『 絵本の中の 』 扉を開けたなり、感嘆の声が漏れる。 「すごい、キレイねぇ!知沙友ちゃん」 「お兄ちゃんたちが持ってきてくれたの、ほら、窓も!」 いろいろな機材が乗ったカートを運び込み、扉を閉めてから真っ白の白衣の彼女は知沙友の指した方を見て大きく頷く。 「ほーんとだ、スゴイ!」 彼女の名は本条未由、新人看護婦の頃からの知沙友の担当だ。今では後輩に指導する立場にもなっているのだが、こうして夜の確認に来る時には必ず一人でやって来る。 「ね、未由さんが今日お休みだったらどうしようかと思っちゃった」 知沙友は、頬を染めてえへへ、と笑う。 慣れた調子で体温計を取り出していた未由が、首を傾げつつ微笑む。 「あ、もしかしていまだに淋しい担当看護婦にも、コレを見せてやろうと思ったね?」 「こーんなにキレイなんだもん、未由さん、絶対好きだと思っただけだもん」 おかしくてたまらないというのが溢れている、満面の笑みの知沙友の額を、軽くこづく。 「そんな顔で言っても信用しませんよー、でもこういうキレイなモノが好きなのは事実だから、許してあげるわ」 二人で声を立てて笑う。 「はい、体温測ってね」 「うん」 素直に頷いて、体温計を脇に挟む。 こんな年齢の子が手馴れているというのが、何年この仕事をしていても未由にとっては切ない。 何度か、親にさえ出せなかった癇癪を未由の前では爆発させたことがある。どれほどに我慢してきたのだろうと思ったら、一緒に泣いてしまったこともある。 おかげで、小児科部長であり、知沙友の担当医である波多野からは『看護婦失格』の烙印を押されているが、それでも構わないと思っている。 子供たちと関われば関わるほどに、人間らしさを失いたくないと思うから。 最初から、「あなたなりのやり方でやって御覧なさい、子供たちの眼を見ればわかるでしょう?」と言い続けてくれた婦長は、生涯の目標だ。 それに、遺伝子医学面での担当である安藤からは「本条さんみたいな看護婦さんがいてくれると、こちらは医者に徹することが出来て助かるよ」と言われたことがある。自分のスタンスを認めてくれる医者だって、いるのだ。 無論、行き過ぎは返って子供たちを傷つけることも知っているし、その匙加減も知っている。 今も、こうして笑顔でいられるのは、看護婦だという自覚があるからだ。 先天性細胞破壊症という魔の手は、すでに知沙友の躰を食い尽くそうとしている。 そして、もう誰にも止められない段階まで達してしまったからこそ、波多野も安藤も、知沙友の望み通りにクリスマスをしていい、と許可を出したのだということを、未由は知っている。 自分の顔の笑顔が凍りそうなことに気付き、気を取り直す。 「で、ご飯はちゃんと食べた?」 いつも通りの質問をすると、知沙友は肩をすくめる。 「あのね、今日はケーキを食べちゃったの」 「おお、ケーキまでついてきたのね、羨ましいなぁ」 驚いた顔つきの未由に、知沙友はますます小さくなってみせる。 「でね、おいしかったから、たくさん食べちゃったの」 「ほほう、で、病院のご飯は美味しくないから残しました、と」 「ごめんなさい!」 病院のご飯の食べ具合で、健康状態を計っているのは知沙友も良く知っている。しかも間食しすぎもチェックされる、ということも。 「ま、今日は特別ね。だってクリスマスイブなんだもの、そりゃケーキ優先にもなるわ」 にこり、と未由は笑う。 「でも、明日はちゃんとご飯食べられるようにしてオヤツにするのよ?」 「うん、約束するよ」 「よーし、熱も無いわね」 受け取った体温計を確認して、笑いかけてやる。熱が無いのに嘘は無い。 でも、無さ過ぎるのだということは心の中だけに秘める。 「さて、知沙友ちゃん」 看護婦としてやらなくてはならない一通りのチェックを終えて、未由は椅子に腰を降ろす。 白い部屋に閉じ込められている少女の、秘密の楽しみを共有する時間の始まりだ。 「今日のお話を、聞かせてくれる?」 「うん、今日はとっておきなのよ」 知沙友は、大真面目な顔つきで未由を覗き込む。 