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夏の夜のLabyrinth
〜雨降り日和に傘ヒトツ〜

■お嬢様の優雅な一日■



呼び出された場所が天宮の屋敷という時点で、奇妙だとは思っていたが。
状況は、ますますヘンな様相を呈している。
財閥総帥であり、リスティア総司令官でもある健太郎自らが運転席に座っているのだから。
生まれて初めて天宮家の車の助手席に収められ、シートべルトをしめた七歳の亮は、首を傾げる。
「何が始まるんです?」
「罰ゲ一ムだよ」
健太郎は、口の端に笑みを浮かべる。
「罰ゲーム、ですか?」
「そ」
実にシンプルな返答で、答えになっていないが、亮には思い当たる節がないわけではない。
去年の秋に、自分で自分を切りつけ過ぎて倒れたことだろう。春まで待っていたのは、秋の半ばから急に体調が安定してきたとはいえ、安心しきれるほどではないと判断したからだ。
期間があった分、用意も周到というところだろう。
ここは、大人しく付き合うしかなさそうだ。
「どこへ行くんですか」
無表情の中に、微かな諦めを見て取ったらしい。健太郎の口元の笑みが、幾分、大きくなる。
「先ずは、仕事」
聞き慣れた単語の二ュアンスも、いつもと違う。
亮も、それ以上の質問を重ねようとはしない。
車内に沈黙が落ちて、少ししてから。
ぽつり、と、健太郎が問う。
「慣れたか?」
仲文との暮らしのことだ。亮は小さく頷いてから、付け加える。
「和風のご飯なら、それなりに作れるようになりました」
「そりゃいいな、飯炊いて、味噌汁作って?」
ここ一年ほど、見せたことの無い楽しそうな笑みだ。亮は、もう一度小さく頷く。
「この間、豚汁を覚えました」
「この間?」
「急に、広人が食べたいと言いだしたので、仁未さんに教えていただきました」
くすり、と健太郎は笑う。
「にぎやかそうだね」
亮は、少し首を傾げる。
「よく、わかりません」
健太郎が一人で寂しかろう、という配慮もあるのだろうが、それ以上に、そのにぎやかさの中に自分がいる、という自覚がないようだ。
口元に笑みを貼り付けたまま、健太郎は別の問いをする。
「何か、発見はあった?」
少し、首を傾げて考えてから、また小さく頷く。
「胃というのは、あんなにたくさん許容出来るものなのですね」
「なるほど」
笑みが大きくなる。
仲文も広人も、まだまだ食欲旺盛なのに違いない。亮は、いままで想像もしたことのなかったような大量の食事量に、かなり驚いているらしい。
そんな会話をしているうちに、最初の目的地にたどり着いたようだ。
健太郎は、壮麗な門内へと車を滑りこませる。
目前に建つのは、絵本にでも出てきそうなかわいらしい洋館だ。
相変わらず話が見えないまま、建物を見上げていると、扉が開けられる。
慣れた仕草で、健太郎が手を差しだしている。大人しく手を取られながら降りると、総帥秘書を勤める梶原が笑顔でやって来る。
「おはようございます、時間通りですね」
「仕事だからな」
にや、と健太郎の顔に笑みが浮かぶ。
「おはようございます」
亮も、感情を殺しきっているとは思えない笑顔になる。総帥室で顔を合わせたことがある梶原向けというよりは、その向こうにいる何かのスタッフ向けと言った方が正しいが。
梶原も、笑顔を返す。
「いい笑顔ですね、今日はその調子でお願いしますよ」
「アパレルの方で本格的な子供用ブランドを立ち上げることになった」
健太郎が、さらり、と言ってのける。
「やるからには、売れないとな」
「ええ、ブランドイメージは、最初が肝心です」
梶原も笑顔で頷く。
なんとなく、話は見えてくる。
「子供服のモデルをやれ、と?」
「ご明答」
罰ゲームと言い切られているからには、意見をさしはさむ余地は無いということだろう。
いくらか首を傾げる。
どうすればいいのか、の問いと正確に判断した健太郎は、笑みを大きくする。
「じゃ、始めよう」

