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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 再度


事実として提示されない限り、人は己に不都合なことを信じられないものだ。
ごく当たり前の現実に、文若は、今更気付く。
あの時、本当にほんの少しの可能性すら考えなかったのか、と問われたなら。
答えは、否、だ。
玄徳軍に長安を隘路から奇襲され、落とされた。
その事実だけで許は揺れた。
あの玄徳が、まさか。
周囲はそう言ったが、今の現実は、当然予測されるべき出来事だったのだ。
伏龍と呼ばれる孔明が玄徳軍に加わった、鳳雛と並び称される士元も取り立てられた、そして最初から伏龍の弟子がいる。
どこか頼りなく見えた少女は、それでもあの戦上手の元譲を破り、烏林で孟徳自身を破ったのだ。
益州攻略時には、涼州まで手を回してみせた。
もう、戦の度に逃げるしか手段が無かった頃の玄徳軍とは違う。
そして起こり得る可能性を考えたから、今、この現実がある。
告げなかった。
主である孟徳に、告げなかった。
許都ではなく、長安を奇襲したのは何故なのか。
長安を奇襲した玄徳軍を指揮する軍師が、孔明でも士元でもなく、花なのは何故なのか。
成都の留守を守るには、二人も軍師は必要無い。
奇襲というのは、相手に気付かれず接近する他に、少数で最大の効果を得ることが可能な作戦だ。現に、玄徳が率いたのは益州の兵のみだった。
荊州に残った兵が、ただ傍観し続ける訳が無い。
案の定、彼らは動いた。
それどころか、許都を簡単に抜き、目前にいる。
確かに、孟徳の懐刀とも言うべき元譲は、長安奪還に向けて出陣している。
だからといって、ここに名のある武将が残っていないという訳ではない。
かつて、本拠であった州を蹂躙された時、残されたたったの三城を、それでも最後まで守りきった。
己が戦下手だとは思わない。
その気になれば、本気になれば。
こんな事実を目にすることは、無かった。
絶対に、無かった。
まして、己が生きている状態で。
宮殿に、劉備軍の軍勢を見ることになるなど。
今、文若の目前には、数人の兵を引き連れた文官が立っている。兵たちに護衛するように囲まれているのは献帝だ。
兵たちは、名のある武将ではないものの、腕は立つだろう。油断無く、こちらを見つめている。
丸腰で立っている自分が、いくらか滑稽に思えてくる。
なぜ、こんなことになったのだろう。
どうして、こうなるまで自分は。
「孔明殿」
文若が、やっと出した声は、いくらか掠れていた。
目前の敵軍軍師は、にこり、と邪気の無い笑みを浮かべる。
「さすがは、と申し上げましょうか。初めまして、文若殿。諸葛孔明です」
礼儀に適った動作は、むしろ慇懃無礼とも取れる。が、皮肉、とは思わなかった。
いや、思えなかった。
「このようなこと、してのけられるのは貴方くらいしかおられまい」
「貴方にそう言っていただけるのは、大変に光栄です」
さらりと返して、笑みを深める。
「ご褒美代わりに、そこを通しては頂けませんか?」
ここを通せば。
孔明は、論見通り、献帝を連れて荊州へと戻ることになる。
さほど血を流すことなく、孟徳軍本拠である許都をここまで抜けてきたのは、呼応する人間が数多くいるからだ。
孟徳の専横が、譲位を迫るなど許し難いと思う人々が。
彼らは、つい先日まで、孟徳の暗殺を計画してきた。
漢王朝堅持は文若の隠すところ無い持論で、誰もが知るところだ。それゆえ、誘いまでかかっていた。
計画の詳細まで伝え聞いていた。
孟徳に、告げるべきか告げるまいか。
その決断をする前に、長安陥落の知らせが届き、孟徳は出征した。
あの日。
暗殺計画の件はともかく、長安陥落が何を意味するのか、告げることが出来たはずだ。
だが、しなかった。
献帝の存在が、玄徳側に移れば。
孟徳が、献帝に譲位を迫ることは無くなる。暗殺する、理由が無くなる。
それに、孟徳とて、少しは話を聞くようになるのではないか。
ただ、それだけの理由で。
自分は、この許都への浸入を許したのだ。
そして、この行為も、結局のところは孟徳への裏切りだと気付いてしまったから。
だから、こんなにも戸惑っている。