たくさんの絵本が友達の少女が紡ぎ上げる、小さな小さな物語。未由が夜番の時には、この後で消灯するのが二人の約束だ。 彼女が担当になってから、ずっとそうしてきた。 小さな小さな、特別な時間。 クリスマスのプレゼントを贈るための降りてきた天使と、護衛の騎士、地上で出会って協力することになった少女たちの物語は、知沙友の予告どおりにとっておきの出来だった。 そして、題名の無い、もういくつめになったのかわからないその話が、知沙友の紡ぎ上げた最後の物語になった。 「本条さんには、本当にお世話になりました」 深々と知沙友の両親に頭を下げられ、未由は首を横に振る。 「新人でなにもわからなかった頃から、随分と助けてもらっていたのは私の方です」 もう何度繰り返したのかわからない、子供を失った親との会話。傍目にもがっくりと肩が落ちている姿を見慣れることなど、一生出来ない。 それに、本当に知沙友とはずっと一緒だった。 ともすれば、自分の目に涙が浮かびそうで、抑えるのが必死だ。 まだ彼女にはたくさんの担当患者がいる。泣いているヒマは、今は無い。 気を取り直して、問う。 「これから、知沙友ちゃんと一緒に?」 未由の問いに、父親が首を横に振る。 「いえ、波多野先生と安藤先生から、お話をいただきまして、同じ病気の子供たちの治療にお役に立てるなら、とお返事させていただきました」 「じゃあ……」 はっきりとは、親の口から病理解剖を承知した、とは言いにくいのだろう。が、長年病院に勤めている未由には、わかる。 いくらか眼を見開いてしまう。どんなに説得されたとしても、やはり自分の子供が亡くなった後にまで痛い目に合うのは、親にとっては堪らないことだ。 無論、感情だけでは片付けられない、厳然たる事実もある。現実の研究資料が無ければ、研究は進まない。 親たちの感情もわかるだけに、医者たちの誰もが歯がゆい思いをしているのが現状だ。 二人の担当医師がどんな話をしたのかはわからないが、感じるものがあってくれたのだろう。 未由は、ただ深く頭を下げる。 「本条さん、これを受け取っていただけませんか?」 顔を上げた未由に、一冊のノートを父親が差し出す。 「え?」 差し出されたノートが、知沙友がこまめに書いていた物語のヒトツだと知っている。未由に語ったものの中で気に入ったモノは、たどたどしい絵と一緒に書きつけていたのを、何度か見せてもらったことがある。 「でも、よろしいんですか?」 大切な、子供の思い出だろうに。 「ええ、たくさん残してもらいましたから。これは、本条さんにもらっていただけたら、知沙友も喜ぶと思うんです。もしもよろしければ、波多野先生にも」 「わかりました、ありがとうございます。大事にします」 もう一度、頭を下げる。 両親たちも、未由に深々と頭を下げると、二人で肩を寄せ合うようにして帰って行った。 二人の姿が見えなくなってから、手にしたノートに眼を落とす。 きっと、今開いたら泣いてしまう。 仕事が終わってからにした方がいいだろう。だとしたら、波多野の方が先に時間が出来るに違いない。 知沙友の両親は、もしよければ波多野も、と言っていた。彼が見るのかどうかはともかく、まずは先に渡してこよう、と決める。 しっかりとノートを握り締めたまま、波多野の研究室へと急ぐ。 一斉に未由へと視線が集まって、足がすくんでしまう。珍しく、波多野の研究室は人口密度が高い。 年齢は二、三歳の開きがあるものの、同期で国立病院に就職した三人、波多野と安藤、そして『仏様』の異名を取るほどに誰にでも優しい内科部長の新谷が揃っていたのだ。 「あ、す、すみません。お邪魔しました」 思わず謝ると、にこり、と新谷に微笑みかけられる。 「大丈夫だよ、話は済んだところだから。本条さん、お疲れサマだったね」 柔らかい笑みに、堪えていた涙が浮かびそうになって、慌てて首を横に振る。 「いえ、先生方の方こそ。それに、あの」 「病理解剖の件だったら、大丈夫だよ。今回は波多野も立ち会うから、研究バカ二人が暴走する前に止めてくれるから」 変わらぬ笑みで言ってのけ、新谷は安藤へと視線をやる。 