最初のうちはモノクロのシンプルなデザインで、注文も『キツめの視線な無表情』だったので、そう苦労することもなく撮影が進んだのだが。
転機は六着目に訪れた。
次の衣装、と差し出されたモノを見て、すっかり無表情が板についている亮の顔が、間違いなく凍りつく。
どれほど贅沢に布を使ってるんだろうと考えてしまうほどのピンタックに、ローウェストの横には大きなリボン。ス力一トも切り返しつきの二段。
「コレ……ですか?」
「そうよ」
スタイリストは、あっさりと肯定する。しかも、心まで凍りそうなことを付け加える。
「これからが本番だからね」
明らかに声が弾んでいる。
なるほど、罰ゲーム……
亮は諦めの表情と共にワンピースに袖を通す。
共布使いの大きなリボンを頭につけられ、撮影現場の方へと行くと、スタッフ一同から歓声が上がる。
「すごいー!」
「似合ってる似合ってる」
個人的には、こういう、相手に性別をはっきりと認識させる格好は、どう考えても似合ってないのだが。
撮影場所は先ほどまでと一緒だが、採光も上がってるし、花がやたらと置きまくってある。
指示された場所に立つと、『笑って』とのご注文。
引きつらせないのでいっぱいいっぱいの笑顔を浮かべる。
「んー、も少し自然に笑ってー」
自然にと言われましても、これ、かなり精一杯ですが、とココロで呟くが、そんなのは通用しない。
頭の中を切り替えないと、延々と付き合わなくてはならなくなる。
「………」
にーっこり、と極上の笑みを浮かべる。
「あ!かわいいよ!」
スタッフは亮のことを当然女の子と思っているわけで、これはもちろん誉め言葉。
珍しくその単語がすんなりと入ってきたのは、多分、去年のクリスマスに別の人に言われていたからだ。
「信じてる」という単語は、もう幻なのに。
せっかく浮かべた極上の笑みが皮肉なモノに取って変わらないよう、気を付ける。
遠い記憶と同じように笑っていた人を守りたいのなら、人形に徹するのが一番と決めた。
それなら、相手が欲しいと思う笑顔を浮かべるくらいは簡単なこと。
もう二度と、彼の、そして彼らの命を散らさないと決めたのだから。
その場にいる誰もが、はっとする。
柔らかで、優しくて、痛みも哀しさも包み込んでしまう笑み。
もしも、この笑顔で「好き」と告げられたなら、十歳にもなってないとわかっていても、どきり、とするに違いない。
子供の笑顔ではない。
でも、間違いなく似合っている。
「そのままでね!」
力メラマンは、嬉しそうにシャッターを切りまくっている。スタッフたちもいいポスターになると確信したようだ。
梶原が、笑顔のまま首を傾げる。
健太郎は、軽く片眉を上げる。
「どうかしたか?」
「なかなか堂に入ってると思いまして」
「ウソを言え」
梶原の笑みが苦笑へと変化する。
「血は争えませんね」
「?」
怪訝そうな顔つきになった健太郎と、眼を合わせることなく言ってのける。
「誰かを強く想ってなけりゃ出来ない瞳をしてますよ」
麻子とのことを、話したことなど無い。詮索するような性格でもない。
でも、言い切る。
「同じ瞳をしてますよ」
「あれの方が賢いよ」
何気ない口調で、健太郎もさらりと返す。
健太郎へと視線を向けた梶原は、笑みを大きくする。
「よく見ていて下さいよ、本命はご自分で選んでいただかないと」
「よく見てるよ、言われなくても……全部似合う場合はどうすりゃいいんだ」
冗談ではないらしい。いたって真面目な顔つきだ。
「何気なく親バカ発言して下さるのもいいですが、選ぶのはヒトツですからね」
「わかってるよ」
水色のワンピースに真白のエプロンつきのアリス風も、リスティア系を水で薄めたかのような色の髪と瞳をしている亮には似合っている。
ペチコートにフリルたっぷりのス力ートにブーツも、そのまま人形のモデルにだってなれそうだ。
さて次、という時に、梶原が着替える為の部屋へと顔を出す。
「この次の衣装だけど」
「はい」
亮はすっかり着せ代え人形状態なことには、諦めが入っているらしい。どんな衣装が来ても驚かなさそうだ。
梶原の顔に浮かんでいる笑みが、大きくなる。
「選んでくれるかな?」
「僕が、ですか?」
ヒトツ、瞬きをする。
「そう、テーマはね、『大事な人とデート』」
「デ?」
明らかな驚愕が顔に浮かぶ。梶原は如才ない顔つきで続ける。
「大好きな人に、力ワイイとかキレイって思ってもらえそうな服ってこと。仕事じゃなくて遊びに行くんだよ、もちろん」
感情を押し殺している方でなく、驚きのあまりに、表情が凍りついている。
が、その場にいるスタッフたちは大賛成だ。
「それいい!」
先ほどまでに、取っ替え引っ換え着せられていた服を困惑顔で見つめる亮に、トドメを刺す。
「こっちの使ってない方も見ていいからね」
梶原は、凍りついている亮に、ぴしっとヒビが入る音がした気がした。

