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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 後顧


皇帝は、奪還した。
あれだけ元気だった赤子が、表情を失った人形然となってしまっているのは気になるが、花があげた鈴を手放さずにいてくれたのだ。時間をかければ、ゆっくりと笑みも取り戻すだろう。
そして、玄徳も中央で充分に発言権のある地位を与えられた。
もう、一人の専横は許されない。
これで、玄徳が理想とした政治が始まる足がかりは出来た。
目指す目標に、辿り着いた。
後は。
表紙の色の変わった本を、花は半ば無意識に抱きしめる。
後は、帰るだけだ。
玄徳さんの、私の願いは叶ったのだから。
そこまで考えて、喉元までこみ上げてきた何かを、必死で飲み込む。
泣いたらダメだ。
あと、ほんの少しだけ我慢しないとダメだ。
きゅ、と唇を噛みしめる。
本当に?本当に願いは叶ったの?
これで、大丈夫?
孟徳さんは、不満だろう。無理矢理に皇帝を奪われて、自分の思うように進めてきた政治を邪魔されて。
仲謀さんも、こんな強引な展開についていけてない顔をしていた。
でも、仲謀さんのところは、尚香さんがいるから。
また、こみ上げてきたものを強引に飲み下す。
まだ同盟は続いているのだから、大丈夫。
問題は、孟徳さん。
そこまで考えて、花は首を傾げる。
孟徳軍に捕らわれ、助け出された後。玄徳は言ったのだ。
「お前なら、孟徳の考えも理解出来るのではないか」
はっきりとは言わなかったが、多分、玄徳もそうだ。孟徳の強引な進め方が気に入らないだけで、その内容までもを否定していた訳ではない。
後顧の憂いを断つのなら。
花は、決然と顔を上げる。

後に元譲が語ったところによれば、戦場で火薬を込めた投石を目前に食らった時より衝撃が大きかった、らしい。
それは大げさにせよ、文若の細目が、誰にも認識出来るくらいに見開かれるくらいには、衝撃があった。
最も動じてないのは、花に言葉を向けられた当人である、孟徳だ。
「ふうん、俺と玄徳がね、仲良く、ね」
興味無さそうに言った後、にこり、と笑う。
「どうして、俺に言うのかな?」
「玄徳さんは、孟徳さんやっていることは理解出来る、ただやり方が問題だ、と。政策は良いものだし、すごい方だって」
つ、と孟徳の視線が細まっていくことに気付き、花の語尾が小さくなっていく。
が、ここで黙ったらお仕舞いだとでも言うように、ぐ、と手を握り締めると、また口を開く。
「あの、本当です。私が孟徳さんのところから帰った時にも、孟徳さんの考え方が理解出来るんじゃないかと言ってました。それは」
「俺の考えが、玄徳にも理解出来るモノだってことだね」
厳しい目のままではあるが、孟徳は冷静に花の言葉を理解してくれる。
「でも、どうしてそれを俺に言うの?」
「あの、玄徳さんは、心から信頼してくれる人は、絶対に信頼します。受け入れてくれる人です。私だって、だから助かったんです」
隆中の山中で、孔明の伝言を携えていたとはいえ、どこの国から来たかもしれない少女を受け入れてくれたのだ。彼は心底頼ってくる人間を拒絶することなど出来ない。
それに、信頼に値する人間かどうかの判断は確実だ、とも言い切っていた。
となれば、玄徳がそうではない、と判断したとすれば。
「俺が、玄徳を信頼していないのが問題だ、って言いたいのかな」
「おい」
「花殿」
元譲と文若が、弱りきった声を挟んだのは同時だ。
孟徳が、いくらか面白そうに二人を見やる。が、に、と口の端を持ち上げる。
「なに?せっかく花ちゃんが一生懸命話してくれてたのに。まあいい、言いたいことがあるなら、どうぞ」
そんな風に言われて、自分の主君は誰も信用しないと決めている、などと堂々と暴露出来る訳が無い。
「いや」
「いえ」
二人とも、らしくなく言葉を濁して目線を逸らしてしまう。
花は、内心では首を傾げつつも、孟徳へと向き直る。
「失礼なことを言っているのは、重々承知しています。でも、これからのことを考えたら孟徳さんと玄徳さんが」
「あのねぇ、花ちゃん」
やんわりと言葉を止めた孟徳は、子供のようにその表情を不満でいっぱいなモノに変化させる。
「俺、とっても傷ついてるんだよね」
「え?」
話題が吹っ飛んだ気がして、花は目を瞬かせる。
「前に、玄徳が俺のところにいたことがあるのは知ってる?」
「あ、はい」
その際、献帝奪還計画に参画して失敗した、と玄徳は言っていた。許都を離れていた玄徳だけが殺されずに済んだのだ、と。
「出来るだけのことはするつもりだったんだよ。実際してきたつもりだったしね。でも、結果は知ってる?」
孟徳にとっては、玄徳の計画参加は裏切りに等しいことだったに違いない。他が殺されてしまったのだ、玄徳とて、もしかしたら。
「あ、ええと」
言葉に詰まってしまう。
が、そんな花の様子にお構いなく、孟徳は続ける。
「黙って俺のところから離れちゃったんだよ。挨拶も無しにさ。酷いでしょ?」
もう一度、花は目を瞬かせる。
「え、あ、はい」
助けてくれた人のところから、黙って消えるのは礼を失する、とは確かに思うが。
「ね、花ちゃんも、そう思うでしょ?俺、ホント、傷ついたんだよ」
うんうん、と腕を組んで深く頷く。
「だからね、そうだな」
にこり、と邪気の無い笑みが浮かぶ。
「玄徳が、黙って離れたことについて、きちんと謝罪してくれたなら考えてもいいかな。花ちゃんに免じて」
「本当ですか!ありがとうございます!」
花は素直に満面の笑顔になって、深く深く頭を下げる。
早速、といった様子で背を向けるのを見送ってから、深く深くため息を吐いたのは元譲だ。
「孟徳、からかうような真似を」
「からかってなんかないよ、俺は本気で言ったんだよ」
肩をすくめてみせる孟徳に、文若が解せない、というのをありありとした表情を向ける。
「なぜ……」
「だって、あの子、嘘吐かなかったじゃない。玄徳はやり方以外のことは認めてくれてるってことでしょ?だったら、あの子の言う通り「仲良く」しといた方が、断然やりやすい」
それから、どこか不安そうに眉を寄せる。
「でもねぇ、玄徳はどう思うかな。俺と仲良くなんて、したいかな」
子供のような内容の呟きは、だが、酷く深刻な響きも含んでいて。
元譲と文若は、困ったように顔を見合わせる。

