[ Back | Index | Next ]


夏の夜のLabyrinth
〜13th  卒業〜

■florid・7■



翌朝、梓の病室の扉をノックする音が響く。
相変わらず、梓からの返事はない。
引き戸が開く気配がして、誰かが入って来る。が、近付いてくる様子はない。
怪訝そうに顔を上げた梓は、その微かな気配に、はっとした顔つきになる。
「昨日のお医者サマね?」
「あたりです」
風のように微かな気配が側に寄ったのがわかる。
「おはようございます、梓さん」
「おはようございます」
梓の口元にも、笑みが浮かぶ。
「おや、カーテン引きっぱなしですか」
「だって『見えない』んだもの、同じよ」
「そうですか?」
どこか、笑いを含んだ声だと気付いたのだろう。梓の声に固さが加わる。
「そうよ」
「昨日、言ったことを憶えていますか?」
ごく側で、やわらかな声が尋ねる。梓は、頷く。
「『見ていない』のなら、『見えない』のと一緒なことね?」
「そう、『見えない』のではないですよ、『見ていない』だけで」
どこか、冷やりとしたモノが触れる。そして、巻かれていたはずの包帯が落ちる気配を感じる。
「?!」
慌てて、眼を覆う。傷が、あるかもしれない。
「大丈夫、傷はどこにもないですから」
梓の思ったことを読んだかのように、声が告げる。そして、冷やりとしたモノの正体が、相手の手であるらしいとわかる。
その手が、そっと梓の眼を覆っている手を下ろす。
「顔を、右へ向けてみて下さい」
戸惑ったまま、梓は顔を右へと向ける。それが、相手のいる方と逆なのだということだけはわかる。
「いいですか、そのままでいて下さいね」
なにかが、引かれる音。
それがカーテンなのだと気付いて、梓の顔には戸惑いではなく、不安が浮かぶ。
そっと、相手が近付いたのがわかる。
「梓さん、瞼を開けてみて」
激しく首を横に振る。
事故に遭って、無事だと、気付いて、それから。
見えなかった。
なにも。
それから、驚いたように自分の眼を覗きこむ人々の気配。
瞳がどうなっているのか、自分でもわからない。おぞましいことになっているのなら、見せたくなかった。
「本当に、『見えない』ですか?」
「え?」
「また、『見ていない』だけでは、ありませんでしたか?」
そう言われてしまうと、自信がない。
相手の言うとおり、毎日目にしていたはずの景色でさえ、はっきりと思い出すことができない。
それが『見ていない』ということの証拠なのだとすれば、たった一度のそれが本当だったのかどうか、言い切ることは出来ない。
それに、知らないわけではない。
精神的に、拒否すれば『見える』はずの眼が『見えない』状態になることがあり得ないことではないことも。
梓は、おそるおそる瞼を開く。
「!」
刺すように、なにかが眼に飛び込んだ気がして、慌てて瞼を閉じる。
「どうしましたか?」
「眩しくて……」
自分の言いかかった言葉に驚いて、口をつぐむ。
眼が見えないとしたら、眩しいなんてあり得ない。
まさか、そう思いながら、もう一度、恐る恐る瞼を開ける。
見えたモノは。
真白に濁る世界。
やはり、見えてはいない。
「……見えないわ」
ぽつり、と呟く。
確かに、見えない。
でも、これが本当に眼のせいで見えないのか、自分のせいで見えないのか、わからない。
「見えているじゃないですか、光が」
「え……?」
窓の側に立っているだろう声の方へと視線を向ける。
「眩しい、と言いましたよ」
「そう思ったけれど……」
「真っ暗ですか?」
やわらかな声が尋ねる。
それには、素直に首を横に振る。
「暗くない、真っ白」
「ほら、ね、それは光が見えているからです……梓さん、『見よう』と思って瞼を開けたでしょう?」
こくり、と素直に頷く。
「大事なのは、『見える』か『見えない』か、ではなくて、『見よう』とするかしないか、です」
なにか、からり、と動く音がする。
「あ……」
思わず、梓は声を上げる。
頬に感じるのは風、それから、耳に届くのは木の葉の揺れる音、小鳥たちがさえずる声、道路を行く車たち。
鮮やかに、目前に広がるモノがある。
「『見よう』と思えば、いろいろなモノが見えてくるでしょう?」
もう一度、梓は頷く。
「そうやって、お父さんとお母さんを見たことがありますか?」
びくり、と肩が震える。
相手は、知っている。
どうして、眼が見えなくてもいいと言ったのかを。
もしかしたら、事故の原因さえ。
「私……」
言いかかって口を閉じてしまった梓の側に、相手が近付いたのがわかる。梓は、躰を強ばらせる。
「『見よう』と思って、見たことはなかったでしょう?」
声は、相変わらず優しい。風のように、どこかへいっていまいそうなままで。
梓は、身を固くしたまま、それでも頷く。
「ない……」
そっと、手を取られるのがわかる。
「見にいきませんか?お母さんのところに、お父さんが来ていますよ」
梓は、促されるままに立ち上がる。