次に亮が現れるまでには、たっぷり三十分は経っていた。
健太郎が、思わず眼を見開いたのだから、周囲は言わずもがな。
真白のノースリーブのワンピースは、今まで着せられていたのに比べれば、ずっとシンプルだ。でも、抑えた数のピンタックが返って効いているし、広がりすぎない裾は清楚という単語がぴたりとくる。
柔らかい編み込みの皮べルトも白で、ゆるく結ばれた先が歩くたびに揺れている。
何より白を引き立てているのは、ほんの微かに水色の変わり織りのカーディガン。裾は腰を隠さないからべルトも効いているし、袖丈は手の甲までくるルーズさがなんとも可愛らしい。
髪にはなにもつけてなかったが、広がらない性貨なので、逆に清楚さを際立たせている。
「これはこれは、天使が舞い降りたかと思いましたよ」
沈黙を破ったのは梶原だ。
完全に息を飲んでいたスタッフたちも、口々に誉めながら、この雰囲気に合う背景を作るために動きはじめる。
座って待っていてと言われたソファにおとなしく腰かけて、亮は、外へと視線をやる。
リテイクされたら耐えられそうにもなかったので、どうやら合格らしくて、ほっとする。と、同時に馬鹿馬鹿しい気もしてくる。
こんな格好をしたところで、誰に見せるのだろう?
自分の勝手で、そして自分の手で、手放してしまったのに。
自分のしたことに後悔はしていない。
記憶の意味を知って、守ると決めた今では、尚更。
でも、自分が選んだ服は。
もしも、などと、らしくない思考をしてみる。
今の自分を見たのなら、何て言うのだろう?気に入ってくれるのだろうか?
梶原が、力メラマンをつつく。
亮は、ソファに膝をついて、でも、身を乗り出すわけでもなく、窓の外を眺めている。
そっと、誰かを待っているかのようなたたずまいで。
カメラマンが数回シャッターをきる。
敏感な亮が、音に気付かないわけもなく、すぐに振り返って微妙な雰囲気は四散する。
それから、注文通りのポーズで数枚写真を撮って、撮影は終了だ。
梶原が、笑顔を向ける。
「お疲れさまでした、その服は記念に差し上げますよ」
「そうか、じゃ、これで」
亮が返事をする前に、健太郎が返してしまう。
スタッフたちにもそれなりの言葉をかけてから、亮に着替える間も与えず、歩き出す。
どうやら、健太郎の言うところの「罰ゲーム」は、まだ続いているらしい。
大人しくついていくしかなさそうなので、亮も後ろから追いかける。

車が走り出してからも健太郎が無言なので、亮は少し、首を傾げる。一瞬、逡巡してから、尋ねる。
「次は、どこへ行くんですか?」
「ん?少し遅くなったけど、昼食。その後は、ま、ぼちぼちとだな」
「………」
また、少しして。
「もしかして、今日は休みなんですか?」
「午後からはな」
先ほどまでの撮影の立ち合いも仕事扱いであるらしい。相変わらず、少し首を傾げたまま、亮は呟くように「そうですか」と言ったきり、黙り込む。
しばしの沈黙を破ったのは、健太郎だ。
「初めてとは思えないな」
「はい?」
窓の外から、視線が健太郎へと戻る。
「そういう服、自分で選ぶのは初めてだろ」
「……はい」
うつむいてしまった亮に、健太郎は笑顔を向ける。
「似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
普段の亮の無表情っぷりを知る人でなければ気付かないくらいに微かに、頬が染まる。
「昼は葵にしよう」
祇園通りの料亭なら、個室になっている。少なくとも、衆目は気にせずに済む。
日頃から贔屓にしてることもあるし、予約無でもよほどでない限りは入れるはずだ。
こくり、と亮も頷く。

