひやりとした手が、ひどく心地いい。 「この部屋出たら、夢、醒めちゃうのかな?」 忍の問いに、視線を扉へと向ける。 先ほど、入ってきた扉だ。 確かに、ここを出たら、カメラやレフ板などが用意されていて、現実に引き戻されるかもしれない。 でも、その方が自分にとってはいいかもしれない。 「大丈夫」 笑み返した顔が、どんな痛いモノになっているのか、亮は知らない。 忍は、いくらか首を傾げるが、素直に手を取ったまま歩き出す。 「じゃ、開けるよ?」 ドアノブに手をかけ、もう一度確認される。 こくり、と頷き返すと、扉は大きく開かれる。 真下を見るくらいに俯いていた顔を、そっと上げてみる。 隣にいるのは、やはり忍だ。 にっこり、と笑いかけている。 「ホントだ、大丈夫だ」 夢の中のはずなのに、なんだか妙にほっとする。 ふわり、と笑みが浮かんだことに、当人は気付いているのかどうか。 まだ、夢が続いてしまっている。 いくら俯きつつも、尋ねてみる。 「その……忍、とお呼びしてもよろしいですか?」 相手が誰なのか見ようと思っても見えないし、なんらか便宜上の呼び名は必要だろう。剣士さん、は忍の為だけの呼び名だし、先ほど忍と呼んでしまってもいる。 「ああ、うん、もちろん」 覗き込まれ、柔らかな笑みで頷き返される。 本当に、そこに人がいるのかどうかも、だんだんとわからなくなってくる。 もしかしたら、一緒に映る人間などいないのかもしれない。 自分が、そんな気になっているだけかもしれない。 本当に歩いているのか、本当にこの手を忍が取っているのかもわからなくなってくる。 確かなことは、自分が忍と一緒のつもりで、それはけして嫌な感覚ではないということ。 「ね、せっかくだから、探検してみようか?」 屋敷の中のことだ、ということは亮にもすぐわかる。夢の中ならそれもいいと思う。 こくり、と頷き返す。 しっかりと手をつなぎ直して、歩き始める。 どの部屋も、奇妙に眩いくらいのシャンデリアだ。 辿り着いたこの部屋は、ひときわ明るい。 「すっごいなぁ、なんかエライ人が舞踏会とか開きそうだ」 忍の言葉は、荒唐無稽なモノではない。 確かに、元々この屋敷を所有していた政治家はパーティーの為に使用していた。風騎将軍に並々ならぬ興味を抱いている忍が、舞踏会を知っていることもおかしくはない。 また、こくり、と亮は頷き返す。 「ええ、この部屋はそういうパーティーの為のモノでしょう」 「天使ちゃんみたいなドレス着た人が、いっぱいいるんだろうなぁ」 にこり、と笑みを向けられる。 どう返していいかわからずに、曖昧な笑みを向ける亮へと忍は言う。 「きっと、天使ちゃんがイチバン綺麗だね」 真っ直ぐな視線に、どきり、とする。 「たくさんの人に踊ってくださいって言われるよ」 「忍も」 自分の口をついた言葉に、亮は自分で驚く。 途切れてしまったので、忍も首を傾げる。 「え?」 柔らかい視線、優しい手。全部、夢の中のこと。 ただ、一度だけ。許されますように。 「忍も、言ってくれる?」 よほど注意してなければ聞こえない声に、忍の笑みが大きくなる。 そっと手を離すと、す、と胸の前に手を横にして尋ねる。 「僕と、踊っていただけますか?」 いくらか目を丸くしていた亮も、にこり、と微笑んでスカートを摘み上げる。 「喜んで」 少年にしてはしっかりとした手が、小さく細い手を取る。 リズム感良く引かれた足に合わせて、小さな足もステップを踏む。 そこに、まるで柔らかな音楽があるかのように。 くるくると二人が回ると空気も踊る。 視線を上げると、忍が優しく微笑んでいる。 暖かさに、思わず微笑み返す。 なにもかもが、ゆっくりと溶け出していく。 自分の意識も、忍の笑顔も、夢も、なにもかもが。 「……忍、お願い、ずっと……」 かすかな呟きはきっと、声にすらならない。 「天使ちゃん?!」 急に力の抜けた細い躰を、忍は慌てて支える。 かくり、と力が抜けていく体を抱き締める腕に、ぐっと力が入る。 消えてしまわないで、消えてしまわないで。 知っている。 この景色は、知っている。 この感覚は、知っている。 その目が、大きく見開かれる。 目前にいるのは。 天使ちゃんで、そして。 今度こそ守ると決めたはずの。 失っていた記憶の、正体は。 「亮!」 そして、忍の意識も途切れる。 「忍くん、忍くん」 躰が揺れる感覚に、慌てて身を起こす。 にこり、と隣の運転席から微笑んでいるのは、梶原だ。 「ごめんね、よく寝てるところ起こしちゃって」 「あ、いえ」 慌てて首を横に振り、周囲を見回す。そして、状況を把握する。梶原から、車を見ていてくれと頼まれたのだった。 どうやら、車内を冒険しているうちに眠ってしまったらしい。 「すみません、見ているはずだったのに」 「いやいや、誰かが車にいてくれるだけで充分だよ。おかげで、安心して用事を済ませてくることが出来た。ありがとう」 頭を下げられて、恐縮してしまう。ただ、昼寝していたようなモノだ。 「勝手に移動して悪かったけど、ここまで来たよ」 窓の外の景色は、身近なものに変わっている。