「必要だと思ったことは全部やる。誰がいようと関係ない」 患者と対する時からは想像出来ない、凍りついたような目付きできっぱりと安藤は言ってのけ、まっすぐに波多野を見据える。 「やれることから視線を逸らしたところで、後悔するだけだと言っている」 安藤の研究に対する真摯さと熱心さは、国立病院内でも群を抜いている。ぞくりとするくらいの、その姿勢があってこそ、あれほどまでに早く後天性細胞破壊症の治療法を確立することが出来たのだろう。 その視線に負けることなく、波多野が睨み返す。 新谷は話は終わった、と言ったが、どうやらそうではないらしい。 後にしようと、数歩後ずさったところで、また新谷に微笑みかけられる。 「ねぇ、本条さん、波多野の研究テーマってなにか知ってる?」 「いえ、存じ上げてません」 反射的に答えてから、なんだか話から逸れている気がして首を傾げてしまう。波多野が、今度は新谷を睨みつける。 「おい、余計なことを……」 が、それが耳に入っているのかいないのか、にこにことしたまま新谷は続ける。 「そのノート、ちょっと特殊な素材で出来てるって、知ってるよね」 自分が握り締めているノートを指されて、未由は大きく頷く。 「はい、感染症が懸念される患者さんたちの為に開発されたモノで、三年前に発売されたんですよね。おかげで絵本も折り紙もお絵描きも、気にせずたくさん出来るようになって、子供たちも大喜びなんですよ!このノートも、知沙友ちゃんが物語を……」 言いかかったところで、じわり、と涙が浮かんで、慌てて我慢する。 「あの、ともかく、ホント、この紙を発明した人は天才ですよね!私、病気を治してくださる先生方もものすごく尊敬してますが、こんな風に子供たちを楽しませてくれる人も同じくらいに、ものすごく尊敬しますし感謝してます!」 一気に言い切ってから、妙な雰囲気になっていることに気付く。 新谷の笑みはますます大きくなっているし、安藤の波多野への視線はますます冷たくなっているし、そして波多野が珍しく俯いてしまっている。 「ねぇ、本条さん、国立病院ってところは役立つと判断される研究をしてない人間に研究室を与えるほど、余裕がある場所じゃないんだよ。そんな遊んだ場所をつくるくらいなら、一室でも病室を増やした方が患者さんの為になるからね。本条さんの言う通り、安藤や僕みたいに、病気自体を叩きのめすのも大事な研究だし、波多野がやっているみたいな」 「だから、黙れって!」 たまりかねたように、波多野が大声を上げる。だいたい、いつも誰からも距離をおいているこの男が、声を荒げるということ自体が未由には初めての経験なので、ひどくびっくりして硬直してしまう。 「波多野、声が大きすぎるよ、本条さんがびっくりしてるじゃないか」 まったく表情を変えることなく新谷は言ってのけ、未由を覗き込む。 「ね、この異常な反応見ればわかるでしょ?その紙、誰が開発したのか」 その言葉に、はっとする。 「あの、まさか?」 「波多野の研究テーマは、『今、病気で苦しんでいる患者が、どれだけ健常者と変わらない楽しみを享受出来るようになるか』だ。例えばお絵描きや絵本を読むことが自由に出来るだけでも、精神的な強さはまるで変わってくる。特に子供では顕著に」 安藤が、静かに言う。 「そして、その精神的な強さが、病気への抵抗力を強くする。怪我の直りだって、随分と早くなるとはっきりとデータとなって出ている」 「それで稼いでくれた気力体力のおかげで、僕たちの研究成果も役立つ人が増える、というわけだね」 新谷の言葉に、完全に研究者の顔だった安藤に、笑みが浮かぶ。 「ほんの少しでも、笑顔の子供が増える、というわけだ」 未由の目が、大きく見開かれる。 「あの、あの、それって」 「知沙友ちゃんは、ちゃーんと知っていたんじゃないかなぁ。それ、知沙友ちゃんが書いた絵本でしょう?僕、実は監修頼まれてたんだよね」 相変わらず笑顔のまま、新谷は未由がしっかりと抱え込んだままのノートを指差す。 戸惑い気味の顔つきの未由の手から、そのノートを引っ張り出すと、広げる。 