接待ではないので、昼らしく小ぶりの松花堂弁当をゆっくりとという優雅っぷりだ。
優雅だろうが、亮の服装がいままでになくかわいらしかろうが、交わされる会話はいつも通りに旧文明関係の後始末のことと財閥の経営関係のことなのだが。
もし、襖越しに盗み聞きをしている人間がいたとしたら、片方は七歳だとは思いも寄らないに違いない。
「……まぁ、仕事の話はこんなところにしとくか」
話題を切ったのは健太郎だ。
「この後だけど」
「はい」
口調が微妙に諦めているのに、健太郎はかろうじて苦笑を我慢する。
「新しい花の公園が出来たの、知ってるか?」
「いえ」
「春の花がちょうど満開らしい。たまたまニュースで見かけたが、悪くない感じだった。が、いかんせん、俺一人だと行きにくくてな」
亮は、ヒトツ、瞬きしてから、こくり、と頷く。
「では、そこに行きましょう」
別に、スーツの男性が一人で花園を訪れたところで、そう変だとは思わない。
だが、『Aqua』最大の財閥総帥として、リスティア全軍を率いる総司令官として、なにかとマスコミに注目される立場だと、そうも言い切れなくなるのは、言われずともわかっている。
それに、健太郎は世間一般とされる男性よりも花に詳しいし、好きでもあると知っている。
「道端に咲いてるような小さなのも集めてあるらしいよ」
亮は、またヒトツ、こくり、と頷く。
五歳になるまでは病院から一歩も出られず、いまでも冬に外へ出るのは細心の注意が必要な亮が、いくらかでも外を知ることが出来るように。
超がつく多忙の合間を、健太郎はぬっている。
微かに、亮は首を傾げる。
「また、たくさん花の名前を教えて下さい」
健太郎は、にこり、と微笑む。

