[ Index ]


夏の夜のLabyrinth
〜雨降り日和に傘ヒトツ〜

■柔らかな雨■



「あのなぁ、緊急だという連絡が、それか」
呆れ返った声を、忍が出す。
『おーねーがーいー、本気でピンチなの』
電話の向こうで拝まんばかりになっている小夜子の姿が目に浮かぶ。にしても、だ。
「たかがフライパン焦がしたくらいで、軍隊に電話するなよ」
『たかがじゃないのよ、アウヴィッェンのスフエシリーズという、最高級品なのよ』
新妻が夫の為に手料理なんて、ごくごく当たり前のことであろう。共稼ぎだから、たまの休みだし、というのもだし、せっかくだからと奮発して、新しいメニューに挑戦して失敗、なんてのも、ありがちであろう。
問題は、それをやったのが、会社創始者経営者宅、ということである。
早くに母親が亡くなっているのもあり、当然、おかかえシェフなんてのがおり、置いてあるフライパンもシェフ厳選の品。
とにもかくにも、厳然たる現実として、高級フライパンが再生不能状態に陥っているという事実があるわけだ。
ごくごく一般、とされる家庭に育ち、家計やりくりをなによりの得意としてきた小夜子が、最高級品とやらをダメにして焦っているのは大変よく理解出来る。
だが、なぜ、軍隊にまで追っかけてくるのか、姉よ。
『焦がしちゃったのは、頭下げて、大変申し訳ないけど買い直してもらえばいいとして、よ』
手に馴染んでるかどうかはともかく、それが当然だろう。
それなら、わざわざ忍に連絡する必要はないわけで。
『今後、気楽に料理しようと思ったらね、私専用のフライパンが欲しいわけよ』
その気持ちは、わからないでもない。
『でもね、スーパーのお買い得品、置かせてもらうのも気がひけるでしょ』
ごもっとも。
その言葉で、ぴんとくる。
「ちょい、待て」
ここまで追いすがってきた、という根性と窮状をかんがみて、携帯を手に内側の扉で繋がっている隣室をノックする。
「はい?」
亮は、珍しく窓際に椅子を寄せて、本を読んでいたらしい。軽く首を傾げつつ、顔を上げる。
忍は片手で拝んで見せつつ、尋ねる。
「あのさ、アウヴィッェンのスフエシリーズとかいうフライパンに似てて、お手軽安物って知らない?」
「アウヴィッェンのスフエシリーズ、ですか」
忍の口から、フライパンのメーカーなんていうのが出てきたのに驚いたらしい。少々目を見開いている。
しかも、似ている安物とは。
「いやね、姉貴が焦がしちまったんだと」
と、携帯を指してみせる。
それで、だいたいのことは察しがついたらしい。
少しの間、首を傾げていた亮は、やがて、にこり、と笑う。
「わかりました」
ぱたり、と本を閉じる。
「ところで忍、お姉さんには結婚祝をしましたか?」
どうやら、思い当たるモノがあるようだ。
携帯の保留をといて、小夜子に告げる。
「おっけ、それ、俺からの結婚祝にするよ、しばらくしたら届けに行くから」
切って、ポケットにつっこんで。
「じゃ、亮、よろしく」
と片手で拝む。
にこり、と亮は微笑んでから、思い出して付け加える。
「今日は傘を持って行った方がいいようですよ」
「そういや、降るって言ってたよな」
というわけで、忍が車を出して、買い物に出る。
ついた先は、小夜子が焦がしたというアウヴィッェンのアルシナド店だ。
調理器具を総合的に扱っているらしく、かなり大きな店構えでいろいろと取り揃っている。
ショーウィンドウからして、キレイな台所にピカピカの調理器具が並んでいて、女の子ならきっとこんな台所に憧れたりするのだろう。
にしても、上質とうたっているだけあって、なかなかに値段も高い。
いったい亮は、なにを思いついたのやら、とついていくと、可愛らしいディスプレイの一角に辿り着く。
ディスプレイされているのは、子供と一緒に、というコンセプトのモノだ。
モノはなかなかいいらしいが、値段はそこそこ。
子供の初めてのお手伝い、を想定しているのだそうで、失敗も気楽に、なのだそうな。
なるほど、確かに値段も充分手が出るし、これならおかかえシェフもみすぼらしいとは思うまい。
そういうわけで、フライパンを一個、お買い上げ。
野島家の屋敷に車で乗り付けると、やれお茶やらお茶菓子やら、と大騒ぎになるのは目に見えているので、ちら、と出た辺りで待ち合わせて、モノを渡して感謝感激状態の小夜子と別れて。
駐車場への、帰り道。近道をしようと公園に入ったあたりで、ぱらり、とくる。
どうやら、天気予報どおりのようだ。
さらさらと降り出した雨に、二人して傘をさす。
「まぁ、ともかく助かったよ、姉貴の家庭も円満に済みそうで」
忍が、苦笑しつつ礼を言う。小夜子の慌てぶりを思い出したのだろう。
くすり、と亮も笑う。
「いえ、丁度いいお祝いになったようで、良かったです」
「そうなんだよな、実のところ、なに贈っていいやら考えつかなくって保留にしてたもんだからさ」
照れくさそうな笑みへと変わる。
「そういう意味でも、助かったよ」
それから、ふ、と我に返る。
「にしても、よく子供と一緒、なんていうコンセプトのシリーズなんて知ってたな」
「仲文と広人の雑用は、たいがいしてましたから。結婚式のお祝いも、出産祝いも、それなりにありましたし」
亮は、なんてことなさそうに言う。
「なるほどな、確かに友達同士だと、欲しいモノ贈るよ、なんてよくやるよな」
