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 始笑  モハジメテサク

風が、部屋に飛び込んだ。
いや、飛び込んだのは風を切るほどに幅広い袖に、大きな帽子を被ったニールだ。
高い天井に届くのではと錯覚するほどの位置で、大きく数回回転してから少年たちの目前へと降り立って、にっこりと笑う。
「もちろん、知ってるさ。ユーイン、ジミー、ハロルド、ルパード」
正確に少年たちを指してみせてから、得意そうに胸を張る。
「ちゃーんと、エリクから聞いたからね」
エリクというのは、四人を事故に巻き込むことになった馬の名だ。その名を耳にして、四人ともが身を乗り出す。
「エリク、ちゃんと元気?!」
「どっか、連れてかれちゃったりしてない?」
「お仕事、させてもらえてる?」
ほぼ同時に尋ねられても、ニールはにっこりと笑ったままだ。
「もちろん元気さ、いつもの場所でいつもと同じ様に仕事をしているよ」
その言葉に、ハロルドが首を傾げる。
「お兄ちゃんは、いつものエリクを知らないじゃない。どうしてわかるの?」
問いに、他の三人も我に返ったように目を見開く。
が、相変わらずニールの笑顔は消えない。
「だから、言っただろう?エリクに聞いたんだよ」
「エリクは、馬なんだよ?」
今度は、ジミー。
「そうだよ、それがどうかしたのかい?ああ、そうか、君たちはエリクと話せないんだな?」
ふふん、と鼻を鳴らして、ニールはさらに胸を張る。
「この偉大なニール様は、常日頃から馬と共にあるからね、エリクと話すくらいはどうってことないわけさ」
「馬、いないじゃん」
ぼそり、とルパード。
いないいない、と四人が声を揃えるのに、ニールは咳払いする。
それから、哀しげに目を伏せる。
「おお、それには実に残念が事情があるんだよ、ポーもネルも馬だからという理由だけで、それだけでだよ?!」
大きく身を乗り出し、四人に覆い被さらんばかりになって熱弁をふるう。
「このフィンハート城への入場が許されないと!あの素晴らしい二頭に、なんて仕打ちを!」
大げさな動きに、ユーインが抑えきれずに笑いを漏らす。
少なくとも、馬のことが大好きだというのは伝わったらしい。
「エリク、元気なんだね」
「良かった」
そんな四人に、ニールは軽く唇を尖らせる。
「そんなに心配なのに、なんでエリクのところに帰らなかったのさ?ものすごく心配してるよ」
すぐに言葉を返したのは、ルパードだ。
「だって」
「僕たちが戻ったら、エリクを」
ユーインが、言葉を詰まらせる。
ジミーが、泣きそうな顔でニールを見上げる。
「エリクを、どっかにやっちゃうって言うんだ」
「エリクが悪いんじゃないのに!」
ハロルドも、声を張り上げる。
「ねぇ、パパとママは怒ってる?」
「僕たち、こんなとこに残っちゃって、怒ってる?」
ずっと我慢してきたことが堰を切ったように溢れ出してくる。ニールは、笑みを浮かべたまま、子供たちが口々に言うのに耳を傾けてから告げる。
「怒ってなんかいないよ、でも、寂しいって思ってるよ」
じわり、と目に涙を浮かべたのはジミー。
「……でも、ここから出られないの」
つられるように、ルパードとユーインも泣きそうな顔になる。ハロルドは、真剣な顔つきでニールを見上げる。
「お兄ちゃんたちは、僕らを連れて出られる?」
「さぁて?」
にっと笑みを浮かべながら、ニールは大げさな仕草で首を傾げてみせる。
「この偉大なニール様の手にかかれば、大概のことは出来るけれど、これはなかなかの難題。まずは確かめてみよう」
言ったなり、ニールの姿は少年たちの前から消える。
「え?!」
ルパードが戸惑って左右を見回す。見上げたのはユーインだ。
「あ!」
指した方向に、ニールはいた。
どうやって跳躍したのか、高い方の窓を覗き込んでいる。
「ふむふむ」
一人、納得したように頷いてから、下にいるユーインたちへと笑いかける。
