こうして、作業の進み具合を見つめながら待つうちにも。
頻々と斥候からの報告は続く。
魏将軍の、到達地点を告げる。
幌をもたげ報告に頷きかけた後、彼は指示通りの準備が進むあたりに視線を向ける。
彼の狙い通り、魏将軍は急いでいる。
そうしなくては、彼が軍師を勤める斉軍が自壊してしまうと思っているから。
次々と兵が脱走しているはずの斉軍は、ほとんどがこの隘路に伏せている。
山上には弓が、草間には弩が。
竈の数で養う兵がわかる。
それが、彼と魏将軍の学んだこと。
まして、それが間違いだったことが無いのだ。
魏将軍は己の判断を信じ、夜であっても間違い無く、ここを通る。
斉軍の竈は、初日は十万だった。
翌日には五万、そして、その次は三万。
だから、魏将軍は斉軍の兵が脱走しつづけていると思っている。
斉軍が自壊する前に追いつこうとしている。
「軍師殿、あちらの準備はあのようでよろしいですか?」
兵の一人が、輜車の前に膝まづいた。
もっとも路が狭くなるそこに、見事な大樹がある。彼は、その皮をはぎ、白く塗るよう指示を出したのだ。
「あれでいいです、ありがとう……車を、あの側につけて筆と墨を持って来てくれますか?」
「はい」
己の力では、そこまで行くことすら叶わぬ躰。
なぜなら、彼の躰は膝から下がないから。
こちらに向かう魏将軍に、奪われた足。
ただ、己が孫子の子孫にあたるからという理由だけで。
いまだに、彼にはわからない。
なにをしたわけでもない。
家柄など、いまやほとんど意味ないものなのに。
ただ一人を陥れ、自由を奪い、己の出世を見せつけることが魏将軍の望みであったらしい。
それに、どれほどの意味があるのか。
彼には、わからない。
それでも。
彼にも望みがあったから。
兵法を学んだ者として、それを生かしたいという。
だから、己の不具を道具に魏将軍の元を脱出した。
そして今、斉の軍師としてここにいる。
たったヒトツ、魏将軍が彼に教えたことがある。
邪魔だと思うのならば。
そこまで考えた時、輜車が止まる。
「軍師殿、こちらでよろしいですか?」
幌を上げると、巨木の白い壁が目前にある。
「ええ、筆と墨を……」
「こちらに」
彼は、手にした筆に墨を含ませる。
そして、その細い腕で、骨太の文字を書きつけて見せた。
『涓死于拠樹之下』
「火が起こったら」
筆を返しながら、彼はいつも通りの静かな口調で告げる。
「一斉に、放て」
「はっ」
彼の指示が、十万の竈でもまかないきれぬほどの兵たちに告げられる。
夜。
魏将軍、涓は兵に樹の下に文字があるとの報告を受ける。
闇にまぎれ、読めぬ文字を読もうと彼は火打石をうつ。
火が、起こる。
己が、この樹の下で死ぬと書かれた文字を、目にする。
魏将軍の目が、見開かれる。
見知った、文字。
弓がうなり、矢の雨が降った。
魏軍は、隘路で全滅した。
たったヒトツ、魏将軍が彼に教えたことがある。
邪魔だと思うならば。
ほとんどそれとはわからぬほどの笑みが彼の顔に浮かぶ。
本当に邪魔だと思うならば。
生かしておいては、駄目なのだ。
樹の下の魏将軍の喉笛は、見事に一本の矢が貫いていた。
〜fin.〜
2002.02.23 Under the tree