家の近くだが、近所の人にも会いにくい場所だ。 いつも、様子を見に来る梶原と待ち合わせる場所でもある。 「送っていただいて、すみません」 頭を下げると、梶原の笑みが大きくなる。 「これくらい当然だよ、こちらがお願いしたんだから。私の車が昼寝出来るほどに居心地が良くて嬉しいね」 「最高クラスですよね」 忍の言葉に、に、と笑みが大きくなる。 「お、わかる?さすが車好きだ。じゃ、今度はまたコレで来ようかな」 つられるように、忍も笑う。 「じゃあ、そうして下さい」 まだ、様子を見に来るつもりなのだろう。こちらがただ大丈夫と言っただけでは安心出来ないのだろうことは察しがついていることだ。 「じゃ、またね」 「はい」 手を振る梶原に頭を下げて、車が去るのを見送って。 夕焼けに染まり始めた空を見上げる。 車の中で、夢を見ていた。 天使ちゃんの手を取って踊る夢を。夢なのをいいことに、随分とキザなことを言ったと思う。 ずっと握っていた手を、そっと広げてみる。 なんとなく、柔らかな香りが残っているような気がして。 どうしてなんだろう? とても幸せな夢を見ていたはずなのに、なにか、心に穴が空いてしまったような痛みが残っている。 細い手と、柔らかな手と、キレイなドレスのような服と。 それから。 なにか、大切ななにかが抜け落ちてしまったような。 「天使ちゃん」 そっと、呟いてみる。 何故だろう? あの子を呼ぶ名は、それではいけないような気がして。 知らない本当の名は、なんだろう? もう一度、薄い紫から薄紅色に染め上がる空を見上げる。 覗き込んでいるのが健太郎だと、すぐにわかる。 が、亮には状況が理解出来ずに、ヒトツ、瞬きする。 「気がついたか」 健太郎の方は、ほっとした顔つきだ。 「ったく、熱があるならあると言え。突然倒れるから吃驚したじゃないか」 「熱……が、あったんですか」 問い返す亮に、健太郎の顔つきは呆れたものへと変化する。 「過去形じゃなくて現在進行形だ、ほら、よく考えてみろ、なんか躰が重かったり、目の前がかすんだりしなかったか?」 「……してました」 いくばくか、声が落ちる。 「だろう?俺と梶原はともかく、スタッフだっていたんだぞ?皆が迷惑したんだぞ。お前の自覚がないばかりにだ」 強めの口調で言われずとも、よくわかっている。 「すみません、気をつけます」 「そうしてくれ」 それから、そっと前髪を撫でてやる。 「熱が下がるまでは、ここで休んでいきなさい。梶原が俺の方まで早く帰してくれたから」 「……すみません」 もう一度、謝る。多忙な健太郎が早引けすれば、明日からの仕事が増えることになる。熱が出ていることに気付かなかったばかりに、皆に迷惑をかけてしまっている。 「俺のことはいい。少し、おなかに入れるものを持ってくるから、待ってなさい」 こくり、と小さく頷く。 後姿を見送ってから、久しぶりに天宮の屋敷から見る夕焼けへと視線をやる。 薄い紫から、薄紅へと見事に染め上げられた空を。 熱が出て、それで忍の幻を見たのだな、と思う。 幻でも会いたいほどに、思っていたのだろうか? 苦笑が、浮かぶ。 それから、ずっと握っていてくれた手を広げてみる。 しばらく会わないうちに、またしっかりとした手になっていた。夢の中のことだけれど。 なぜだろう? 自己嫌悪とは違う、心の痛みが残っているのは。 なにか、大事な言葉を聞いたような気がしたのに。 それが、なんなのかがわからない。 でも、なんであろうと、結局は夢だ。 軽く、首を横に振る。 階段を下りた健太郎は、携帯を手にする。 「俺だ、こちらは落ち着いたよ」 電話の相手は、梶原だ。 「そうか、そちらもケリがついたか」 頷き返してから、苦笑が浮かぶ。 「あのカンの良さには頭が下がるよ。まさか、アレだけで記憶を引きずり出してくるとはね。二度は出来ないな」 繰り返して記憶を消すにも限度がある。体への負担も大きくなることを、これ以上は出来ない。 「まぁ、これで皆に納得してもらえるプロモに仕上げてもらうしかないな。……ああ、明日はいつも通りに出社するよ」 携帯を切り、仕舞い込んでから、軽く肩をすくめる。 本当ならば、記憶を消さずにいられるなら良かったと思う。 もしかしたら。 いや、絶対に。 だが、それは考えてもせんないことだ。 あの時、亮が選んだことを、勝手に覆す権利はどこにもない。 背後からの静かな気配に、健太郎はいつも通りの表情で振り返る。 「榊か、亮が気付いたから、暖かくて柔らかいものでも用意してやってくれないか」 「すぐに」 榊が、静かな動作で頭を下げる。 二ヵ月後、ポスターの少女が少年に手を取られて柔らかに微笑むテレビCMがオンエアされた。 少年の姿は背中しか映っていなかったけれど、それがまた視聴者の心を掴み、ブランドデビューのプレミアで、ポスターとCMのロングバージョンを収録されたディスクがつけられたらしい。 2004.10.11 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Like a dream〜 |