「次も見てみよう」
言ったなり、一本の細いロープが斜め向かいの窓枠へと伸びる。
目を丸くしている子供たちの目前で、ニールはロープへと飛び乗る。
ロープの上で、飛んだり跳ねたり回転したり。その度に得意そうにポーズを取ってみせる。
わっと拍手をしたのは、八人の子供たちだ。どこから現れたのか、目をいっぱいに見開いてニールの綱渡りに見入っている。
「すごい!」
「もう一度、ぐるんってやって!」
「やってやって!」
子供たちの声に、ニールは片目を瞑ってみせる。
「そこまで言われちゃ仕方ない、ほうら」
見事な二回転を決めてロープへと降り立つと、もっと大きな拍手が起こる。派手に胸を張ったところで、ずるり、と足が滑る。
「あぶない!」
「きゃあ!」
思わず悲鳴を上げる子供たちの前で、ニールはもう一本のロープを器用に絡ませる。
勢い良く別の窓へと辿りつき、両手を広げてにっこりと笑う。
わぁっと歓声を上げたのは、もっと多くの子供たち。
ニールは笑顔のまま、もう一本ロープを天井へと絡ませ、どこからともなく一本の棒を取り出してロープとロープに結び付ける。
「空中ブランコだ!」
誰かが声を上げると、にっこりと笑みが向く。
「当たり!さすがだねぇ」
言葉と同時に、片足でぶら下がっていたかと思えば、勢いつけて鉄棒のように回転。
返す時には上に乗って、両手を離す。
技が出る度に、子供たちは数人ずつ増えていく。
いつの間にか、部屋は小さなお客様でいっぱいになっている。
扉の影から覗くように見つめていたポリアンサスが、そっと言う。
「お客様は出揃ったみたいね」
「見事だね、こうして見るのは初めてだ」
サイラスの言葉に、にっこりと肩のポリアンサスは笑う。
「でしょ?こっちのペースに巻き込むことにかけたら、ニールの右に出る者はいないのよ」
「なるほど」
サイラスも笑い返す。ポリアンサスが、後ろへと振り返る。
「アイリーン、準備は出来た?」
にこり、とアイリーンは笑みを浮かべる。
「私は大丈夫よ」
「じゃ、ニールに合図送らなきゃ」
と、中を覗きこんで、軽く手を振る。
ニールは誰にもわからぬほどに軽く頷いて、また大きくロープの上で飛び上がる。
アイリーンも、うなずき返して部屋の中へと滑り込む。
ポリアンサスは、手にいっぱいの小さな種のようなものを握り締めながら、サイラスを見上げる。
「リフがいないから、大変よ」
「え?」
いくらか戸惑った顔つきになるサイラスの手に、ポリアンサスは肩をすくめる。
「あぁ、ニールの影にいたから知らないのねぇ。ウチのからくりはぜぇんぶリフが作ってリフが動かしてるの」
いま、リフはフィンハート城で動いているからくりを止めるべく、ベックと別行動中だ。
「ベックからの連絡無いしぃ、からくり集中攻撃でも受けてるかもねぇ」
のんきな口調に、サイラスは口元に笑みを浮かべる。
「連絡って?」
「相方になったらねぇ、それぞれ鈴を持つのよ。片方を鳴らすと、もう片方も鳴るの。もちろん、特別の鈴だから緊急用よ」
ようは、鈴が鳴らない限りは急を要する状況ではない、ということ。
「なーんて言ってる場合じゃないわ、始まるわよ」
と、ポリアンサスは手にいっぱいに握り締めていた種をサイラスへと押し付ける。
「照明はまかせるわ、アイリーンの手品は見慣れてるでしょお?色の通りの明かりがつくから」
「え?!あ、うん?」
いくらか戸惑いつつも、サイラスは素直に受け取って手のひらを見つめる。
「投げれば光るようになってるの、からくりはあたしがどうにかするわ、リフの、いつも見てるし」
サイラスが笑い返す。
「からくり仕掛けも万端、というところかな」
「ニールだもの、自分の演技に引きつけといてからくり仕掛けるくらい、簡単よぉ。城であってもね」
ウィンクしてみせて、ポリアンサスの視線は扉の向こうへと移る。
「さぁ、最初が肝心よ?」
「了解」