「ここは、国立病院。『あくあ』でイチバン大きくて…… ここは、国立病院。『あくあ』でいちばん大きくて、たくさんの人が、まいにち、びょうきやケガをなおしてもらいに来ます。 でも、夜になると、センジョウにかわります。おイシャさんがいなくなったのをみはからって、わるいいビョウマが、病院にのこった子どもたちにおそいかかってくるのです。 まいばん、かんごふさんのミユちゃんといっしょに、みんなでいっしょうけんめいたたかいます。 ミユちゃんは、やさしくて、かわいくて、とってもつよいかんごふさんです。ひっさつのチュウシャキや、にがいにがいクスリや、おっきなテンテキで、つぎつぎにビョウマをやっつけてしまいます。 みんな、ミユちゃんがだいすきです。 ミユちゃんもみんなも、みんなでたたかったら、ビョウマもたおせるとしんじていました。 ところが、その夜は、いつもとちがったのです。 とてもとても大きくて、つよいビョウマがあらわれたのです。 みんなで、いっしょうけんめいに、たたかいました。 ミユちゃんも、いつもよりもたくさんの、ひっさつのチュウシャキや、にがいにがいクスリや、おっきなテンテキをだしました。 でも、ビョウマはぜんぜん、よわりません。 どんどん、つよくて大きくなっていきます。 みんな、なきたくなりました。 いつもは、みんなをげんきづけてくれるミユちゃんも、なきたくなりました。 そのときです。 イヘンにきがついた、アンドウせんせいとアラタニせんせいがかけつけてくれたのです。 ふたりは、とってもすごいおイシャさんです。 たくさんの大きくて、つよいビョウマを、いままでいっぱいやっつけてきました。 アラタニせんせいが、にっこりとわらうと、ビョウマはとまってしまいます。とってもすてきにわらうからです。 アンドウせんせいのメは、どんなビョウマでも、そのジャクテンをみつけてしまう、とってもすごいメです。 アラタニせんせいがとめたビョウマを、アンドウせんせいがにらみつけます。 じっとにらんでいたアンドウせんせいのかおが、とってもむずかしくなりました。 「これは、あたらしいビョウマだ。ひっさつわざができるまでに、じかんがかかってしまう」 みんな、とってもこまりました。 だってもう、なにもなかったからです。 ミユちゃんの、ひっさつのチュウシャキも、にがいにがいクスリも、おっきなテンテキも、もうありません。 まだ、ひっさつわざがないとわかったビョウマが、にやり、とわらいます。 そして、おおきなおおきなカマをもちあげます。 もう、アラタニせんせいのえがおでも、とめられません。 みんなのめに、なみだがうかびました。 ミユちゃんのめにも、なみだがうかびました。 もう、だめだ。 みんなが、そうおもいました。 そのときです。 そらいっぱいに、おはながひろがりました。 とりも、いっぱいひろがりました。 みんな、びっくりしてみあげます。 それは、いろとりどりのオリガミでした。 あとからあとからふってくるので、とってもきれいです。 みんな、ビョウマがいることをわすれて、えがおになります。 そのえがおをみて、ビョウマがひめいをあげました。 「みんな、あきらめちゃだめだ!」 おおきなこえが、ひびきます。 こどものためのおイシャさんの、ハタノせんせいがかけつけてくれたのです。 「ビョウマは、わらったかおがジャクテンなんだ!ないちゃだめだ!」 ハタノせんせいは、ミユちゃんをたすけおこしながらいいました。 「でも、もう、なにもないんです」 ミユちゃんがいいます。 ハタノせんせいは、おおきくうなずきかえします。 「だいじょうぶだ」 ハタノせんせいが、そらをみあげると、こんどはクレヨンがいっぱいおちてきます。そして、まっしろだったそらに、にじがかかります。 じめんには、いっぱいのおはなが、さきます。 かっこいいおうまさんや、かわいいうさぎさんもでてきます。 ハタノせんせいが、マホウをかけたのです。 みんなうれしくて、たくさんたくさんわらいます。 ミユちゃんも、とってもうれしそうにわらいます。 