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降ル

 博望破


息せききって駆け込んで来た兵の報告に、誰もがざわめく。
曹操軍の南下が始まった、最初の標的は新野であるらしい。兵数も、そうとう規模のようだ。
軽く眉を寄せる劉備の脇で、張飛が毒づく。
「ちっ、とうとう来やがったか」
誰もが息を飲む中、一人、のんびりと外を見やっている青年がいる。
空を見上げる表情は、いたって平穏だ。
曹操軍が来ることなど、耳に入ってい無さそうな様子に、みるみる張飛の眉がつり上がる。
「おい、大事な話してるって時に」
まるで、その台詞が合図であったかのように、真白の鳩が孔明の腕へと舞い降りる。慣れた様子で足を撫でてやると、自分の足元へと何かを撒いてやっている。
餌だったらしく、鳩は嬉しそうについばむ。
あまりにのどかな光景に、誰もがいくらか度肝を抜かれる。が、すぐに我に返って不愉快な表情になる。もう、張飛だけでなく、劉備以外の誰もが、だ。
怒鳴りつけてやろうと、張飛が大きく息を吸った、その時。
「大将が夏候惇、副将が李典。兵数は十万です」
そこまで言って、孔明が振り返る。
「向かってくる街道からして、博望破へとさしかかるものと考えられます」
羽扇で軽く仰ぎつつ、目を丸くする諸将を見回す。
「なぜ、そこまではっきりとしたことが言える?」
詰問調で尋ねたのは、関羽だ。
「もちろん、情報を得たからです。北方に住まう友人もおりますから」
やっと腹がくちくなったのだろう、孔明の足元から飛び立っていく鳩を見上げながら、いくらか目を細める。
「あれは、少々特殊な訓練を積ませてあります」
少々残った餌を軽く足で払いつつ、孔明は羽扇を手にしているのとは反対の手を軽く揺らす。正確には、手にしている紙を、だ。
「遠くとも、こうして友人の手紙を届けてくれるように」
今まで、直前まであやふやのままの情報に四苦八苦してきた劉備の顔に、喜色が浮かぶ。
「素晴らしい!」
「へっ」
吐き出すような声を上げたのは張飛だ。
「十万だってのがわかってなんだってんだよ」
「こちらは五千、普通にあたったら殲滅されるだろう」
関羽も皮肉な口調だ。
皆の冷ややかな視線を受けても、孔明は穏やかな表情のままだ。
「夏候惇の軍が到達するまでには、あと数日の猶予があります。それまでには策を用意しますので、出陣の準備をお願いいたします」
「よし、皆、頼むぞ」
余計なことを誰かが言い出す前に、劉備が場を締める。


いよいよ、となり、広間に集合した諸将は軽く目を見開く。
劉備が主のいるベきところにいるのはともかく、そのすぐ脇に孔明が立っていたからだ。
「曹操軍を迎え撃つ策を、軍師から説明する」
劉備がはっきりと孔明の立場を告げる。
穏やかな表情で皆を見回した孔明は、静かに口を開く。
「曹軍を誘い出し、火をかけます」
あらかじめ掛けていた地図を羽扇で指し示す。
「博望破は東の予山と西の安林に挟まれた谷をなす地形です。ここでは、むしろ大軍であることが仇になります」
笑みを含んだようにも見える口元は、軽やかに作戦を説明していく。
「関将軍は予山に千五百の兵を伏せ、輜重隊が差し掛かったら仕掛けてください。張将軍は安林に千五百の兵を伏せ、火の手を見たら中軍に打ちかかって下さい。関平殿と劉封殿は、五百ずつ兵を率いて博望破の上に陣取ります。曹軍が深く入ったと見たら、火をかけます」
まるで、夏候惇が誘い出されることは確定事項であるかのように告げ、孔明は趙雲を見やる。
「趙将軍には先鋒をお願いいたします。兵は五百、頃合を見て、引いて下さい」
誘い出す役と理解し、趙雲は頭を下げる。
「我が君も、こちらで曹軍を待ち構え、趙将軍と合流してから、引いて下さい」
「わかった」
劉備がしっかりと頷く。
孔明は、皆へと向き直る。
「では」
「ちょっと待った!」
大声を出したのは張飛だ。
が、孔明は表情を変えずに見つめ返す。
「はい」
素直に首を傾げられて、気勢を微妙にそがれつつも張飛は問う。
「み、や、アンタは何をするんだか聞いてねぇ」
「私は留守をお守りしています」
にこやかに返されて、張飛はますます激高する。
「んだと?!亅
「翼徳、止せ」
止めたのは意外にも関羽だ。
目を丸くする張飛に、孔明の手元を指してみせる。
「兄者の剣と印だ」
「だからなんだってんだ」
張飛のまなじりが上がる。
「今、あの男に逆らうのは、兄者に逆らうということだ」
一瞬、泣きそうに眉を寄せた張飛は、大きく舌打ちする。
「ああ、わかったよ、聞いてやんよ。これっきりだからな。覚えてやがれ」
吐き捨て、大股に広間を背にする。諸将も次々と出、最後になった劉備は、孔明へともう一度深く頷いてから出ていく。