ロープから器用に飛び降りたニールが、両手を広げる。
「さぁ、魔法の手を持つ奇術の姫の登場です!」
いくつかの種が、サイラスの手から放たれる。
ふわり、と柔らかな光が浮かび、その中でシルクハットを目深に被ったアイリーンが微笑む。
窓枠に腰掛けた彼女の片手には、ステッキだ。
くるくると回され、ぴたり、と止まったステッキの先に、ひときわ大きな明かりが灯る。
「さぁ、私のトランプを隠しちゃったのは誰かしら?」
通る声に、誰もが目を丸くし、それから首を横に振る。
「隠して無いよ!」
「お姉ちゃんのトランプって、どんなの?!」
アイリーンの口元の笑みが、大きくなる。
「とてもステキな、特別なトランプよ。皆が教えてくれないなら、私が探しに行かなきゃね」
軽くステッキを振ると、先に止まっていた大きな明かりがふわふわと漂って、一人の子の側に舞う。
皆が明かりに気を取られている間に、アイリーンはその子の前に立っている。
「ほーら、見つけたわ」
背中から、するり、と大きなカードを取り出してみせる。
「え?!」
「うわ?!」
近くの子供たちも、宙からカードが現れたのに驚きを隠せない。
「あら、ここには一枚しかないのね」
くるり、と向きを返ると、斜め前の子の袖から、また一枚。
これが手品なのだと気付いた子供たちの歓声が上がる。
「ここは、ここは?!」
「こっちも!」
あちらこちらからカードが見つかるたびに、驚きの声と笑い声とが起こる。
「不思議、あと一枚、見つからないわ」
「本当?数え間違えてなぁい?」
もうすっかりアイリーンが側にいることに慣れた子供が、疑わしそうに目を細める。
「あら、それはあるかもしれないわね」
頷いて、アイリーンは一枚ずつ宙へほうっていく。
ほうられたカードは、花に代わって子供たちの手元へと落ちていく。
「あら、やっぱり足りないわ」
と、最後の一枚を皆に見せる。
「ホント?」
問われて、アイリーンはくるり、とカードを裏に向ける。
「ほら、ね?」
スペードのエースの裏は、裏の模様が描かれている。
「確かめてみてくれる?」
と、目前で見上げていたハロルドへと手渡す。ハロルドは、真剣な顔つきでカードを検分していたが、やがて首を横に振る。
「一枚だぁ」
「ねぇ、やっぱりそうよね」
皆の方にエースを向け、裏を向け、もう一度エースを向け、裏を向け、表を向け、裏を向けて。
「あれ?!」
誰かの声に、アイリーンはエースを皆に向けたまま止まる。
「どうしたの?」
「裏側!」
数人の子供が、カードを指差す。アイリーンは、首を傾げて子供たちの方を向いているカードの表面を覗き込む。
「裏側?」
言いながら、くるり、と回転させると。
そこには、ジョーカーが。
「あった!」
「ここだったんだ!」
わっと歓声を上げる子供たちに、にっこりとアイリーンは微笑みかける。
「これで、全部揃ったわね」
ジョーカーをくるりと裏返してスペードのエースと同じ向きして、もう一度スペードのエースを子供たちに向ける。
そして、扇状に広げていく。
花に変わったはずのカードが、キレイに揃って並んでいる。
割れんばかりの拍手が収まったところで、アイリーンはカードを投げ上げる。
明かりが先に止まったステッキを振る。
舞い上がったカードは、蝶へと姿を変える。
色とりどりの蝶が色とりどりの明かリの下で舞う。
「すごい」
「きれーい」
感嘆の声を漏らしつつ、ゆったりと上へ昇っていく蝶を追う。
やがて、月明かりを通している窓へと辿りつく。
閉まっていて出られないと気付いたユーインが、泣きそうな顔つきでアイリーンを見上げる。
にこり、とアイリーンは微笑み返すと、また、ステッキを振る。
先についていた明かりが、ふわり、と漂い、宙で止まる。
もう一度、ステッキが振られる。
ふ、と大きく揺れた明かりが、音もなく弾けた、次の瞬間。
部屋にある全ての窓が明け放たれる。
蝶は、ひらり、ひらり、と外へと、月明かりの下へと、舞い出ていく。