また、ビョウマがひめいをあげます。 みんなのえがおをみて、よわってきたのです。 もう、おおきなカマもありません。 アラタニせんせいが、また、すてきにわらいました。 ビョウマは、とまってしまいます。 アンドウせんせいが、りょうてにメスをにぎります。さいきょうのひっさつわざが、できたのです。 ふてきにわらって、いいます。 「くらえ!かんぺきなシュジュツ!」 「ぎゃあああああああ!」 おおきなこえをあげて、ビョウマはきえてしまいました。 みんなでアンドウせんせいにおれいをいうと、アンドウせんせいはいいました。 「みんながえがおでがんばってくれたからだよ」 「ハタノせんせいのおかげだね」 アラタニせんせいもいいました。 みんなでハタノせんせいにおれいをいうと、ハタノせんせいは、そっぽをむいてしまいました。 でも、そらをみあげて、こんどはいっぱいのかみふうせんをだしてくれました。 ミユちゃんが、あそびかたをおしえてくれました。 ミユちゃんがわらったのをみて、ハタノせんせいも、ちょっぴりわらいました。 アラタニせんせいと、アンドウせんせいも、たくさんわらいました。 みんな、とってもたのしくあそびました。 とっても、すてきなよるになりました。 ……おしまい」 幼い子が書いたにしては、随分と長い力作を読み終え、新谷はノートを閉じる。 「さて、ご感想は?」 未由の眼からは、次々と大粒の涙が溢れていく。 どこか据わった目で、波多野は新谷を見据える。 「知ってるんじゃなくて、お前、教えたな?」 波多野の研究内容を、だ。新谷は、柔らかい笑みのまま、しれっと言ってのける。 「だってさ、僕の検査って僕自身が操作しながらだろう?その間、だまーってたら怖いでしょうが」 「ともかく、知沙友ちゃんの病理解剖は決定事項で、お前の研究に役立つことがあまりに多いという現実も動かせない」 更に安藤が口を開く前に、波多野は溜まりかねたように言う。 「わかった、やるよ!」 くしゃ、と髪をかきむしる。 新谷は、ほんの少しだけ笑みを大きくする。 「俺らしかいないから、泣いたって誰にもいいやしないって」 「な、泣く?」 思わず、未由は口を挟んでしまう。 安藤が、肩をすくめる。 「決まってるだろう、これだけ長い間診療してきた患者に、亡くなってからメスを入れるなんて波多野には拷問だよ。でも、波多野にしかわからないことがあまりに多いんだ、今回の場合」 ぽかん、と波多野を見つめる。言われてよくよく見てみれば、確かに波多野の目尻が赤くなっている。 どうやら、知沙友の書いた話を聞いているうちに、涙が浮かんでいたらしい。 「本当にクールな視点で距離をとっているような人間が、病気で苦しんでる子どもが少しでも楽しいようになんていう研究をするわけがないんだけどねぇ。誰かさんはひたすら隠していらっしゃるようで」 知沙友のノートを未由に返しながら言ってから、ぽん、と波多野の肩を叩く。 「本条さんに、看護婦失格だとか失礼なこと言ったんだってね?ちゃんとそのあたり、謝罪しとくべきじゃないの?」 「準備は俺達でやっておく。適当に時間をみてから、来い」 「言うべきことを、きちんと言ってからだよ」 言いながら、医者らしい機敏な身のこなしで背を向ける。 「ほーんと、子供の観察力には頭が下がるねぇ」 「純粋に本質を見抜くからだろう」 「うるさいお前ら!とっとと行け!」 またも、波多野の大声が飛ぶ。 「はーいはい、ホント、言うべきことはきちんとね」 「やることは、後でな」 「黙れ!」 「あ、あの、安藤先生!新谷先生!」 扉が閉じてしまいそうなことに気付いて、慌てて未由は声を上げる。 二人は、無言のまま、こちらを振り返る。 「あの、どうか、どうか知沙友ちゃんの教えてくれるたくさんのことを、その、よろしくお願いします」 上手く言葉がみつからないまま、頭を下げる。 顔を上げると。 見たこともないほどの、まっすぐな視線が未由を見つめていた。 二人の口の端に、自信しかない笑みが浮かぶ。 「当然です」 「絶対に、です」 ぱたん、と扉が閉じる。 