「孟徳さんと、仲良くすることは出来ませんか?」
花の言葉に、玄徳と孔明は二人して目を見開く。
玄徳はともかく、孔明までもがこうして驚くのは、非常に珍しい。というより、花は初めて見た気がする。
しかも、その後のコメントが無い。
花は、次第に頬が上気してくるのを感じる。
「ええと、あの、その。そうですよね、今更ですよね、孟徳さんとも協力していくなんて、当然……」
わたわたと言い訳のように言い始めたのを見て、やっと我に返ったらしい。玄徳と孔明の顔には、苦笑が浮かぶ。
「いや、花の言いたいことはわかる」
「うん、上っ面だけじゃなく、腹を割って協力していけたら、と言いたいんでしょう」
さすがに、回転の速い二人は、花の言葉足らずをきちんと補完してくれている。ほっとして少しだけ肩から力を抜いて、大きく頷く。
「はい、そうです。そうしたら、これからの政治も上手くいくのではないかと思って」
言葉の途中から、玄徳の表情は難しいものになっていく。
「だが、孟徳は」
「あの、実は」
どんな言葉が続くのか察しがついたというよりは、結果を早く伝えたくて言葉を被せてしまう。人を遮ること自体が珍しいので、玄徳も孔明も、花が何を言い出すのか、というように次を待ってくれる。
「孟徳さんにも、お話してみたんです」
「な?」
「ほう?」
気の利いた相槌が出てこないらしく、二人はまじまじと花を見つめる。
あまりに二人が驚いているので、花は、かなり無謀なことをしたのかもしれない、と頭の片隅で思う。が、もうコトは済んでしまった。
その上、一応、孟徳の言質も取れている。
「で、孟徳さんは、前に玄徳さんが黙って孟徳さんのところから離れたことを謝れば、仲良くしてもいい、と」
「君、いったい孟徳と何を話してきたの」
からかわれているとしか思えない和解条件に、孔明が首を傾げてみせる。
「ええとですね」
結局のところ、孟徳との会話をほぼ全て再現させられながら、ひどく気恥ずかしいことを口走っていたと思い至って顔を真っ赤にして伏せていると。
「孟徳は、俺が挨拶も無しに離れたことについて謝罪すればいい、と言ったんだな」
玄徳の静かな声に、花は顔を上げられないままに頷く。
「わかった、では、謝罪して来よう」
とても決然とした声に、花は弾かれるように顔を上げる。
孔明は、いくらか不審そうな表情だ。
「ですが、あの孟徳がその程度で」
「何を考えているかわからん、というのは本音のところだが。孟徳の言う通り、切羽詰っていたとはいえ義理を欠いたのは事実だ。謝罪はすべきだろう。それに」
言いかかった言葉は、そこで立ち消える。
何を、と訊きたかったが、花の問いも喉元で消える。
「ありがとうございます」
変わりに出た言葉は、それだけで。
だが、玄徳は微かな笑みを浮かべる。
「いや、俺の方こそ礼を言うべきだろう。どうあっても無理だと思っていたことに、筋道を付けてくれたんだ。感謝する」
ふ、と伸ばしかかった手が空を切って。
玄徳の姿は、扉の向こうへと消える。
「無茶するねぇ」
孔明が、ため息混じりに言う。
確かに、よくよく考えれば無茶なことだ。孟徳の仕掛けてきた言葉遊びに返すくらいで、コトが上手く進むとも思えない。
「すみません」
小さくなりながら言う花に、孔明は微かに笑う。
「責めてるんじゃないよ。孟徳は子供のようなところのある人だから、もしかしたらもしかするかもしれない」
「そうでしょうか?」
時間が経つにつれ、だんだんとからかわれていただけの気がしている花の返答は、力が無い。
「我が君が動くんだよ、大丈夫」
ぽんぽん、と軽く頭を撫でられ、花は泣き笑いのような顔になる。
上手くいってほしい、そうしたら、本当に終わることが出来るから。
もう、苦しい思いをして玄徳を見上げなくて良くなるから。


〜fin.
2010.04.13 Fear of anxiety

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