泣き出しそうだったユーインの顔は、驚ききっている。隣に立っているルパードもだ。
「大丈夫、出られるわ」
アイリーンの言葉に、見開かれていた目は笑んで細くなる。
そっと手を伸ばして、きゅっとアイリーンの手を握る。
「お姉ちゃんの手は、本当に魔法の手なんだね、ありがとう」
ユーインの姿は、ふっと薄れて消える。
ルパードも、にっこりと笑って見上げる。
「パパとママとエリクに、風になって会いに行くからって伝えて」
頷くと、ルパードの姿も消える。
二人だけではない、ジミーもハロルドも、他の子供たちも、蝶が舞い出るのについて行くかのように、消えていく。
さざめくようなありがとうを後に残して。
残ったのは、微かな明かりと、アイリーンと、扉から覗き込んでいるニールとポリアンサスとサイラスと。
それから、ふわふわの金の髪に氷のような青の瞳、陶磁器のような白い肌の少女。
リリーだ。
凄惨な表情で、アイリーンを睨みつける。
アイリーンはにっこりと笑い返す。
「こんばんは、また会ったわね」
リリーの口角だけが持ち上がり、ぞっとするような笑みが浮かぶ。
「のん気なものね」
皮肉にも、アイリーンはちっとも動じない。
「そうね、これだけが取り得かもしれないわ」
バカにされてると思ったのか、皮肉な笑みは憤怒へと取って代わる。
「全部思い通りに行くとでも、思ってるのかしら?」
「奇遇ね、私もそのままを訊いてみたいと思っていたのよ」
微笑んだまま、アイリーンは窓枠に腰掛ける。
「自分の寂しさを紛らわせる為に、何人もを手にかけ続けられると、本当に思っているのかしら?」
リリーは、その氷のような瞳を持つ眦をつり上げるが、アイリーンの表情は変わらない。
「無理矢理に寂しい子供にした挙句に、閉じ込め続けられると思っているのかしら?」
怒りのあまり声が出ないのか、言葉を探しているのか、リリーは唇を強く噛みしめる。
アイリーンは、さらりと続ける。
「あなたが作り出そうとしているのは、寂しい子供の理想郷などではないわ」
「黙れ!」
リリーが叫ぶ。
「全ての子供たちを恐怖に陥れる、血にまみれた城よ」
「黙れ!」
ざわり、と空気がさざめく。
「何がわかるのよ!好きなように動けて、好きなことが出来るくせに!」
「神に祝福されたと言われる手を持っていようとも、出来ないことはあるわ」
アイリーンの声は、静かなままだ。
視線だけがまっすぐに、怒りをたたえた氷の瞳を見つめ続ける。
「どんなに望んでも、叶えられないことだって、あるわ」
「黙れ!」
張り裂けるような声で叫んだかと思うと、リリーはアイリーンへと飛びかかる。
首筋へと、どこから取り出したのかナイフをつきつけようとした瞬間。
その手は、さかしまにひねり上げられる。
「アイリーンに手出しをするのは、許さない」
静かだが、きっぱりとした声はサイラスだ。
すさまじい目つきで睨むリリーに負けぬ視線が見つめ返す。
「あの時のようにはいかないよ、僕も自由に動けるからね」
ふん、と鼻で笑ったリリーの姿は、サイラスの手から消える。
立ったのは、図書室へと繋がる扉の前。
「兄妹揃ってオメデタイわね、ここは私の城よ?何もかも私の思い通……」
言いかかった言葉は、途中で立ち消える。
背後の扉が、開いたのだ。
静かな声が響く。
「姫よ、眩いばかりに美しい姫君よ、なにゆえ、貴女は孤独を守ろうとするのです?どうかこの私と、永遠の誓いをしては下さいませんか?私は貴女を片時たりと一人にしたりはいたしません。常に貴女の側にあり、その花のような笑みを守り続けると誓いますとも」
眼を見開いて、リリーが振り返る。
立っているのは、本を片手に腕を組んでいるリフだ。
いつも通りの色付き眼鏡の奥から、穏やかに微笑んだ視線が見つめている。
背後から見ているアイリーンたちにも、リリーの顔が輝いたのがわかる。
一歩、近付く。
「お兄ちゃ……」