結果は、はっきりとしている。
「勝ったなぁ」
目を見開きながら周囲を見回す張飛へと、関羽が付け加える。
「作戦通りに、だ」
「おう、水、じゃないや、なんつーんだ、その作戦考える役ってのは」
「軍師」
いくらか呆れつつも、いつものことと関羽が返すと、張飛は大きく頷く。
「そうそう、軍師。うん、軍師すげぇよ」
「元直殿も軍師だったぞ」
「だった、じゃねぇか。軍師なんて呼んだこともねぇし」
唇を尖らせて言ってから、張飛は首を傾げる。
「っていうか、違うだろ」
確かに、と関羽は頷く。
孔明は、何一つ小難しい講釈はしなかった。すべきことを、わかやすく言っただけだ。
「父上!叔父上!」
谷上から奇襲をかけた関平たちが、喜色満面で戻ってくる。
「輜重車がこのように」
火に巻かれなかった分を回収してきたらしい。寡兵な劉備軍にとっては、それでもかなりな量だ。
「お、やったな!」
満面の笑みを返した張飛の隣で、関羽も深く頷いたところへ、劉備と趙雲も合流してくる。
「兄貴、勝ったな!」
「そうだな」
満面の笑みの張飛へと、頷き返しながらも、劉備は意味ありの視線をよこす。
照れくさそうに顔を見合わせた関羽と張飛は、劉備へと向き直る。
「軍師の作戦のおかげだ」
「今、すげえなって言ってたとこだよ」
笑みを浮かべた劉備と対祢的に、緊張した顔つきになったのは趙雲だ。
「単騎で来る者があります」
城から火急の用か、と皆が注視する中、馬はのんびりを近付いてくる。風が吹いて、袖がひるがえる。
鎧をまとっているわけではない、とわかった瞬間、珍しく張飛が顔を輝かせる。
「軍師だ!」
大きく手を振る。
「軍師!」
目前までやって来た孔明は、いくらか首を傾げる。
「軍師とは、どなたのことですか?」
「そりゃあ」
そこで言いよどんだ張飛は、救いを求めるように関羽を見やる。
「それは、あれだ」
珍しく困惑顔になるのに、趙雲が笑って言う。
「孔明殿のことです」
張飛が、大きく頷く。
「おう、今回の戦だって、軍師がいたから勝ったんだからな」
「我らが軍師ということだ」
関羽が言うと、周囲がわっと沸く。
さすがにこれは予想外だったらしく、孔明はいくらか目を見開く。
劉備も笑顔で、孔明へと頷きかけてから、皆へと向き直る。
「勝ちどきだ!」
ますます沸く兵らの中で、笑みを浮かべた孔明の手を張飛が掴む。
「ほら、軍師も!」
無理矢理に勝ちどきをあげさせられて、眉のあたりには困惑が浮かぶが、笑みも大きくなる。


〜fin.
2009.05.19 the first victory

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