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降ル

 時宜


疫病に感染らぬよう口元を覆ってはいるが、通る声にも目にもいたわりが篭っている。
「ゆっくりで良い。だが、しっかりと食べるのだ。滋養をつければ、必ず治る」
言いきかせながら背を支え、さじを運ぶ手つきは、慣れたものだ。知らぬ人間が見れば、これが一軍を率いる将とは思いもよらないだろう。
ましてや、曹操が最も恐れる男なのだとは。
同じく口元を覆った孔明は、劉備の隣に膝をつく。
「かなり食べることが出来ましたね。良かった、後はこの薬を」
差し出された椀からの臭いに、青白い顔の兵士は思わず眉を寄せる。その表情に、劉備は目に笑みを浮かべる。
「良薬は口に苦し、だ。飲めば、身体が軽くなるぞ」
包み込むように椀を持たされた兵士は、自分の手を支える手の暖かさに驚いたようだ。瞬きをして劉備を見つめる。
深く頷いてやってから、劉備は孔明へと振り返る。
「ここは、私が。他の者にも、薬を用意してやってくれ」
「はい」
立ち上がりながら、軽く視線を流す。劉備はその意味を正確に取って、わずかに頷く。
孔明はそのまま立ち去り、劉備はまた兵士へと向き直る。
「さ、熱いうちが飲みやすい」
頷いて、兵士はゆっくりと椀を傾ける。

空いた椀を持った劉備が孔明の元へと来たのは、ほどなくだ。
孔明の前には、薬を煎じるための道具が並んでいる。軽く袖をまくり、慣れた調子で扇で火を調整している。
「我が君、次は我が軍の兵士に、これを」
何気なく、影の方から取り出した薬壺から、煎じた液体を器へと注ぐ。
香りは疫病の症状をやわらげる桂枝の煎じ薬に似ているが、色が少し違う。薬に縁が多い劉備には、すぐにわかる。
「孔明?」
「一日で、汗が出ます」
ほとんど抑えた声で早口に告げ、まっすぐに劉備を見つめる。
「今は、ごく少量しか」
孔明が省いた言葉が何なのか、問わずとも劉備にはわかる。
疫病を、治す薬。
こちらに広がりだしてすぐ、孔明は探索し続けていた。やっと見つけたのだ。
少量、の意味は劉備軍で病を得た者にまわすほどしか、の意味。
本来ならば、劉備は同盟相手である孫権軍の兵士らと自軍の兵士らを分け隔つつもりは無い。疫病が広がりだしてすぐに、自軍の薬草を放出もしている。
先ほど、食事の世話をしていた相手も孫権軍の者だ。
が、今の劉備には、もう一つ役目がある。
必ず、この手に勝利を得る為に。
同盟を破棄したふりをし、夏口へと引く。
冬至も近付いてきている。孔明は、時を告げたのだ。
劉備もそろそろと腹を括っていた。
「汗をかくのが多いほど、早いです」
治りが、の意味だ。
「歩けば、汗をかくな」
つ、と視線を走らせる。
「今日明日だ」
自軍の兵士たちに、薬を行き渡らせねばならない。
「はい」
どちらからともなく、視線を交わす。
まっすぐな、痛いくらいの瞳。
ふ、と視線を和らげ、劉備は孔明から渡された薬を手にする。見慣れたものよりも、深い色のそれを。
「さて、冷めぬうちに飲ませんと」
「お願いします」
込められた意味に、劉備は深く頷き返す。
そして、いつもの表情で二人は動き出す。


〜fin.
2009.05.07 the opportunity

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