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降ル

 


明らさまに唇を尖らせたのは張飛だが、他も似たり寄ったりだ。
「挨拶?」
「孫権軍に?」
「それなら、もう済んだろう」
口々に言われて、孔明は苦笑する。
「ええ、私もそう思います。が、周都督自らのお望みですので」
手にした書状を軽く振ってみせるのに、関羽が眉を寄せる。
「挨拶にかこつけ、軍師を害そうという腹では?」
「精錬潔白を信条とする方です。奥方もご一緒とありますから、心配はありますまい」
「では、何の挨拶なのでしょう」
困惑気に首を傾げる趙雲に、張飛も頷く。
「けじめをつけたいのだろう」
静かに口を挟んだのは、劉備だ。
「多くを語らずとも策を語り合える孔明に、ひとかたならぬ友情を感じていたようだから、敵となるしかない明日からの己の為に区切りをつけたいのだ」
「ははあ」
「なるほど」
素直に納得する関羽たちをよそに、孔明は苦笑を浮かベたまま肩をすくめる。
「さてはて、ずい分と見こまれてしまったものです」
立ち入りすぎず、かといって肝心なことは外さない孔明の呉での態度は、むしろ周瑜に好もしく映ったろうと思うが、劉備は口にせず、似たような困った笑顔になってみせる。
「そうだな、江東へと誘われてしまったら困るな」
「おい兄貴!それは駄目だぞ!」
慌てて口を挟んだのは、張飛だ。趙雲も大きく頷く。
「そうです、孔明殿は我らが軍師」
「うむ、奪うなど揺るさん」
関羽までもが真剣な顔つきになるのに、劉備と孔明は視線を合わせて笑いを堪える。
「誘われたとて、よしんば脅されたのだとて、私はお断りしますよ。皆さんが望んでくださる限り、私は我が軍の軍師です」
皆へと向ける素直な瞳は、彼らにだけ向けられるものと、もう誰もが知っている。
が、張飛たちは安心はしていないらしい。
「あっちはそうは思わねぇかもしれねぇよ」
「そうです、危険です」
「手紙を返すだけで、いいだろう」
口々に言うのに、劉備は軽く手を上げる。
「孔明が行くベきと判断したのだ、それが最も正しい答えということだ」
「でも」
不安そうに視線を向ける三人に、劉備は笑みを見せる。
「心配ももっともだ、先ずは会談の場所のごく近くまで、子龍を護衛につけるとしよう」
「はっ、お任せください」
邪気の無い笑みを浮かべて頭を下げられてしまえば、孔明には断れない。
劉備は、にこやかに続ける。
「それから、これだ」
いつの間に用意していたのか、取り出したのは綸巾だ。
「言外に我らが軍師と告げる合図になろう」
連戦で劉備軍の懐は苦しいのだが、手渡されたものは、しっかりとしたいい造りだ。
「我が君」
いくらか困惑を乗せた声に、劉備は笑顔のまま促す。
「被ってみせてくれ」
関羽たちの期待する視線も受けて、孔明は大人しく綸巾を頭に乗せる。
「うむ」
満足気に頷いたのは劉備で、手を打ったのは張飛だ。
「おう」
「お似合いですな」
「本当に」
口々に言われて、孔明は照れたように首を傾げる。
「道士のような軍師というわけですか」
「宮仕えの文官には絶対に見えん」
「兄貴、頭いいな!」
心底感心した顔つきで張飛が言い、関羽と趙雲も深く頷く。
一人で孫権軍の中に残り続けた孔明の為にと、ひそかに用意させたものだが、天を読むことに長けた孔明には本当に似合いだ。
劉備も、もう一度頷く。
「都督も、一目で悟ることだろう」
「ええ」
頷き返した孔明の笑顔は年相応どころか、少し幼いくらいだ。
そっと、指先で綸巾のふちをなぞる。
「ありがとうございます、我が君」
軽く頭を下げた後、劉備の隣へと視線を移す。
「参りましょう、子龍殿」
「はい、弓も得手ですからご安心を」
両の手を組んで見せる趙雲へと、孔明は頷き返す。


やがて、草原の向こうから穏やかな笑みと共に現れた青年の姿に、一瞬視線を揺らした都督は、諦めたように微笑んだ。


〜fin.
2009.05.07 A pledge

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