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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 


玄徳が、頼まれた案件の書類と共に孔明の執務室の扉を開けると、文若と何やら話しこんでいる最中だ。
「お、すまん。取り込み中だったか」
「失礼いたしました、私は後で構いませんので」
身をひるがえそうとする文若を、軽く手を上げて止める。
「いや、俺がいても構わんのなら、待っているから、そのまま続けてくれ」
「ですが」
立場的には、玄徳は孔明の主君にあたるのだ、というのがありありとした文若の生真面目な表情に、玄徳は誰もがほっとする笑みを浮かべる。
「俺がいると邪魔だというなら、出直そう」
「隠し立てするような話ではないですよ」
孔明が、苦笑しながら後ろの衝立を見やる。
「では、花の手習いを見てやっていて下さいませんか?確認すると約束したのですが、どうも間が取れない」
「ああ、わかった」
どうも姿が見えないと思ったら、そこにいたのか、と玄徳は納得しつつ衝立の後ろへと回ってみる。
いつもなら笑顔で挨拶をしてくれる花は、玄徳が来たことに気付いていないようだ。
必死の形相で竹簡に向かっている。
成都にいる頃、すでにかなり字を覚えていたが、まだ完全とは言えない。
というより、孔明の手伝いをしようと思ったら、そこそこの出来程度では到底足りないのだろう。机上に置いてある数本に書かれている文字は、小難しいものばかりだ。
先祖に顔向け出来ないような人間になるな、と母が勉強に出してくれなかったら、庶民出身の玄徳とて読めたかどうか定かではない。
何とはなしに手にとってみるが、まだ花は気付いていない。
それほどまでに一生懸命なことに、微笑ましくなって我知らず口元を緩めながら、玄徳は竹簡を見てみる。
書かれているのは、玄徳が就いた新しい役職だ。
長安を落とし、許都から献帝を奪取したからこそ得られた地位。孔明や花、雲長や翼徳、ついてきてくれた皆のおかげで今、こうしていられるのだ、と思うと感慨深い。
それに、だ。
「合っているし、綺麗な字だ」
不意に身近で聞こえた声に、弾かれるように花が顔を上げる。
「え、あれ?!玄徳さん?」
孔明が時間を空けて来てくれたとでも思ったのだろう、笑顔で見下ろしている玄徳に、目を丸くする。
「ああ、孔明に花の手習いを見て欲しいと頼まれた」
「そうなんですか?す、すみません。玄徳さんも忙しいのに、ありがとうございます」
なにやら、ひどく顔を真っ赤にして頭を下げる。
先日の事件後、長い遠回りを終えて恋人同士という立場になったはずなのだが、まだまだ花は慣れていないらしい。
そういうところも可愛らしいと思ってしまうのだから、いい加減重症だ。
「ここにあるのを、見ていいのか?」
先ほど手にした竹簡の下にある山を、指差す。
「はい、お願いします」
真剣な表情だ。ここの世界で生きていくと決めたこともあって、余計に力が入っているらしい。
「力を入れすぎると、疲れるぞ」
言いながら、竹簡を手にする。
無理やり勉強させられていた頃は面倒としか思っていなかったが、こうして役立つなら良かったと思ってしまうあたり、人間とは現金なモノだ、と玄徳は内心で苦笑する。
一つ一つ、間違いが無いか視線で追っていく玄徳を、じっと花が見つめているのがわかる。
なんとなく照れくさく思いながら、最後まで見終えて。
「全部、合ってるな」
「本当ですか?」
緊張していた顔が、ぱっと笑顔になる。
やはり笑顔でいてくれるのがイチバンいい、と玄徳も笑顔を返す。
「ああ、花は字も上手だな」
言いながら、いつものようにふわふわとした花の髪を撫でたのだが。
途端に、花の表情が奇妙なものになる。
「花?」
だが、花は玄徳の声には答えず、不審そうな表情で自分の頭に乗ったままの大きな手を両手で取る。
ひどく、ひやりとしていることに、玄徳の方が驚く。
ぎゅ、と何かを確認するように握ったなり、彼女はぴょこん、と立ち上がって玄徳の側までやってくる。
「玄徳さん、かがんで下さい」
いきなり真剣な表情で言われて、なんとなく逆らえずに膝を軽く折る。
つ、と白い手が伸びてきて、額にあたる。
花の顔は、ぽかん、としたものになる。
「玄徳さん、熱があるじゃないですか」
言われた言葉に、玄徳は目を軽く見開く。確かに、微熱はある。
尚香のふりをしていた刺客に刺された傷が原因だろうし、躰は問題なく動くし、一週間も我慢していればどうにかなると踏んでいたので、そのまま放ってあった。
他人に気付かれない自信はあったし、実際、自分のことには敏感な雲長も孔明も気付いてはいなかった。
軽く頭を撫でた程度で、花が気付くとは。
そんなことをつい考えて、返事が一拍の間、遅れていると。
「なんですって?」
「熱がおありに?」
耳聡く孔明と文若が聞きつけて、気忙しげな顔を覗かせる。
「いや、あるといっても、ものすごく軽くだ。こうしていられるんだし、問題ない」
思っているままのことを、三人へと言ってみる。が、顔つきは誰も変わらない、どころか、余計に深刻なものになる。
「そんな風に無理しないで下さい」