す、と険しくなった顔に、リリーの足は凍りついたように止まる。
弾かれるような音が、部屋に響く。
「……とでも言えば、満足だったのか?」
真っ白な頬に、赤が刺す。
リリーが、自分の頬が叩かれたと気付くまでに、一瞬の間があった。
「お……」
「母さんはお前が逃げる為に本を書いたんじゃない。俺は、お前を人殺しにする為にこの城を造ったんじゃない」
静かだが、きっぱりとした声。
「本は返してもらった、城も返してもらおう、お前には過分過ぎる」
「くれるって言った、お兄ちゃん、これ私のだって!」
地団太を踏みながら食って掛かるリリーを、リフは冷ややかに見つめる。
「約束したろう、大事にしたなら、と」
じわり、と氷の瞳に涙が浮かぶ。が、リフや容赦なく続ける。
「血塗るっていうのは、最も粗末にしてるということだ」
「嫌よ、私のよ!絶対に返さないもん!」
涙でぐしゃぐしゃの顔になりながら、一歩ずつ引いていく。
「さぁて、どのからくりを動かすつもりなのかな?ま、もーっとも、全部僕らが止めちゃったけどねぇ」
いつの間にかリフの肩に乗っていたベックが言う。
ぎく、と目を見開いたリリーに、笑顔を向ける。
「へーえ、僕はやっぱり見えてるんだねぇ、寂しい子供と変わんないや、ねぇ、ポリー」
呼ばれたポリーも、ニールと一緒に部屋へと入る。
ベックの視線につられるように、アイリーンたちのいる方へと振り返ったリリーは、ぐしゃぐしゃの顔をさらに真っ赤にして怒鳴る。
「他に小さい人いないじゃない!」
ポリアンサスの口元が皮肉に持ち上がる。
「ホントねぇ、私のことは見えてないみたいだし?」
「ようするにさ、お母さんの本とリフが作った城にべったり頼って、なにもかも自分の思い通りにしようとしてただけなんだよ。無くなったら、なーんにも出来ない」
やれやれ、というようにベックが首を振る。
「寂しいわよねぇ、みーんな天に行っちゃったのに、だぁれも誘ってくれないっていうのは」
肩をすくめるポリアンサスに、アイリーンが苦笑を向ける。
「姿が見えない時には、声も聞こえないわよ」
「そぉね、言っても無駄ね」
もう一度、ポリアンサスは肩をすくめる。
ふ、とアイリーンが軽く目を見開く。
「……わかったわ。本は関係無いのね」
声になるかならないかの小さな呟きは、ごく側にいるサイラスとポリアンサスにしか聞こえない。
「アイリーン、わかったのね?」
ポリアンサスの問いにアイリーンは頷く。
「寂しいだけじゃなかったの、怖かったのよ」
「怖かった?」
ポリアンサスが、いくらか驚いたように問い返す。
「そう、お父様にも、リフにも自分の知らない世界が出来てしまうのが寂しくて怖かったのよ。動けない自分には、家族しかいないんだもの」
アイリーンはサイラスを見る。サイラスは、静かに頷く。
「確かに、動けない者にとって、わかっていてもとてつもない寂しさと恐怖があるよ。リリーの場合は、自分が一人になってしまうかもしれないというのだったんだね」
サイラスの場合は、自分が縛り付けてしまうかもしれない、というものだったろう。
微かに浮かんだ寂しげな笑みを、柔らかに変えてアイリーンはリリーの前に立つ。膝を折り、視線の高さを出来るだけ近くする。
「お友達が欲しい時にはね、無理矢理に手を握ってもダメなのよ。先ずは目をみて、挨拶をするの。にっこりとしていた方がいいわね」
急に何を言い出したのかわからなかったのか、リリーはぐしゃぐしゃになった顔を上げて瞬きをする。
「リリーはキレイでかわいいもの、お友達になってって言えば、皆なってくれるわ。時にはひねくれた人もいるでしょうけど」
ひくり、とリリーの肩が震える。
「お友達が欲しかったのよね。お父さんやリフは、旅で一杯の人に出会って帰って来るんですもの。きっと手紙もたくさんあったわね。知らない人のこと、楽しそうに話されるのが辛かったのね」
じわり、と新しい涙が瞳に浮かぶ。
