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降ル

 秘策


「我が君」
その声にいつにない緊張が含まれていることに気付いたのは、振り返った劉備一人だ。
孔明と視線が合うと同時に、その眉に微かな疑念を乗せる。
つ、と動いた視線に合わせて、身を動かす。
ごく傍まで来た時には、体の大きな将たちと幕との合間に隠れた位置を取っている。
孔明は、更に扇を将らとの間に立てる。
「対岸より、疫病が。知らず触れた民と兵がおります」
「隔離は?」
必要最低限で問い返す。
「完了です。が、一歩遅れました」
もう、こちら側の感染も始まってしまった、ということは。
「薬は足りるか」
何かと敗走の多い劉備軍は、常に多めの薬を用意している。惜しみなく放出する気だが、自軍だけではないから量が読めない。
「追加がいります。根本を抑えるには、何種か試す必要も」
頷き返してから、ほんの微かに首を傾げる。
その情報だけなら、すぐにも皆に告げるべきだ。なのにそうしないということは、何らかの続きがあるはずだ。
「我が君」
孔明は、まっすぐに劉備の目を見つめる。
孫権軍と同盟して一緒にいるようになってからこの方、見せたことの無い強い瞳だ。
「孔明?」
「頃合を見て、夏口に引いて下さい」
思わず、目を見開く。声は、かろうじて抑える。
「同盟を、放棄しろと?」
「曹操の狙いだからです」
疫病の拡大を防ぐなら、火を用いるに限る。それをせずに小舟で流してきたのは、対岸にも広げる気だからだ。
勝つ為の冷徹さに群を抜く曹操なら、その程度はやってのける。だが、その真の狙いが結束を揺るがす為とは。
「今の曹操は対岸ばかりに気を取られて、背後は留守です。まして、疫病に恐れをなして同盟を破棄した我が軍が動くとは、思いもよらないでしょう」
いざ決戦となった時に、前方しか気にしていない敵の背後をつくことが出来たなら。
たとえ小数による奇襲だとて、大きく戦況を変えるだろう。
孔明が、なぜ声をひそめているのか読めてきた。
事の成否は、どこまで秘せるかにかかっている。
これは、関羽たちにすら知られてはならない。彼らは絶対に劉備に従うが、いかんせん顔に出やす過ぎる。特に、張飛には長期に黙することなど、絶対に無理だ。
「決戦は、いつになる?」
「陸湖風が吹く、冬至の頃に」
なぜ、風が変わる時期が今からわかるか、とは問わない。孔明が空を読むことにかけて抜きん出ているのは、わかりきったことだ。
いつが期限かわかっていれば、信義にもとると不機嫌になる関羽たちが我慢出来る期間と合わせて、退去の時期が読める。
「わかった。孔明は」
「合図は、必要でしょう」
それは、一人残ることを意味する。
真実は裏切りではないことの、証明は必要だ。が、一人矢表に立つことにもなる。
微かに眉根を寄せた劉備に、孔明は邪気の無い笑みを見せる。
「私は、大丈夫です」
それしかない、と孔明が判断したのなら、そうなのだ、と心で割り切った劉備は、憂いをといて真っ直ぐに見つめ直す。
「孔明、合図はそなたの帰還だ」
「我が君」
いくらか、孔明が目を見開く。
「風が変わるのと同時に帰還するならば、その大役、してのけよう」
それは、何があっても生きろ、という意味。
劉備が裏切った、と後ろ指をさすだけでなく、実際に怒りをぶつけてくる者もいるだろう。その場を収める為と愚かな真似をしないように。
柔らかな笑みに、あてられたように孔明は目を細める。だが、その頬にはどこか面映いような笑みも浮かぶ。
「承りました。必ずや、我が君」
そっと、その細い鎧を纏わぬ肩に手を乗せる。
温もりが、確かに伝わる。
どちらからともなく、頷き合う。
上がった視線は、共に真っ直ぐだ。
息を合わせたかのごとく、影を作っていた緒将へと向き直る。
「曹操軍から、疫病がもたらされた」
低すぎず、誰よりも通る劉備の声。
驚愕の表情で振り返る、見慣れた面々。
「我が軍の薬草を放出します」
きっぱりと言い切る孔明に、誰もが迷いも無く頷く。
疑わない瞳。
だが、事は今、動き始めた。


〜fin.
2009.05.02 the esoterica

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