[  ]


降ル

 帰路


風が弱まってきたのを見計らい、孔明は陣外へ早足で出る。
孫権軍の陣営が見えなくなったところで、大きく呼吸をする。
冷気が心地いい。
体の中に溜まっていた何かが吐き出されるような気がして、自然と笑みが浮かぶ。
そのまま、あらかじめ隠しておいた馬の方へと歩もうとして、表情を改める。
人の気配。
曹操軍にしろ、孫権軍にしろ伏兵とすると厄介だ。
こちらは、最低限のモノしか持っていない。
正直なところ、最低限も持ちたくは無いのだが、状況が状況だけに仕方が無い。馬無しを決め込んだところで、追われたら同じことだ。
さて、どうするか。
どうやら、相手は一人だ。馬さえこちらの手に入ってしまえば、どうにかなるかもしれない。
そう踏んで、一歩近付いたところで、相手が動く。
「軍師殿」
低く抑えた声に、思わず目を見開く。
「子龍殿?」
「ご無事で」
月明かりの下へと姿を見せたのは、確かに見慣れた白銀の鎧だ。邪気の無い明るい笑みは、彼が心許した相手にだけ見せるもの。
が、孔明は目を見開いたままだ。
「なぜ、ここに」
「今日、お帰りになると伺って、お迎えに」
「私を?」
実に間抜けだが、思わず問うてしまう。
「無論です」
はっきりと肯定してから、趙雲は眉を寄せる。
「やはり、お一人で動かれるおつもりでしたね?そんな危ういことではないかと、思ったのです」
危ういという点は否定出来ないが。
「我が君は、ご承知なのですか」
「無論です。本当は雲長殿も翼徳殿も来たがったのですが、それでは派手に過ぎると殿に止められまして」
孔明は、二、三度瞬きをする。
珍しく、頭がついていっていない。
自分の行動は、曹操の策にかかったふりをして同盟を破棄したように見せかけた劉備と、袂をわかったかのように見えていたはずだ。
それは、策とわかったところで、同じはずなのだが。
整理をつける為に、問いを重ねる。
「今、我が軍はどこに」
「すでに、曹操陣営の背後に布陣済みです。後は、軍師殿のご指示を待つばかりとなっております」
「私の?」
確かに、劉備とは返って来るのが合図だ、と約束はした。
どことなく、孔明の反応が鈍いのに気付いたのだろう、趙雲は首を傾げる。
「軍師殿、どうなされました?もしや、何か孫軍であったのですか?」
心配そうな瞳に、首を横に振って見せる。
「いえ、何も」
「本当ですか?ご飯は、ちゃんと出てましたか?我が軍だというので、減らされたりとかは」
食事の心配をされて、さすがに孔明は笑いそうになる。
何かと追い詰められていることが多い劉備軍にとって、糧食の確保はいつでも最重要事項だ。満足に食べられているかを心配するのは、仲間であることの何よりの証。
ようは、策のことはともかく、孔明自身が劉備軍を見捨てたなどとは思っていなかった、ということ。
むしろ、長らく一人残ったことで心配をかけていた、というのが正確なところらしい。
「大丈夫ですよ、きちんとご飯もいただいていました」
「そうですか?ならば、良いのですが」
まだ、心配そうな顔つきの趙雲へと、笑みを返す。
「色々とご心痛をおかけしたのでしょう?私のことまでご心配いただいて、申し訳ありません」
笑顔を返されて安心したのか、趙雲は頷き返す。
「確かに、すっかり殿と軍師殿に担がれました」
爽やかに言ってのける趙雲の笑顔は、屈託が無い。策とわかり、劉備も同盟を蹴る気は無いと確信してすっきりとしたらしい。
「さ、皆、軍師殿のお帰りを、今かと待っております」
孔明が繋いでおいた馬の引き綱を、いつの間にやら手にしている。
「ええ、長居は無用ですね」
笑みを返して、孔明も素早く馬上へと身を移す。


〜fin.
2009.05.03 A backhaul

[  ]