ごく自然に、その感嘆詞は亮の口をつく。
「……すごいですね」
まさに、春爛漫、という光景だ。太陽の下、眼一杯に咲き誇る花は、壮観ともいえる。
「チューリップにも、こんなに種類があるんですね」
「そうだな、交配して新種作るっていう点では、バラには及ばないけど、というくらいには多いんじゃないのか」
視界に入ってくるだけでも、色も様々なら花弁も様々だ。一重八重、フリルのようにひらひらとしたのや、これが花弁かと首を傾げたくなるような、針状になったのや。
チューリップだけではない。パンジー、ひなげしなどの良く知ってるものから、口に出して呼んだら舌を噛みそうな、初めて眼にするのまで、陽をいっぱいにうけて、まぶしくなるような色彩だ。
健太郎は、知らぬ名に行き合うと、少し歩調を緩める。その姿と名を、記憶に留めるために。
その仕草はごく自然で、完全に身についたもので。
小さな淡い色合いの花を見て、健太郎の顔に、ふ、と笑みが浮かぶ。
「これ、かわいいな」
こっくり、と亮は頷く。
花屋では、絶対にお眼にかかれないであろうそれは、どちらかといえば雑草に分類されるだろうし、それに。
一緒に、花の名と姿を心に留めながら、亮は、健太郎と反対側の隣を見上げる。
いるはずだった、いない人。
その人がいなければ、健太郎はこんなちっぽけな花の存在に、気付くことすらなかっただろう。
けして、懐古主義的に語り続けることはないけれど、ほんの少し、そっと。
間違い無く、彼女はそこにいる。
健太郎がこちらを見る前に、花へと視線を戻す。
『崩壊戦争』の後始末が残っていると告げた時、健太郎は何の迷いもなく、
「それなら、片付けるだけだ」
と言ってのけた。命を、堵することになるかもしれない。それすら、確かめることもせずに。
もし、彼の望み通りになっていたのだとしたら、自分は、同じように告げられただろうか。
我知らず、苦笑が漏れる。
そんなこと、考えても仕方ないのに。
やはり、こういう無駄の多い服は自分向きではない。
余計なことを、考えすぎている。
「亮?」
顔を上げると、健太郎が軽く首を傾げて覗きこんでいる。
「疲れたか?」
「いえ、初めて見る花が多いなと思いまして」
「確かにな、交配種がけっこうある」
軽く園内を見回す。
「気に入ったのはあったか?」
「鉢植えよりも、広い場所でいっぱいに咲いてる方が良さそうでした」
健太郎の笑みが大きくなる。
「そうか」
なにやら、いくらか妙な動きをしてから、外を指す。
「喉乾いたし、お茶にしよう」
こっくり、と亮も頷く。
健太郎がお茶と言いだしたのは、亮を歩かせすぎてもと気遣ったのもあるが、なんとなく雲行きがあやしくなってきたのも理由だ。
が、その判断は微妙に時を逸していたらしい。
ゲートまで来たところで、ぽつりぽつり、と大粒の雨が落ちてくる。
「やっぱり来たか」
「通り雨でしょう」
真上でなく、風上へと眼をこらしながら、亮が応える。
「車まわすから、ここにいろ」
健太郎は、慌てて帰宅の途につくだろう人が多いのを予測して、端の方を指す。
雨宿りという手もあるが、健太郎の立場では、あまり望ましくはない。亮は、こくり、と頷く。
片手をかざした健太郎の後ろ姿が雨と人ごみの中へと霞む。
ほんの微かの間に、雨脚は随分と強くなってきている。
感心するのは、どんな時であろうと、必ず出現する人種のことだ。どこからつけていたのやら、健太郎が離れたと見た途端に、動きだす。
にっこり、といかにも作りモノという笑みを浮かべて、亮の前へと立ちはだかる。
「コンニチハ、お嬢ちゃん」
亮は、いかにも怪訝そうな顔つきになってみせる。
「お父さんには、お仕事でいつもお世話になってます」
「そうですか、父がお世話になっております」
素直にペこり、と頭を下げた子供を見て、男の方は半ば、我が事成れり、と判断したようだ。口元の笑みが大きくなる。
「傘なら、私が持っていますから、お父様のところまでお送りしましょう」
亮の笑みも大きくなる。
「ご親切にありがとうございます、父には、ここで待つよう言われておりますので」
丁寧だが、断固とした口調だ。
男の顔の笑みが、凍てついたモノへと変じる。
「大人しく従っていただけないとなると、手荒なマネをせざるを得ませんが」
言葉と同時に伸びてきた手は、ぴしり、とはねのけられる。瞬間だったが、完膚なきまでの拒絶だ。
しかも、とても子供とは思えない正確さでツボをはたいてのけている。予想以上の痛みに、男は逆上する。
はたかれたのと反対の手を、すばやくポケットにつっこんだ、その瞬間。
男の喉元は、見事な勢いで、突き上げられる。
「しつこいのは嫌われるって鉄則も知らないの?」
穏やかだが容赦無い声は、亮と同じ年頃の少年のモノ。
男の喉元を跳ね上げたのは、彼の手にしている袋に収められた竹刀だ。
あからさまに、男は不愉快な顔つきになるが、少年の腕は年齢に不相応に高い。
