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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 


イチバン大事だと思ったものは、いつだって自分の前から消えていく。
それどころか、少しでも気を抜けば、牙をむく。
あれほどまでに、ココロが血を流すくらいならば。
誰も信じなければいい。誰も信じない。
そう、決めたのに。
なぜだろう。
不意に、切ないくらいに、誰かを信じたくなるのは。

目前の少女もまた、孟徳の元から去って行った一人だ。
だが、配下でもないのに、孟徳に嘘を吐かなかった、稀有な存在の片割れでもある。
孟徳は、複雑な心情を押し隠しながら、にこやかに笑みを向ける。
「こんにちは、花ちゃん。俺に何か用かな?」
「こんにちは、孟徳さん」
ぴょこん、という擬音がぴったりの仕草で頭を下げる。
「文若さん、元譲さん、こんにちは」
律儀に左右にも頭を下げてから、花はいくらか緊張した視線を上げる。
「あの、孟徳さん」
「ん?」
にっこり、と笑ってやる。
見事としか言いようの無い手腕で、己の手元から献帝を奪い去った、玄徳軍の卓越した軍師の一人だというのに、花はその笑顔でいくらか安心したらしい。
恐らく無意識に手を握り締めつつ、ヒトツ大きく息を吸う。
「孟徳さん、あの、玄徳さんと仲良くしていただくことは、出来ませんか?」
その瞬間、孟徳は凍りついた音がした、と思う。
元譲の口が、ぽかん、と開いてしまっている。何か言いたかったのだろうが、全く言葉にならかなったらしい。
文若に至っては、そこまで開くことが出来たんだ、と感心するほどに目が見開かれている。
この場で無ければ、どちらも心行くまでつつくことが出来るのだが。
こんなことを考えている時点で、孟徳の思考も凍っていると言えないことも無い。
さて、と内心で切り替える。
「ふうん、俺と玄徳がね、仲良く、ね」
そんなことが出来れば、とうに戦乱の世など終わっていた。
そこまでは口にしなかったが、面白く無い調子は伝わったのだろう、花が少しだけ身を硬くする。
孔明か玄徳が、何か含ませたか、とも考えつつ彼女を観察するが、視線を逸らす様子も無い。嘘もかげりも無い。
どうやら、花の一存で言い出したらしい、ということまではわかる。
となると、だ。
なんだって、この少女は、いきなり突拍子も無いことを言い出したのだろう?
孟徳は、花が話しやすいよう、にこり、と笑う。
「どうして、俺に言うのかな?」
すぐに、花は返してくる。
「玄徳さんは、孟徳さんやっていることは理解出来る、ただやり方が問題だ、と。政策は良いものだし、すごい方だって」
我知らず、目を細める。
玄徳が、自分の政策を認めている?
まさか。
あの時だって、あれほどに話し合っていたのに、最後は無言で立ち去っていったというのに。
花の表情が、いくらか強張る。が、ぐ、と手を握り締めたのが見える。
「あの、本当です。私が孟徳さんのところから帰った時にも、孟徳さんの考え方が理解出来るんじゃないかと言ってました。それは」
一緒に歩んで行けると思ったのに、去っていったのに。
花の言葉には、嘘が無い。
彼女の言葉の意味を、考えなくては理解出来ないほど愚かでもない。
「俺の考えが、玄徳にも理解出来るモノだってことだね」
言葉から導き出される答えを提示してやると、花は少しだけほっと表情を緩める。
が、解を導き出すのと、納得するのとでは別の話だ。
最も大事なことを、問う。
「でも、どうしてそれを俺に言うの?」
花は、もう一度、大きく息を吸う。
「あの、玄徳さんは、心から信頼してくれる人は、絶対に信頼します。受け入れてくれる人です。私だって、だから助かったんです」
一気に、言ってのける。
言っている意味は、彼女が最も良く知っているはずだ。
見上げる瞳は、そう言っている。
嘘などではない。
彼女が考えに考えた、真実なのだ、と。
実に、わかりやすい反問だ。
玄徳が信頼には信頼を返す、だが、孟徳にそれをしないということは。
「俺が、玄徳を信頼していないのが問題だ、って言いたいのかな」
孟徳が言ったなり、それまで困惑気味の表情のまま、成り行きを見守っていた元譲と文若が、同時に口を開く。
「おい」
「花殿」
孟徳が、誰も信用しないことを誰よりも知っている二人だ。
配下ですら、心から信用してなどいない、と。身に染みている、と言ってもいい。
花の必死さが伝わるだけに、いたたまれなくなってきたのだろう。