どちらからともなく、顔を見合わせる。 「あ、あのすみません、仕事中にまた泣いてしまいました」 我に返って、未由は慌てて自分の頬の涙をこする。波多野の眉が、いくらか困ったように寄る。が、ぞんざいに言ってのける。 「気にするな。あんな話を書かれたら、誰でも泣きたくなる」 視線をこちらに合わせることなく、どこか不機嫌そうにそっぽを向いているのは、いつも通りだ。だけど。 「あの、波多野先生」 「なんだ」 「感染症の子供が触っても大丈夫な紙、開発してくださってありがとうございました」 深々と、頭を下げる。 「ずっとずっと、開発してくださった方にお礼を言いたかったんです。病気の治療法を見つけて下さる先生方にも本当に感謝しています。何人も、不治と言われていた子たちが直って笑顔で退院していくのを見送らせてもらいましたから。でも、やはり、入院している間は、とても苦しくて辛いんです。ましてや、知沙友ちゃんみたいな病気の時は、本当に。だから、折り紙や絵本や……」 「わかってる。つかの間でも、ああして笑顔になってくれたのならば、作ったかいがあったんだろうな」 ぽつり、と声が返って、未由は頭を上げる。 見たことのないような、苦しそうな表情をした波多野が、そこに立っていた。 「正直、いくらか迷っていた……俺のやっていることは、根本的な解決にはなにもならないからな。それでも、ベッドの上で淋しそうな顔をしている子供を見ているのは堪らない」 「新谷先生もおっしゃっていました、笑顔が力になるのだと。全ての病気に治療法が見つかったのだとしても、病院に入院しなくてよくなるわけじゃありません。その間に、病気やケガに勝つ力が無かったら、どうにもならないんです。先生のやってくださっていることは、治療法を探すのと同じくらいに大切なことです」 力強く、未由は言い切る。 「看護婦として、子供たちといつも一緒にいるからわかります」 「……ありがとう」 微かな笑みが、波多野の顔に浮かぶ。 「それから、すまなかった」 「え?」 「新谷も言っていたろう?『看護婦失格』のことだよ」 未由は、びっくりして首を横に振る。 「え?!だって、私、本当によく泣いてばっかりで、もっと強くならないとと思います」 「そう、なにかあるたびに泣くほどに、君は子供達に思い入れてくれてるんだよな。そして、結果に傷つけられたとしても、前を向いて頑張っている。失格なんかじゃない、俺にとっては目標だ」 まっすぐに見つめて言ってから、慌てたように視線を逸らす。 「前にそれを言った時には、情けないことに嫉妬してたんだ……自分に出来ないことを、君がしてのけているのを見て。その……君の笑顔には、いつも助けられている。ありがとう」 「…………」 大きく眼を見開いて、波多野を見つめてしまう。 言葉が、上手く出てこない。 もう一度、こちらを見た波多野の顔は、今まで見たのとは全く違っていた。まっすぐで、とても強くて。 「安藤と新谷が言う通り、俺には俺にしかやれないことがある。逃げる場所もヒマも、どこにもありゃしないってわけだ」 にこり、と波多野らしい笑みが浮かぶ。 子供たちを相手にする時の、温かみがあって優しくて、そして強さを秘めた笑み。 「行って来るよ。知沙友ちゃんには、まだまだ教えてもらわなくちゃならないことが山ほどある」 「はい」 未由も、笑顔になって頷く。 「本条、もし良かったらなんだが」 「はい?」 軽く首を傾げたのに、波多野はまた、いつも通りに視線を逸らしてしまう。 「後でその話、もう一度読ませてもらいたいんだが、付き合ってもらえるか?」 「ええ、仕事が終わった後で、寄らせていただきます」 にこり、と笑顔で頷いたのに、波多野の頬がほんの少しだけ、染まったように思ったのは気のせいだったろうか。 昨日よりも、一回り大きくなったように見える背中が、廊下へと消えていく。 2004.05.23 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Written in a Picture book〜 |