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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 署名


「仲良く」することになって以来、孟徳はなにかと玄徳の執務室へとやってくる。
「どうせ、二人が決裁しなきゃいけない案件が多いんだしさ、こっちの方が早いじゃない」
という理論は、あながち間違っては無い。
自然、孔明や文若や、その他文武百官が足繁く出入りすることとなり、最近ではほとんどは玄徳の執務室でコトが決まると言っても過言では無い状態だ。
つらつらと状況を見るに、どうやら孟徳は花がやって来ることを期待しているらしい。
孔明のスパルタ教育のお陰か、最近はかなり読み書きも出来るようになり、孔明の秘書的な位置で色々と忙しくしているようだ。
今日も、彼女は軽い足音をさせて、執務室へとやってくる。
「失礼します」
律儀に頭を下げる花へと、孟徳はへにゃりと笑顔を向ける。
「やあ、花ちゃん。どうしたの?なんか用事?」
挨拶を忘れて、なにやら玄徳を見つめている花へと、孟徳は笑顔のまま問いかける。
「あ、俺じゃなくて玄徳かな?」
「いえ、お二人にです。文若さんから、昨日の件の書類が出来上がったので、署名をお願いします、と」
孟徳の言葉に、慌てたように玄徳から視線を戻した花は、手にしたモノを差し出す。
一生懸命に仕事をこなそうとする姿勢は、あの堅物の文若ですら感心するものであるらしく、最近は重要案件の決裁書類を手に、孔明と文若の間を取り持ち、こうして二人へ最終確認に来ることが多い。
「ああ、例の件ね。文若のことだから、手落ちは無いだろうけど」
受け取りながら、孟徳の表情はへにゃりとしたモノから、鋭いモノへと変わる。
「うん、間違いない。玄徳、どうだい?」
「ああ」
なんのてらいもなく花の手から書類を受け取り、仕事仕様へと切り替わる孟徳を、いくらか複雑そうな表情で見やっていた玄徳は、手渡された竹簡へと視線を落とす。
孟徳の言う通り、几帳面さが全面に現れた文若の書面は、完璧だ。付け加えられるか、考慮して欲しいと告げておいたことまで、きっちりとこなされている。
「問題ないな」
「じゃ、署名して上がりだ。花ちゃん、悪いけど、そこの筆取ってくれる?」
孟徳の顔は、もういつものへにゃりとしたモノだ。
「ちゃっちゃと書いちゃうから、そうしたら、また文若のとこ持ってってくれるかな」
花から筆を受け取りながら、孟徳が言う。
「はい、わかりました」
達筆の孟徳から筆を受け取って、玄徳はいくらかためいらいがちにソレを下ろす。
書きあがった署名を見て、孟徳が笑みを浮かべる。
「文字ってさ、人が出るよね」
「え?」
じっと見入っていたらしい花は、少し驚いたように視線を上げる。
玄徳も、いくらか困惑する。
「玄徳の字ってさ、誠実さが滲み出てると思わない?」
三十路に足をかけているとは思えない無邪気な仕草で首を傾げてみせられるが、花は動じた様子も無く、深く頷く。
「はい、そう思います」
しっかりと言ってから、はた、としたように付け加える。
「孟徳さんの字も、綺麗ですよね。お二人ともお上手なので羨ましいです」
「えー、もっと骨太の文字が書きたいんだよね、俺。でも、なかなか上手くいかなくてさ」
拗ねたように言うのに、花は困ったように首を傾げる。
「でも、私は自由に書くことが出来ないですから」
「かなり出来ていると思うが」
思わず口を挟んだ玄徳へと、孟徳と花の視線が向く。
「字も、綺麗だと思うぞ」
うっかりした、と思いつつ付け加える玄徳に、孟徳は口を尖らせてみせる。
「花ちゃんの書いたの、見たことあるんだ。いいなあ、いつか俺にも見せてね」
「そうですね……いつか」
なぜか、いくらか沈んだ調子で言うと、机上の書類を手にする。
「あの、そろそろ署名も乾いたみたいなので、文若さんに届けてきますね」
「うん、お疲れ様。今度はお茶でもしにきてね」
ひらひらと手を振る孟徳と、なんとなく言葉を飲み込んでしまった玄徳へと頭を下げ、花は執務室を後にする。
完全に、花の足音が遠ざかるだけの間を置いてから。
孟徳は、おもむろに振り返る。
「そろそろ、呼び寄せたのかい?」
「誰を」
呼び寄せる、で思い付いた名が一人しかおらず、玄徳の表情は自然と険しいものになる。
「尚香ちゃん、と言っといた方がいいのかな。ま、それっぽい物騒なお方だよ」
孟徳は、こういうところで歯に絹を着せるということをしない。というより、玄徳の前でヘタに作ることを完全放棄しているらしい。
目を細めて、じっと玄徳を見つめる。
玄徳とて、ある程度の数の細作は持っているし放ってもいる。孟徳が、それをしていない訳が無い。
更に勘はいいし、何より嘘をついても見抜かれる。
「……ああ。ケリをつけるいい機会だ」
「まあね。今動かなきゃ、刺客の意味が無い。でも、孫家もそこまで馬鹿かな?今更、玄徳討ったらどうなるかくらいは読めそうなものだけど」
もうすでに、孟徳と玄徳、そして孫家にもそれなりの地位が与えられることで安定を図る方向に進みつつある。無論、元々丞相の地位にあった孟徳と、献帝を奪還した玄徳とが突出することにはなるだろうが。
一段低くすえられることを面白くないと感じてはいるだろうが、ここで玄徳を暗殺すれば、矛先は全力で孫家へと向かうことになる。
「どう動くかまでは、俺には読めない」
「軍師殿はなんて言ってるの」
半ば無意識に、玄徳の眉が寄る。
「孔明は、動くだろう、と。それから、生け捕りにすることと決めた」
「じゃ、確実に動くな。手は打ってあるとは思うけど」
すう、と孟徳の目が細くなる。敵を目前にした時の、猛禽類の目だ。玄徳の言葉の後半を無視したのは故意に違いない。
「いいかい?君に何かあったら、俺がそいつをツブすからね」
「そう簡単に殺される予定は無いから、心配するな」
ほろ苦いくらいの苦笑を返す。
「諦めは、悪い方なんだ」
「うん、ならいいんだけど」
にっこり、と素直に笑顔になる孟徳に、玄徳は素直には返せないままに飲み込む。
本当に、諦めが悪くて始末に終えない。
花が、孟徳に「いつか」と言った時、困った顔をした理由に、気付いてしまった。
彼女は、そろそろ自分の世界へと帰ることを考えているのだ。
距離を置いたのは自分のくせに、笑って送り出してやると決めたのに。
「確かに」
不意に口を開いた孟徳に、沈みかけた思考が引き戻されていく。
「けじめをつける、いい機会だと思うよ。尚香ちゃんぽいヤツが来るっていうのはね」
にこやかな言葉に、玄徳はただ、あいまいに頷くしかない。


〜fin.
2010.04.12 Signature

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