「付いて行くのは、ダメになってしまったから、だから側から離したくなかったのね」
ふえ、という声が漏れる。
次の瞬間。
リリーは大声を上げて泣きながら、アイリーンにしがみついていた。
しっかりと抱きついて、大声で泣き続けるのを、アイリーンは静かに撫で続ける。
ニールとサイラスが視線を見交わして笑みを浮かべる。
「……そうか、そういうことだったのか」
いくらか、気の抜けた声を上げたのはリフだ。
くしゃり、とくせのついた前髪をかき上げる。
「寂しいというのはわかっていたけれど、そういうことだったのか……」
サイラスの肩へと飛び移っていたポリアンサスが、肩をすくめる。
「強情っ張りなところは良く似てるんじゃなぁい?」
「そうそ、本音は絶対口にしないってとことかね」
ニールは、に、と口元の笑みを大きくする。
いくらか怪訝そうになったリフに、サイラスが穏やかに告げる。
「どんなことをしていようと、自分の手でどうにかしてあげたかったこととか」
その言葉に、リリーが弾かれるように顔を上げる。
「僕らの仲間が『笛』を吹きに行ってるのさ。吹かれたら、リリーは誰の意志も関係無しに『無かったこと』にされちゃうんだよ」
ベックが言うと、ポリアンサスも続ける。
「もう、あたしの声くらいは聞こえてるわね?リフはその前に、ちゃんと納得して天へ向かって欲しいって思ったのよ」
眼を見開いている視線で、聞こえているだけではないとわかる。ポリアンサスはにっこりと微笑む。
「間に合ったみたいねぇ」
サイラスが、アイリーンの隣へと立つ。
「リリー、僕は君が欲しいと思っている友達になるには少々年が離れているかもしれないけれど、天へ行くまでの道連れくらいにはなれるかな」
言いながら、そっと手を差し出す。
リリーは、目を大きく見開く。
「一緒に……行ってくれるの?」
「僕も、行かなきゃならないしね。せっかくなら、一人より二人の方が楽しいと思うんだけど、どうかな?」
キレイなのが台無しのくしゃくしゃの顔に、また涙が浮かぶ。
「本当?だって、だって、私」
「うん、そうだね。生きられるだけ生きると言った僕を、ナイフで刺したのは君だったね。でも、僕の中に弱い部分が無かったかといったら、嘘になるから。僕のことはいいよ。でも、他の人のことは、天に行ったら、ちゃんと償わないといけないよ」
何度も何度も、リリーは頷く。
「さぁ、涙を拭いて」
アイリーンがハンカチを差し出しかかったのを、リリーは首を横に振って止める。
「もう、ステキなハンカチもらったから」
城門越しに投げた、レースのハンカチを取り出して握り締める。
「嘘をついて、ごめんなさい」
にこり、とアイリーンは笑う。
「ちゃんと言ってくれて、嬉しいわ」
「リリー、ちゃんと今回で天に行けた子はいいが」
こくり、と頷いて、まっすぐにリフの顔を見上げる。
「ここに、書いてあるの。お城に来た子には、印がついているから。あとは、ほんとに少ないはずなんだけど」
小さなノートを、差し出す。
「あの、お兄ちゃん」
「リリーがやったことの始末をつけるのは、俺にとっては当然のことだ。俺よりも」
リフの視線で、背後のニールたちに気付いて、慌てて頭を下げる。
「たくさんたくさん迷惑かけてごめんなさい。あの、お兄ちゃん一人だと大変なので、その」
「もちろん、団長が行くって決めたところにはどこでも行くし、どこでも技をご披露させてもらうよ」
さらりと言ってのけてから、ニールは、にやり、と口の端を持ち上げる。
「今までいろんなサーカスを回ってきたけれど、ラオシア・マジック・サーカスが一番居心地いいしね」
「リフが終わったって思わないなら、僕らも終わって無いしなぁ」
と、ベックが言えば、ポリアンサスはにっこりと妖艶な笑みを浮かべる。
「よく言うわぁ、『森』へ帰りたくなくなるくらい、好きなんでしょお」
「それ、そのまま返すから」
珍しくベックの逆襲にあって、ポリアンサスは言葉に詰まる。