孟徳は、面白いなあ、と口にせずに思う。
彼らは、こんな自分だというのに、けして離れようとはしない。
最近は譲位の件ですれ違い続けていた文若も、留守中の許都で何があったのか、吹っ切れたように昔どおりの真っ直ぐになった。
直言が多くなって、耳が痛いとも言うが。
元譲も、あの誓いは呪いと変わらん、と呆れた口調で言いつつ、絶対に孟徳の側を離れようとはしない。
半ば無意識に、口の端が持ち上がる。
だが、今、彼らに口を挟まれては、花の話の腰が折れてしまう。
「なに?せっかく花ちゃんが一生懸命話してくれてたのに。まあいい、言いたいことがあるなら、どうぞ」
そう言われて、余計な口を聞けるほど二人はあつかましくは無い。
「いや」
「いえ」
らしくなく言葉を濁して目線を逸らしてしまう。
不思議そうに二人を見比べていた花は、再び孟徳へとまっすぐに向き直る。
また、自分を説得にかかろうとしているのは、確かだ。
あくまでも、真っ直ぐに嘘も無く。
考える間は、あまり無さそうだ。
判断すべきなのは、本当かどうか。
配下ではないのに、孟徳にけして嘘を吐かなかった、もう一人。
玄徳が、孟徳の政策を認めているという言葉に、嘘は無いのだろう。
問題は、だ。
花の言う通り、孟徳が人を信じないから、玄徳が去っていったのだと言うのなら。
信じるといったなら、本当に信じるのだろうか。
まさか、そんなことが。
「失礼なことを言っているのは、重々承知しています。でも、これからのことを考えたら孟徳さんと玄徳さんが」
それでも、花の真っ直ぐな瞳を見ていると、誓いすら揺らぐ。
もしかしたら。
玄徳と、手を携えることが出来るかもしれない、と。
どうせ、駄目で元々なのだ、と不意に悟る。
この際だ、ずっとつっかかってきたことくらいは、すっきりさせてみようではないか。
誰も信じない、信じられないと決めた。
本当にそれが覆されようと、そうでなかろうと、今更だ。
「あのねぇ、花ちゃん」
やんわりと言った孟徳は、子供のようにその表情を不満でいっぱいなモノに変化させる。
「俺、とっても傷ついてるんだよね」
「え?」
話題が吹っ飛んだ気がしたのだろう、花は目を瞬かせる。
「前に、玄徳が俺のところにいたことがあるのは知ってる?」
「あ、はい」
いた以上のことを知っているのだろう。花は目を軽く泳がせる。
が、そんな花の様子にお構いなく、孟徳は続ける。
「黙って俺のところから離れちゃったんだよ。挨拶も無しにさ。酷いでしょ?」
もう一度、花は目を瞬かせる。
「え、あ、はい」
戸惑いつつも、嘘はなく彼女が頷いてくれたことに、気を良くする。
「ね、花ちゃんも、そう思うでしょ?俺、ホント、傷ついたんだよ」
うんうん、と腕を組んで深く頷く。
「だからね、そうだな」
にこり、と自然に笑みが浮かぶ。
「玄徳が、黙って離れたことについて、きちんと謝罪してくれたなら考えてもいいかな。花ちゃんに免じて」
「本当ですか!ありがとうございます!」
花は素直に満面の笑顔になって、深く深く頭を下げる。
ああ、この子は心底、玄徳を信じてるんだな、と他人事のように思いつつ、にこやかに手を振る。
早速、といった様子で花が背を向けるのを見送ってから、深く深くため息を吐いたのは元譲だ。
「孟徳、からかうような真似を」
「からかってなんかないよ、俺は本気で言ったんだよ」
そう、あの瞬間は本気だった。
花のまっすぐな視線にあてられた、とも言うかもしれないが。
肩をすくめてみせる孟徳に、文若が解せない、というのをありありとした表情を向ける。
「なぜ……」
「だって、あの子、嘘吐かなかったじゃない。玄徳はやり方以外のことは認めてくれてるってことでしょ?だったら、あの子の言う通り「仲良く」しといた方が、断然やりやすい」
現実的に考えるなら、そういうところが落としどころだろう。
だが、玄徳は、一筋縄ではないかない。
孟徳が嘘を完璧に見破るように、玄徳は信頼があるかどうかを完璧に見分けてみせる。
信頼してない、と思えば、また、今までのように距離を置くに違いない。
いや、それより、何より。
大事なことにやっと気付いて、急に不安になってくる。
「でもねぇ、玄徳はどう思うかな。俺と仲良くなんて、したいかな」
そもそも、玄徳にこちらと「仲良く」する意思がなければ意味が無い。
だが、すでに賽は投げられた。


〜fin.
2010.04.23 Alea jacta est.

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