『 いくつかの願い 』 「榊さん」 ガラスで出来た鈴をふったような澄んでよく通る声に、振り返る。 本人にその気は無いだろうが、榊にさえ感じられないほどに、ほんとど気配が無い。 握ったら壊れてしまいそうなほど細く、空気に溶けて消えてしまいそうな危うげな雰囲気なのに、こちらを見上げている晴れた日の海を思わせる瞳は強い意志がある。 「亮様、なんでございましょう?」 「大変申し訳ないのですが、お願いしたいことがあります」 とても六歳の子供とは思えない言葉遣いで告げてから、ほんの微かに首を傾げる。 少し、逡巡しているのだとわかったのは、次の言葉までに間があったからだ。 「今晩、夏祭りが終わった頃に、俊が屋敷を抜け出すと思います。行き先は中央公園の樫の木の下です」 「お一人ででございますか」 「はい、そう言いましたから」 その言葉からは、俊が言い出したことなのか亮が指示したことなのかは伺えない。状況からいくと、どちらも考えられることは確かで、それを詮索するのは榊の仕事ではない。 「おそらくは、一時間もしないうちに諦めるでしょう。出かけて戻るまでの間、それとなく様子を見ていていただけないでしょうか?万が一、ということがあってはなりませんから」 小さな子供が、という点を差し引いても、天宮家の人間なのだ。 夜に一人で出歩いていれば、なにが起こるかわかったものではない。 でも、俊が夜に出かけることは確定なのだ。 「承りました」 榊は、頭を下げる。 亮は、淡々と続ける。 「それから、もうヒトツあります」 「はい」 相変わらず、しっかりと榊を見上げたまま、亮は告げる。 「俊の分の荷物も、佳代さんのと一緒にまとめておいて下さい」 榊は、ほんの微かにだけ、首を傾げる。 健太郎からは、佳代の荷物だけをまとめるように告げられているのだが。 薄い笑みが、亮の口元に浮かぶ。 「出かけて帰ってきた後、俊も一緒に出ることになります」 未来のことであるのに、確定の口調で言い切る。 「父には、僕から説明しておきますから」 榊は、もう一度、静かに頭を下げる。 亮の指示には、健太郎の判断を仰ぐことなく従うように指示されている。当代当主が言い切っているのだから、亮の言葉は榊にとっては絶対だ。 「お手数をおかけしますが、お願いします」 やはり、六歳とは思えない身のこなしで頭を下げてから、付け加える。 「それから、食事は部屋へ運んでいただけますか?」 「お悪いのですか?」 これも、健太郎から特に言われていることだ。亮の体調には特に気をつけるように、と。 「いえ、そんなことはありません」 表情の無いままの顔で、あっさりと否定する。それから、ほんの微かにだけ、どこか凍った笑みがよぎる。 もう一度、頭を下げる。 「我侭ばかり申し上げた上、ご心配をおかけしてしまい、すみません」 酷く大人びた仕草や言葉遣いは、性格からもきているのだろう。亮ほどではないが、健太郎も似たようなところがあった。 にしても、亮は自分を殺してしまったかのようなことを、いくらでもしてのける。 榊は、軽く首を横に振ってから膝をつき、視線を合わせる。 「僭越ながら、申し上げます」 「なんでしょうか?」 少しだけ、亮は首を傾げる。 「あまり、ご無理はなさいませんように」 瞬間的に、亮の眼は見開かれる。それから、ほんの微かにだけ、自嘲気味の笑みが浮かぶ。 「はい、ありがとうございます」 立ち上がった榊を、亮はそのまま見上げる。 榊は、ほんの微かに首を傾げる。 「あの……に……俊と、佳代さんを、お願いいたします」 もう一度だけ、亮は頭を下げると、くるり、と背を向ける。 亮にしては、ひどく足早に去っていく後姿へと、榊はただ、頭を下げる。 2004.05.22 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Some request and wish〜 |