普通の病室へと移って来たばかりの母親の側に、父親がいる。
それは、扉の隙間から覗いているだけの梓にもわかったようだ。
それでなくても忙しい父親は、ここ最近更に忙しいはずなのに事故以来、少しでも時間がとれれば病院へと足を運んでいるのは、知っている。
「ねぇ、こんなに病院に来なくてもいいわ」
母親の声に、梓の表情が凍る。
少し戸惑う父親の声。
「でも、お前と梓が心配で……」
いつになく、早口の母親の声が聞こえてくる。
「私、貴方のことの方が心配ですわ、だってお仕事はものすごく忙しいのに、病院にまで来て……倒れてしまったら、どうしたらいいんですの?」
語尾が、少し震えている。
「私だって、貴方が側にいてくださるとものすごく嬉しいですわ、でも……貴方が倒れるなんてこと……」
「おい、泣くなよ」
慌てる父親の声。
「ごめん、返って心配かけてるなんて、考えたこともなかったよ」
俯いていた梓が、手振りで戻りたい、と示す。

黙りこくっていた梓は、自分の病室のベッドに戻ってから、やっと口を開く。
「あのね、先生」
「はい?」
静かな声が、応えてくれる。
「私……」
きゅ、とシーツの端を掴む。
「父さまと母さま、昔のことなんて、関係ないの」
ぽた、とシーツを掴む手の上に、雫が落ちる。
「一緒にいて、幸せなの」
ぽたぽたと、溢れてくるモノはとまらない。
「私……見てなかったんだね……」
冷やりとした手が、頬に触れるのがわかる。梓は、顔を上げる。
「先生」
見えない視界は、ただ白い。
その瞳で、必死で相手のいるはずの場所を見る。
「私の眼、見えるようになるの?」
「梓さんの眼は焦点を合わせにくくなっているだけです、手術はしなくてはなりませんが、必ず見えるようになりますよ」
「手術は、大変?」
「もちろん手術ですからそれなりには大変です、でも傷は見えるようなものは残りませんし、一週間もすれば退院できますよ」
涙の零れつづける頬を、やさしく撫でてくれていた手が、そっと頬を包み込む。
「もしかしたら、お母さんよりも早いかもしれませんね」
「私……私、目の手術したい……もっと、いっぱい『見たい』よ」
そっと、抱き寄せられるのがわかる。
梓は、声を上げて泣きだす。
まるで、全部洗い流してくかのように。



桃の花びらが散っていく。
三月の中旬、ここはとある学校の校門近くだ。今日は、梓の卒業式なのだ。
「結局、事故調の結果はどうなったわけ?」
俊が尋ねる。
「運転手の調整ミスです、オイル缶の中身を入れ替えたのは第三者ですが、それに気付かずにブレーキオイルを入れ替えたのは彼自身だとわかりましたので」
「でも……?」
怪訝そうに俊は首を傾げる。入れ替えたのが第三者ならば、運転手に責任はあるまい。
「使っていないはずのオイル缶の蓋が、半分開いていたのを見た人が案外多くいたようですよ」
亮の顔に、笑みが浮かぶ。
関わる人をまとめて片付ける方法を梓が思いついたのは賢かったが、やることのツメは甘かったようだ。
そのおかげで、運転手の管理の甘さの責任になった、というわけだ。
「自業自得か」
言いながらジョーが煙草をくわえようとすると、須于が取り上げる。
「駄目よ、学校の前なのよ」
「そうか」
大人しく頷いて煙草をポケットに収めるジョーを見て、麗花が可笑しそうに肩をすくめる。
それから、亮に向き直る。
「ね、梓ちゃんが眼、見えるようになってから一度も会ってないんだよね?」
「そうですね」
「わかるのかなぁ?」
あのお医者さまに会いたい、と望んだのは梓だ。
ぜひ、直接お礼を言わせて欲しい、と吉祥寺総裁夫妻にまで頭を下げられてしまったこともあるし、遊撃隊だと知られているわけでもない。
忍たちも、梓が元気かどうかは、気になるところだ。
そんな事情で、今日、ここで会うことになっている。
で、卒業式が終わるのを待っているわけだ。
「髪が長いのは、知ってるんだろ?だったら、須于と間違えるってことは?」
俊が首を傾げてみせると、ジョーがぼそ、と口を挟む。
「髪を切ってるかもしれない」
「ジョーったら」
須于が少し頬を膨らませる。
「大丈夫だよ」
忍が、にこり、とする。
「わかるよ」
「どうして?」
麗花も首を傾げる。
「梓ちゃんは、『見て』いたから」
「そうですね」
亮も、にこり、と笑う。
「……?」
「なんのこっちゃ?」
わけがわからずに、首を傾げている俊と麗花をよそに、ジョーが校門内へと視線を向ける。
「来た」
六人の視線が向いた方から、緊張気味の顔つきで、それでも走ってこちらへ向かってくる一人の少女がいる。
かわいらしいツーピースを着ているし、髪もポニーテールにまとめているが、間違いなく梓だ。
手にしているのは、卒業証書のケースだろう。
どうやら、校門の外の六人に気付いたらしい。
その顔に、笑顔が浮かぶ。
六人は、手を振ってやる。
息せき切って駆け寄って来た梓は、迷うことなく亮に飛びつく。
「先生!ありがとう!」
それを見た俊も、にや、とする。忍の言った意味がわかったから。
「なるほど、『見てた』わけか」
「やるじゃん」
麗花も笑う。
須于とジョーも、顔を見合わせて微笑み合う。
どうにか梓を抱き止めた亮は、微笑んでみせる。
梓の聞きたかった、やわらかな声が言う。
「卒業、おめでとうございます」



〜fin〜


[ Back | Index | Next ]


□ 月光楽園 月亮 □ Copyright Yueliang All Right Reserved. □