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降ル

 長坂破


白い鳥が、青い空へと羽ばたいていく。
のんびりとさえ見える景色を見上げる孔明の視線は厳しい。
考えうる限りの最悪条件よりも、今の状況は最悪だ。
蔡瑁たちに勝手に曹操に降伏されて新野は孤立した上、ついて行きたいと懇願する民の避難が完了する前に曹操軍本隊が迫りつつある。
当初は民を完全に去らせた後、城を囮に曹操軍を叩く予定だったのだが、これでは無理だ。
「このままでは、民が逃げ切れるかどうか」
趙雲が眉を寄せながら言うと、張飛がいらだたしげに舌打をする。劉備は決然と言い切る。
「どうあっても、民は救うのだ。歩くのが困難な老幼には兵をつける」
「新野城下から皆出ないことにはどうにもなりません。山を越えれば、大軍が一気に攻めかかることは難しくなります。出来る限り急いでそこまでは」
山から目的地である夏口まではいくばくかあるが、目前の山越えで一難は避けることが出来ると孔明に示されて、皆、気を取り直した顔で頷く。
「わかった」
「山を越えりゃいいんだな」
「張将軍の軍には、補修した盾を配備します。山道手前に布陣して、護衛をお願いします」
孔明の言葉に、張飛は大きく頷く。
「おう」
「では、私は城下を」
趙雲が真剣なまなざしで言い、慌しく動き出す。
誰もが、江夏へと援軍を要請に行った関羽のことは口にしない。
間に合わないことは確定だ。それどころか、今後合流出来るかどうか。
「よし、準備整い次第、すぐに出立だ」
何かを振り切るような劉備の言葉に、皆が頷く。

昨日の雨が仇になっているらしく、家財道具と移動しようとする民の移動は遅々としている。
それを、困った視線で見やりつつ、孔明は軍から少しだけ離れた場所へと馬をつなぐ。
新野の城が一望出来る小高い場所へと歩き、いきなり、がば、と伏せる。正確には、地に耳をつけたのだ。
響いてくる轟音は、人が、いや兵が地を踏みならす音だ。
こうして地と一体となると、まるで地響きのようだ。
徐々に、整然と集結していくのが手に取るようにわかる。間違いなく、それは曹操軍の本隊。
乱れた様子はないのに、その音は延々と続く。
孔明は、思わず瞼を塞ぐ。
大軍と覚悟はしていた。いくらかの時間稼ぎの準備もした。
が、この音量が示すものは。
必死で、音を辿る。
だが、聞こえて欲しい音は、まだだ。
いくらか眉間に悲壮なものを浮かべたことに気付いて、孔明ははっと瞼を開く。
一人、ここでいつまで待っているわけにはいかない。最悪の状況をいくらかでも軽減するには、動くしかない。
機敏に立ち上がると、馬の方へと速足で向かう。

思った以上の大軍、と正直に告げた孔明へと、張飛は千人の増員を依頼した。当然のこと、と孔明は馬をかって山越えの自軍へと駆けいっていく。
その姿に気付いた関平が、急ぎ近付いてくる。
「我が君は?」
「その先に大きめの窪がありまして、そちらを民が越えるのを手伝っておられます」
「ありがとう」
と、すぐにそちらへと歩き出した孔明の後ろへと、関平はついてくる。
「軍師殿、奥方様と若君が、まだ村に取り残されていると報告があったそうです」
思わず目を見開いて、振り返る。
「殿は民をお助けになるままで、子龍将軍が、お一人で向かわれたそうです。俺は、ここで民を助ける兵を指揮しろと殿から」
不安そうな関平に、頷き返す。千の兵を動かす許可を得たら、百は趙雲の援護に回そう。
この、直面の危機さえ乗り切ることが出来たなら。
絶対に、先はある。
いや、作り出せる。
だが、今出来るのは、可能な限り生き延びる手立てを講じることだけだ。
「我が君」
拱手した孔明へと、劉備が振り返る。
「こちらについている兵から、千を守備にお回し下さい」
「いかん。あの老幼を見捨てることとなるではないか」
きっぱりと言ってのけた劉備へと、孔明は言葉を重ねる。
「曹操も、民は殺しません」
「曹操を嫌い、私を慕ってついてきたんだぞ」
強い瞳に、孔明はそれ以上の言葉を継げなくなる。徐州の惨劇が繰り返されないという保障はどこにも無い。
確かに、山越えには兵らの助けがいるだろう。が、防御線を突破されたら、山越えにすら辿りつけない者が数多く出る。
「しかし、殿」
言い募ろうとした関平に向かい、劉備は更に言う。
「民無くして、何のための戦か!」
これ以上の議論は無用とばかりに、劉備は民たちの中へと戻っていく。
「軍師殿」
困惑しきった関平へと、孔明は遠くを見やったまま言う。
「我が君をお守りして下さい」
遠く、微かに見えた影に、賭けるしかあるまい。

乱戦の中に丸腰のまま駆けいろうとする孔明を心配して、数人の兵がついてくる。
それを見やった張飛は、馬を寄せながら不機嫌に眉を寄せる。
「援軍は?」
もうすぐ、とは言い難い。
遠くにちら、と見ただけだ。見間違いの可能性はまだ否定出来ない。必死で視線を巡らせる孔明を見て、張飛も不思議そうに見回す。
ややして。
反射の術をしたまま防御態勢でいる兵らが、さっと開ける。
駆けだしてきた一人は、あっという間に寄ってきた曹軍の兵を蹴散らし、すぐに動けるよう構えを取りながら前を見据える。
関羽が駆け付けた、と見るや否や、張飛の表情も明るくなる。
「どうやったんだ、軍師。兄ぃが間に合った!」
「鳩を。兵はともかく、関将軍が必要だと」
いくらか頬を緩めつつも、孔明は戦場を見回す。関羽が間に合ったとて、一時の時間稼ぎにしかなるまい。
出来うる限りの民も皆も守るには、どうしたらいいか。
一人でも、多くを。
阿斗を背負った趙雲が、見えるうちにも何度も危機にさらされながら、どうにか辿り着いてくれた時には、心は決まっている。
「撤退です」
「戦えるのに?!」
張飛が声を荒げるのに、真剣に返す。
「民を守るのが最優先です。多勢に無勢でもあります」
一瞬、瞼をふさいだ孔明は、悲愴な視線を上げる。
「一人でも多く、生き残らなくては」
一拍の間の後。
張飛と趙雲は、静かに頷く。

盾となって倒れていく兵士たちから、孔明は視線を逸らさない。
それを直に指示したのは武将たちだが、示唆したのは自分だ。
もう二度と。
こんな犠牲は出さない。
絶対に、だ。
唇をかみ締め、前を見据える。


〜fin.
2009.05.12 A crushing defeat

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