「覚えておきなさいよぉ」
リリーと目が合って、アイリーンの笑みが大きくなる。
「この世界の誰かが、私のマジックを楽しんでくれる限りは、続けるわ。もちろん、何度見ても驚いてくれるように、頑張るわよ」
膝を折り、もう一度、リリーと視線の高さを合わせる。
「リリーも楽しんでくれていたんだといいけれど。一緒に、見てくれていたでしょう?」
こくり、とリリーは頷き返す。
「お兄ちゃんと一緒に来たサーカスよりも、ずっとずっと凄かったわ。絵本が飛び出しちゃったのかと思ったくらいよ」
それから、くるり、とニールの方も振り返る。
「綱渡りも空中ブランコもそうよ、あんなにわくわくするの、見たこと無かったわ」
「それは光栄」
大げさな仕草で頭を下げてみせてから、ニールは、また、にっと笑みを浮かべる。
サイラスが、開け放たれた窓を見上げる。
「朝がくるね」
鮮やかな光が、窓という窓から差し込んでくる。
それ以上言わなくても、誰もがわかっている。
時が来たのだ。
アイリーンが、立ち上がってサイラスを見つめる。
サイラスは、微笑んで肩に手を置く。
「アイリーン、最後にマジックの演出が出来て、本当に楽しかったよ」
ただ頷くアイリーンの髪を、サイラスはそっと撫でる。
こらえていたものが、ほろり、とこぼれ出す。
「……っ」
そっと、抱きしめる。
「お兄ちゃん」
「ずっとずっと、辛い思いさせてごめん。約束するよ、ずっと見ているよ」
何度も何度も頷いて、それから、涙の残った瞳で微笑む。
「マジックを続けるわ。神に祝福された手だって言い続けてもらえるように」
「ありがとう、アイリーン」
サイラスも、微笑み返す。もう一度、そっと髪を撫でてから、離れる。
「リリー、行こうか」
いくらか緊張した顔つきで頷き、リリーは差し出されたサイラスの手を握り返す。
先ずは、リフを見上げる。
「お兄ちゃん、お城とご本、持っていってもいい?」
「このまま、ここに城建てとくわけにもいかないよねぇ」
ニールに機先を制されて、リフは苦笑する。
「ああ、今度は大事にしろ」
「うん、ありがとう」
微笑んだ顔は、人形のようにかわいらしい。その笑顔のまま、今度はアイリーンに向き直る。
「あの、お願いがあるの」
「お願い?」
首を傾げたアイリーンに、リリーは大きく頷く。
「ハンカチ、このままもらってもいい?」
「もちろんよ、気に入ってもらえて嬉しいわ」
頬が、明るく染まる。
「ありがとう、あの、それからね、お花を、出してくれないかしら?たくさんたくさん、もう、それはいっぱいいっぱいで、お姉ちゃんが今までに出したこと無いくらいの」
いくらか驚いた顔つきになったアイリーンは、サイラスと目が合うと、合点がいったように微笑む。
「わかったわ、今までにないくらいいっぱいのお花ね」
一歩引くと、シルクハットを被り直し、ステッキを握る。
ニールが、高らかに宣言する。
「さぁ、魔法の手を持つ奇術の姫の再登場です!」
言葉に合わせて、シルクハットとステッキの先から、こぼれるような花が溢れ出す。
床がいっぱいに埋まり、空中が花の色に染まり。
いっぱいの笑顔を浮かべて、リリーが空いている手でスカートを持ち上げる。
「ありがとう」
サイラスも、柔らかに微笑む。
さらり、と風が吹いて。
二人の姿はかき消すように消えてしまう。
次の瞬間。
あたりは、眩むような光に包まれる。



「なぁるほどねぇ、こういうことぉ」
アイリーンの肩からあたりを見回して、ポリアンサスが納得の声を上げる。
見渡す限り、いっぱいに花が咲き誇っている。
柔らかな色合いは、アイリーンが溢れさせた花の色にそっくりだ。
風にそよいで、優しい香りが広がっていく。
真っ青な空と、ほんの少しの白い雲と、柔らかな花々と。
おどろおどろしい古城があった面影など、どこにもない。
「最後の魔法ってところかな。さーすが、力の使いどころをわかってるね」