それでも連れ去ろうとすれば、騒ぎが大きくなるのは火を見るよりも明らかだ。これ以上の騒ぎは自分の不利と覚ったらしい。舌打ちをして、背を向ける。
男の姿が完全に消えたのを見計らって、少年は振り返る。
後ろ姿だけで、亮には少年が誰なのかわかっていた。
視線が合う前に、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ヨケイなおセワじゃなければ良かったんだけど」
久しぶりに聞く声は、すんなり耳に馴染む。
「いえ、そんなことはないです」
顔を上げると、笑顔と眼が合う。
このにわか雨に思い切りやられたようだが、それを気にする様子は無く、笑みを大きくする。
「久しぶりだね、天使ちゃん」
少年は、はっきりと相手が誰なのかを認識した上で、助けに入ったのだ。亮が忍だ、とすぐに気付いたのと同じで。
関わってはいけない、と知っているのに。
絶対に巻き込まない、と決めているのに。
目前の少年は、それをあっさりと飛び越えてしまったかのような笑顔で見つめている。
もっとも、それは亮の勝手な認識で、忍には関係の無いことだ。
こんな格好で、良かったと思う。
完全に女の子と思っていてくれる限りは、自分が消した記憶は、戻らないはずだから。
にこり、と微笑み返す。
「お久しぶり、さすが剣士さん、スゴウデなんだね」
忍は、照れ臭そうになる。
「いや、真似してみただけだから」
「その割には、無駄がなかったけど」
言いながら、ポケットからハンカチを取り出す。服と一緒に自分で選んだので、淡い水色のシンプルなのだ。
差し出されて、忍は慌てたように首を横に振る。
「いいよ、濡れちゃうし」
「風邪、ひいちゃう」
「いや、ホント、俺、丈夫だから」
女の子のハンカチを自分の為にぐしょぐしょにするのが申し訳ないらしく、忍は、もう一度首を横に振る。そのはずみで、髪から水滴が散る。
亮は少し首を傾げる。
「お礼ってことじゃ、ダメ?あげるなら、濡れても大丈夫でしょう?」
そこまで言われたら、忍も断れない。素直に頷くと、水色のハンカチを手にする。
顔と髪の毛を軽く拭いて、案の定ぐっしょぐしょになったのを、畳み直して、丁寧に自分の背負っている道着入れへとしまう。
「ありがとう」
ふる、と軽く、亮は首を横に振る。
「私こそ」
そんなやり取りをしている間に雨は止んで、薄暗いくらいだった空から、陽が射してくる。本当に、瞬間的な通り雨だったらしい。
どちちからともなく、空を見上げる。
「雨降ってくれて、良かったかも」
「え?」
忍へと視線を戻す。亮へと視線を戻した忍の頬は、ココロなしか赤くなっているようだ。
「なんでもない」
いくらか早口で、首を横に振ってから。
「その服、すごい似合ってるね、それから、ハンカチありがとう」
言ってる間にも、忍の顔はますます赤くなってくる。
「じゃ!」
顔が赤くなってるのは、自分でもわかっていたのだろう。一方的に別れを告げて、忍は走り出す。
「…………」
雨宿りの人々が散って行く中へ、忍の後ろ姿は消えて行く。
完全に見えなくなるまで、見送ってから。
亮は、自分の服を見下ろす。
聞き返したふりをした言葉も、きちんと耳に入っている。
あの瞬間は意味を取りかねたが、その後の反応を見れば、理解するのは難しくはない。
そっと、スカートの端を摘まんでみる。
雨が降って良かったかどうかは、わからない。
でも、少なくとも。
す、と大きな車が、目前に止まる。
健太郎の車だ。
乗り込むと、すぐに走り出しながら健太郎が首を傾げる。
「大丈夫だったか?」
質問の意味は、わかっている。妙なのが来なかったか、の意だ。
「はい」
正確には、来たのをのしたわけだけど。
「濡れませんでしたか?」
今度は、亮の方から尋ねる。
「ああ、車乗り込んだ瞬間くらいから、ものすごくなった」
にやり、と笑う。
してやったり、というところなのだろう。亮も、笑みを大きくする。
「さてと、次の罰ゲームはだね」
健太郎は、笑みを浮かべたままで言う。
「お茶の間は、仕事の話をしない」
亮は、軽く首を傾げる。健太郎とて、かなりの仕事人間だ。
「出来ますか?」
「さぁなぁ、どちらかっていうと、ゲームかな?」
健太郎は、苦笑気味に笑う。
「まずは、花の名前をいくつ覚えたかの競争だな」
亮の顔に、自然と笑みが浮かぶ。
「そうですね、そういうのも、悪くないかもしれません」
ほんの、たまには。
不思議に胸が温かいのを感じつつ、亮は笑顔のまま、頷いてみせる。


〜fin.

2003.09.14 A Midsummer Night's Labyrinth 〜A ephemeral fluffy girl〜


■ postscript

『着せ替え人形な亮と、それをみて喜ぶ健さん』という投票結果より。
それだけでは済まず、延々と一日あの姿です。イイことはあったようですが、やはりこれでフリル嫌いになったと思われます。


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