「今や小城の主程度の立場ではないのですよ」
「一時の無理は、後に響きます」
三人から、一斉に説教を食らう。
困りつつも、抵抗を試みてみる。
「だが、休んでる暇など無いだろう。あと数日もすれば引くから、大丈夫だ」
「では、その数日はお休み下さい」
「それくらいの間、孔明殿と私とでどうにか出来ますから」
また、即時に返される。
「心配してくれるのはありがたいし、すまないと思うが」
一応、譲歩も試みてみる。
「そう思って下さるのでしたら」
「休むと言っていただきたい」
いつも飄々としている孔明の真剣顔と、眉間の皺を多大に増量させた文若とにせまられるのは、なかなかに迫力だ。
玄徳は、半歩ひきつつも大丈夫を繰り返そうとしたのだが。
きゅ、と手を握られたことに驚いて、花へと視線を落とす。
「お願いですから無理はしないで下さい。玄徳さんの傍にいるって決めたんですから、いなくなるようなことはしないで下さい」
真剣な瞳で言われてしまったら、さすがにもう逆らえない。
空いてる片手で、降参の仕草をしてみせる。
「わかった、熱が下がるまで休むことにするから」
ちら、と視線を見交わした孔明と文若は、疑い深そうな視線を寄越す。
「ちゃんと休む、大丈夫だ」
花に懇願されて、無視することなど出来るわけが無い。が、策を巡らすことが仕事の彼らの性なのかなんなのか、あっさりとは信用してもらえないらしい。
「休暇のことは、私から孟徳様にお伝えします」
さら、と文若に言われたことに、玄徳の顔がひきつる。
「え」
「昨今はいつも玄徳様のところに入り浸りなのですから、遅かれ早かれ知れることです」
「そうですね、言わない方が厄介だと思いますよ」
孔明の発言が妙に納得出来るから、更に厄介だ。
「わかった、では頼む」
「文若に頼みごとなんてしたら、後で仕事で返せって言われるよ?」
加わった声に、玄徳はそれこそ引きつった顔で振り返る。
「孟徳」
「うん、相談したいことがあって来たんだ」
へらり、といつもの笑みが浮かぶ。
「ごめんなさい、孟徳さん」
すまなそうに謝ったのは花だ。孟徳は、きょとん、として目を瞬かせる。
「どうしたの?あ、もしかして二人で出かけるところだった?」
実年齢にはそぐわない首の傾げ方をされて、玄徳はマズい、と察知する。
「いや、大丈夫だ。相談っていうのは?」
「いいえ、駄目です」
「先ほど、約束して下さったはずです」
両側から、孔明と文若に被せるように否定されてしまう。
「ホント、どうしちゃったの?」
孟徳は、もう一度目を瞬かせる。
「熱があるんです」
「熱?」
花の言葉に、孟徳は怪訝そうに問い返してから、おもむろに火傷の痕のある手を伸ばしてくる。
そして、みるみる不機嫌な顔つきになる。
「どうしたの、これ」
「いや、微熱だから」
「このあいだの怪我のせいなんです」
どうしても、自分のペースで話を進めさせてもらえないらしい。困惑気味に自分の隣を見やる。
「花」
孟徳は、ますます不機嫌な顔だ。
「文若、すぐに俺の侍医を連れてきてくれ」
「承知いたしました」
つ、と頭を下げると、文若は部屋を辞す。
孔明も、寝室を整えるよう伝えてくる、と部屋を後にする。
「玄徳、相談は後だよ」
「わかった」
「食事も考慮させないとな」
素直に頷くのを、どこか不満そうな顔で見やりつつ孟徳は言うと、彼も、部屋を後にする。
皆が去ったのを見送ってから。
そっと、袖を引かれて花を見やる。
その不安そうな表情に、本当に困ってしまう。
「すまん、返って心配をかけてしまって」
花のことだ、自分のせいで負った怪我で、などと思っているのだろう。
頭を撫でてやると、ぎゅう、と袖をつかむ手に力が入る。
「玄徳さん、私、ずっと傍にいますから。看病しますから、だから、無理しないで下さい」
「ああ、ちゃんと休むから。だから、そんな顔をしないでくれ」
そっと、額に額をあててやる。
「しかし、よく気付いたな。雲長も孔明も気付かなかったのに」
言うと、少しだけ花の頬が染まる。
本当に、その点は感心するしかない。立場上、表に現す訳にいかないことは山ほどあり、いつだって、ほぼ気付かれずにきた。
それを、ほんの少し触れただけでわかってしまうとは。
「だって、いつもより熱かったから」
「ほんの少し、だろう?」
「それでも、です」
隠し通すつもりが、結局のところ、こうして皆に多大な心配をかける羽目になってしまった訳だが。
「気付いたのが、花で嬉しかった」
花の頬が、ますます染まる。
「そんなこと言っても、誤魔化されませんよ」
「わかってる」
「ほんのちょこっとでも、こうやって気付きますからね、私」
頬を染めたまま、膨らませてみせるという器用な真似をしながら花が真剣に言うのに、玄徳は笑みを返す。
「ああ、もうこんな真似はしない」
言いながら抱きしめる。
「約束ですよ、玄徳さん」
そっと言う声に、切実な懇願が込められているのがわかるから、だから、心から返す。
「約束する」
小さく息を吐いた花の手が、そっと背中に回る。


〜fin.
2010.04.24 A fever

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