「ええ」
お祝いになりそうなあれこれを、亮が選んでいるところを想像してしまって、忍は思わず、くすり、と笑う。
亮が、不思議そうに首を傾げる。
何か、言いかかったのだが。
「きゅうん」
との声に、二人共の足が止まる。
どちらからともなく、顔を見合わせる。
ふざけてみせるにしろ、二人ともが出しえない声だ、ということだけはわかる。が、周囲に人影はない。
「……?」
「きゅうん」
二人の視線が、同時に下へと落ちる。
「あ」
「こわんこ」
ダンボール箱の中に、柴犬っぽい子犬が、目をいっぱいに見開いて見つめている。
ぴた、と目が合った、とわかったなり、もう一度。
「きゅうん」
「コイツ、ツボを心得てやがる」
わんこのような瞳、というののホンモノと、切なそうな鳴き声ときた。どちらかといえば、クールな方である忍にも、くるものがあったらしい。
が、いま現状は、少々余裕があるとはいえ、忍たちがいるのは軍隊だ。
動物を飼ってやるわけには、いかない。
すい、と腰を下ろしたのは、亮だ。
自分の差していた傘を、子犬の側へちょうど、屋根になるように置く。
そっと、濡れている子犬の頭を撫でてやる。
「ごめんね、つれてってやれなくて……」
どこか、痛みを帯びた視線になっているのに、忍が気付かぬわけはない。
何も言わず、忍は自分の傘に亮を入れてやる。
自分に影が差したので、気付いたのだろう。
振り返った亮に、にこり、と微笑む。
「今日は、急ぐ用事もないし……少し、様子見てこう」
こく、と素直に頷いた亮と一緒に、子犬からは少々離れてるが、こちらからは一目瞭然、という場所へと立つ。
ただ、さらさらと雨が降りつづける。
たまに、子犬が、切なそうに鳴く声がする。
あたりは静かで、人の気配すらない。
でも、なんとなく、そのままなのも心配で。
そのまま、眺めている。
どのくらい、たったのか。
やはり、人の気配はない。
「きゅうん」
また、子犬が、鳴いた。
二人は、どちらからともなく、顔を見合わせる。
子犬は、心配だ。
でも、誰も、人は通りかかりそうにもない。
このまま、子犬を見つめていたら、間違いなく置いてくことが出来なくなる。
可哀想だが、引き時を考えなくてはならない。
が、なんとなく、互いに言い出し難くて、また、どちらからともなく、子犬へと視線をやった時。
ばたばたっと、足音が響いてくる。
そして、ふ、とその足音が止まる。
カバンで頭をかばっていたミドルスクールらしい制服の少年は、傘が目に入ったようだ。
不思議そうに、首を傾げている。
こんなところに、広げた傘があるのが、不思議だったのだろう。
が、この雨でこんなところにある、ということは、いまこの瞬間は、必要とされていない傘、と判断したようだ。
そっと、手を伸ばす。
「きゅうん」
びく、と手を止めた少年は、恐る恐る傘の下を覗く。
そして、子犬と目があったようだ。
ひょい、と抱き上げる。
カバンが肩へと下りたので、完全に顔が見えた。
「……あ」
思わず、忍が目を見開く。亮にも、誰だかわかったようだ。
彼は、去年の夏、天宮の別荘で亮に襲い掛かった少年、瑳真惇だったのだ。
去年よりぐっと背が伸びて、顔つきまですっかり大人びてきている。
自分の肩にウェンレイホテルグループを背負う、と決めて、しっかりとやってきているなによりの証だ。
「お前、家族、いないのか?」
首を傾げて、子犬に尋ねている。
「くう……」
まるで、答えるように、子犬が鳴く。
「そっか、じゃ、俺と一緒だな」
立て続けに両親と兄を失い、たった一人の頼りだった叔父には裏切られた。
その寂しさが、声ににじむ。それは、普段は人には絶対に見せないはずのもの。
いや、見せてはならないと決めているもの。
あの、滅多に人を誉めたりしない健太郎が、よくやっているよ、と漏らしていたのを亮は知っている。
「わふ」
ぺろり、と子犬が惇の頬を舐める。
にこり、と笑みが口元に浮かぶのがわかる。
「なんだよ、お前、俺の家族になるか?」
じい、と目に見入っている様子だ。子犬のシッポが、ふるるっと振られるのが見える。
「あんっ」
「ようし、決まり!お前、風邪引くなよ、長生きしないとダメだからなー」
言いながら、ひょい、とカバンと反対側の肩へと抱き上げる。
それから、傘も持ち上げる。
「先ずは、風邪対策、それから名前決めるからな、落ちるなよ」
言いながら、丁寧な歩調で歩き始める。
忍と亮は、どちらからともなく、顔を見合わせる。
どちらからともなく、笑み崩れる。
「よかったな」
「ええ」
もう一度、子犬がいた、空きダンボールへと視線をやってから。
「行くか」
「はい」
一緒に、歩き始める。
さらさらと、雨は降り続ける。
どこか、暖かで、柔らかな雨が。


〜fin.

2003.05.18 A Midsummer Night's Labyrinth 〜Gently rain〜


■ postscript

傘で歩くシチュエーションで、買い出しじゃないということで。
まだまだ新婚さんな正和、小夜子夫妻は仲良らしい+家族のいなかった惇に、ちっちゃな家族が増えるの巻。
懐かしの少女マンガ風味?です。


[ Index ]


□ 月光楽園 月亮 □ Copyright Yueliang All Right Reserved. □