ニールが気持ち良さそうに伸びをする。
ベックが、鼻の下を軽くこする。
「なんか、ちゃんと天に行けたよって言ってくれてるみたいで、嬉しいな」
「ええ、そうね。いつも見守ってくれているわ」
あたりの花に負けぬくらいに、柔らかく、そして明るく微笑んでアイリーンが空を見上げる。
リフは、ただ微笑む。
「ここで昼寝したら、気持ちよさそうだなぁ」
大欠伸しながら、ニールが言った途端。
足音と、息切れするような必死の息遣いが聞こえてくる。
「こ、これは一体……」
リフたちの姿を見て、足音の主はやっと走るのをやめて、周囲を呆然と見回す。
「あ、ラルフ、走れるくらい元気になったのねぇ、良かったわ」
のん気にポリアンサスに微笑みかけられて、道化師のラルフ・チャンバースは驚ききった顔つきで五人を見つめる。
「いや、フェーンとミルラが『笛』の音が出ないというので、これは大変だと思って」
「風に乗ったんじゃ間に合わないって思って、突風に乗っていったのに」
ラルフの肩から、ベックよりも髪の色の濃い小さい少年が現れる。
反対側からは、ショートカットの小さい少女もだ。
「もしかして、とても寂しい子供は『笛』も止めちゃうんだって思って」
「突風に乗ったの?!すごいや!」
当初の目的を忘れている発言は、ベックだ。
くすり、とポリアンサスが笑う。
「お疲れサマだったわねぇ、でも、とても寂しい子供が『笛』を止めちゃったわけじゃないの」
「どういうこと?」
アイリーンが首を傾げたのに、くすり、とポリアンサスは笑う。
「『笛』はちゃーんとわかっていたのよ、あたしたちがなんとか出来ちゃうってね」
「なんとか、出来たんですか?」
ラルフの問いに、リフが頷く。
「はい、納得して行きました」
視線が上がるのに、つられるようにラルフたちも空を見上げる。
それから、周囲の花々を見回す。フェーンが、納得して頷く。
「確かに、ちゃんと納得して行ったって空気だ」
「五人でどうにかしちゃったのね、凄いわ」
ミルラは、目を大きく見開いたままだ。
ラルフが、軽く首を横に振る。
「ホント凄い、あの子を納得させたなんて」
「アヴァーカーンの人たちにも報告しないと」
フェーンの言葉に、ラルフも頷く。
「安心してもらわないと」
「ま、ご同胞も無事でなによりだよね」
ニールの言葉に、皆の視線は一点へと向く。ラルフ以上に目を丸くして辺りを見回している語り人と笛吹きと人形師たちに、ポリアンサスが手を振る。
「お目覚め?いいお天気でなによりねぇ」
周囲の空気を感じて、とても寂しい子供が天に帰ったのだ、と小さい人たちが告げたのだろう、それぞれ、祝いとお礼の言葉と共に、リフの手を握る。
ニールが高らかに口笛を吹くと、どこからともなく馬車を引いた馬が現れる。
それぞれが、山を下る準備が出来たのを見届けて、リフが手綱をさばく。
「さぁ、新しい街へ、しゅっぱぁつ!」
ポリアンサスの景気のいい声に、ラルフたちの目が丸くなる。
「え?!ちょっと?!」
届かない手を、思わず伸ばしたラルフへと幌の後ろから顔を出したアイリーンとニールが、大きく手を振る。
「子供たちは皆、無事天へ向かったと伝えて下さい!風になって会いに行くからと」
「馬のエリクにもね!」
ベックとポリアンサスも、負けじと手を振る。
「またいつか、縁があったらどこかで!」
「躰ぁ、いきなり無理しちゃダメよぉ!」
ラルフを始め、語り人、笛吹き、人形師たちが顔を見合わせる。
それから、一斉に大きく手を振る。
「貴方方の旅路に、幸が溢れていますように!」
アイリーンが、ひときわ大きく手を振り返す。
「貴方方の旅路にも!」
そして、馬車は光の向こうへと姿を消す。



〜fin.


Vespertin Masic 〜tao shi xiao〜

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