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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 


師匠がいれば、もう玄徳さんは困らない。
迷いようも無く、花が確信したのは自分にそう言い聞かせたかったからだけでなく、それなりに根拠がある。
無事に益州を地盤として手に入れた後、本拠となった成都へと駆けつけた玄徳と孔明のやり取りを見ていて、だ。
ついこの間、玄徳軍に加わったはずの孔明は、あまりに見事に馴染んでいた。
「君が優秀だから、すんなり馴染めたよ」
などと、孔明は相変わらずの軽口を叩いていたが、それ以上に。
ずっといなかったはずなのに、ただ、自分の様子を見に来ていただけのはずなのに。
あまりに、孔明は玄徳の呼吸を心得ている、と思う。
政策の提案の仕方、その内容の細部に至るまで。
玄徳が、何を望んでいるのか、何を目指しているのかを完全に飲み込んでいる。
そう思って、よくよく考えてみれば。
最初から、孔明は自分が玄徳軍に加わることを否定したことは無かったのだ。
まだ先だ、とは言っていたけれども。
さて、その孔明は、先ほどより少々難しい顔で書類を読んでいる。
花が覚えたての文字で記したものの、間違いをチェックしてくれているのだ。実のところ、もう何回誤字を指摘され、書き直したのか覚えていない。
思考がとんでもないところに行っているのは、現実逃避もあるからに違いない。
「ふむ」
さほど大きな声ではなかったが、花の思考は現実へと戻ってくる。
ぴし、と固まるように姿勢を正したのへと、難しい視線が降りてくる。
また、どこか間違ってしまっただろうか。
更に身体を硬くするのへと、にこり、と笑みが向けられる。
「よく、出来ました」
「え?」
「全部合っているよ。出来上がり。ご苦労さん」
笑みが深くなるのに、やっと実感がわいてくる。ちゃんと、この世界の文字で書類を書き上げることが出来たのだ。
「ありがとうございます」
何度も何度もチェックしてくれた孔明に、花は深く深く頭を下げる。
「こらこら、ここで仕事は終わりじゃないよ」
もう、孔明はいつもの表情で手にした書類を振ってみせる。
「しかるべき所に、書類を届けないとね」
「あ、はい……」
いくらか小さくなる花へと、孔明はもう一度笑みを向ける。
「ま、その前に、一息いれるとしようか」
「はい」
「じゃ、白湯をもらっておいで」
「はい!」
満面の笑みで部屋を後にした花に、孔明がそっと苦笑したのは知らない。

白湯を取りにいた途中で、翼徳が取ってきた果物をわけてもらってきたとので、一息どころかちょっとした休憩時間となる。
「……ねぇったら?」
目の前で何かが動いていることに気付いて、花ははっと我に返る。
「はいっ、なんでしょう?」
「心ここにあらずって感じだね?どうしたの?悩み事?」
孔明は、半分イタズラっぽく、半分は心配そうに尋ねてくる。
どうやら、いつの間にか先ほどの疑問が頭がいっぱいになっていたらしい。
誤魔化しても全く通用しないのはわかっているので、花は大人しく口にする。
「師匠は、最初から玄徳さんに味方するつもりだったんですか?」
「え?僕?」
孔明は、目を瞬かせる。
まさか、考え事の中身が、己のことだとは思っていなかったらしい。
が、すぐに、いつも通りの食えない笑みが浮かぶ。
「どうだろうね?どう思う?」
「師匠は、自分で信頼していない人のところへ、放り出すような無責任なことはしないです」
これは、先ず最初に言えることだ。ふらふらと、いつもどこぞへと放浪してしまうが、本当に肝心の時にはいつも救ってくれている。
理由はなんであれ、花のことをとても気にかけてくれていることは、うぬぼれでなく確かな事実だ。
「ほう、それで?」
何かを飲み込んだような顔をして、孔明は先を促す。
「それに、前に師匠は玄徳さんのところに来るのは、まだ早い、とおっしゃいました。来る気は無い、とは一度も聞いたことがありません」
「なるほど、なかなかに鋭いね」
きちんと根拠が述べられたことに満足したらしく、孔明は、にんまり、と笑う。
「僕らの知識は、上に立つ為のモノじゃない。上に立つ誰かを支える為のモノだ」
「はい」
花は、しっかりと頷く。
「当然、僕は誰に仕えるべきかも、早くから調べてきた。そして、玄徳様が相応しいと判断した」
なるほど、ずっと玄徳のことも調べていたのだ。だから、これだけ早くしっくりとするのだろう。
最初の疑問は、これで解決だ。
が、花の疑問は、これだけではすっきりとしない。
「どうして、玄徳さんだと思ったんですか?孟徳さんは、選択肢には入らなかったんですか?」
孔明の思考は、基本的に現実路線だ。益州攻略だとて、絶対に必要と、花に玄徳の説得に当たらせたくらいなのだ。
むしろ、そういった現実主義は孟徳に沿うように思えるのだが。
「孟徳はね、あり得ないよ」
孔明は、きっぱりと言ってのける。
「自分の親を殺した土地の人間を、皆殺しにしようとしたからね」
「え」
背筋が、ぞくり、とする。確かに、孟徳はそういうことが出来てしまいそうだ。
孔明が嘘をつくとも思えないし、現実なのだろう。が、返す言葉が見つからない。
大きく目を見開いたまま、花は孔明を見つめる。
「ま、僕の故郷なんだけど。そういう訳で、孟徳はあり得ない。そうだな、玄徳様の目標が僕と一緒というのもあるけれど、そういうことを絶対にしないと確信出来たから、というのもあるね」
ああ、そうだ。
玄徳は、どんな理由があろうと、無辜の民を無残に殺すような真似はしない。
絶対に、と言い切れる。
「はい」
深く深く、花は頷く。
「玄徳さんは、絶対にしません」
強く返す花へと、孔明は笑みを返す。
「だから、玄徳様と決めたんだよ」
孔明にしては珍しい、まっすぐな強い瞳。
花は、もう一度、頷き返す。
まっすぐで確固とした理想を持つ玄徳と、それをきちんと理解して支える孔明と。
間違いなく、自分がいなくてもやっていける。
だから、最後まで安心して頑張れる。そして、帰ることが出来る。
我知らず、鼻の奥がつんとしてくるのを我慢しながら、花はもう一度、頷き返す。


〜fin.
2010.04.06 A lodestar

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