漢王朝堅持は、誰にも譲れない持論だ。
だが、それは孟徳を中心として。
それもまた、文若の中の真実だった。
なぜ、忘れていたのだろう。
だが、今更譲らぬと告げたところで、ただ己の命を失うだけだろう。
劉備軍は、目的を達する。
ああ、そうか。
それで、いい。
最後の最後は、孟徳の家臣として死ぬことが出来るのなら。
そうすれば、もう話を聞かぬ主君に悩むことも、己を王佐と呼びながら違う道を歩んでいくことに苦しむことも、無くなる。
小さく息を吸った、その瞬間。
腕を引かれ、強引に道を開かされる。
「な?!」
腕をつかんでいるのは、孔明だ。
「帝をお連れしなさい。準備は整えてあります」
「孔明殿」
抗議の声をあげ、腕をふりほどく間に、兵たちは歩き出してしまう。
「待」
「貴方が、どう動こうと、私たちの計画は成功でした」
孔明が、覆い被せるように口を開く。
「許都に残ったほとんどの将が、禅譲反対派だということは貴方がもっとも良くご存知のはず」
「そう、だな」
ぽつり、と返す。視線が、落ちる。
抵抗が無くなった、と思ったのだろう。孔明の腕が離れる。
そうだ、知っていた。
孟徳が出征する時から、こうなることを知っていた。
「ここで文若殿がおられなくなれば」
こちらの思考を読んだかのように、孔明が続ける。
「許都は血にまみれましょう」
「な、に?」
思わず、目を見開く。
相変わらず、孔明は笑みを浮かべたままだ。
「文若殿が、わかっておられぬはずがない。反対派の者たちは、もうすでに孟徳殿をいらぬモノと判断している。違いますか?」
いやしくも参謀を担う者が、情報を得ることに疎いはずがない。とうに、暗殺計画の存在程度は知れているのだろう。
だが、肯定も出来ずに、ただ孔明を見つめる。
「献帝がおられぬならば、孟徳殿は丞相とは認められない。となれば」
「専横した逆臣、と」
口にして、思わず片手で覆う。
だが、長安に出征している孟徳直属軍は、それを認めたりはすまい。
孔明の言う通り、許都は血に濡れることになる。
「少なくとも我が君と私は、それを望んでおりません。出来うることなら、孟徳殿とも協力していきたい」
「だが」
孟徳のことを、逆臣と声高に呼んではばからなかったのは他ならぬ玄徳だ。
「やり方が、です。ただ一人で権力を握ることが問題だったのです」
まっすぐな瞳が、文若を射抜くように見つめる。
「孟徳殿は、漢王朝に必要な方だ」
すぐに頷き返すことが出来るような内容ではない。
文若は、孔明を見つめ返す。
「劉玄徳は、信義の人です。私は我が君の代理で参りました」
誰よりも、信義を重んじる。裏切った者でさえ、受け入れる懐の大きい男。
玄徳への人物評だ。
誰もが、口を揃える。
裏切られない限り、裏切らない。
人を信じることに、躊躇いが無い。
孟徳と、正反対の。
思わず、文若は瞼を落とす。
「玄徳殿は、そういう方でしたね」
「ですから、貴方が必要なのです」
皮肉な笑みが、浮かぶ。
「私は、裏切ったのですよ?」
「いいえ、違います。正しい道を歩んでもらう為に諌めているのです」
きっぱりと否定してみせた孔明は、言葉を継ぐ。
「専横が過ぎたが為に、暗殺計画まで出来ていた。それを防ぐには、献帝を譲るしか無かった。出直して、改めて理想の国造りを始めるのです」
真剣な瞳が、少し剣呑なモノになる。
「文若殿、昨今、本気を出しておられぬのでは?」
「な?」
つい、眉間の皺を深める。
「孟徳殿を主と定め、漢王朝を戴くことをのぞんでおられる貴方なら、血を流すことなく収めることなど、そう難しくは無いはずです」
孔明が、少しだけ身を乗り出す。
「それとも、お逃げになるおつもりですか」
返す言葉など、あるわけがない。
そうだ、ここで抵抗して切られたいというのは。
ただ、孟徳に理解されないことが苦しくて溜らず、もう終わりにしたいという、自身のわがままだ。
理想の国造りをする手助けをして欲しい、と、孟徳はかつて言った。
ずれきってしまって、修正不可能だと思っていたのに、機会は訪れた。
終わりにするのは、もう一度足掻いてからでも、遅くは無い。
大きく、息を吐く。
「孔明殿のおっしゃることは、よくわかりました」
まっすぐに見つめ返す。
「長安に参るよう勅命が下る日までに、許都を収めます。孟徳殿は、必ずお伺いいたします」
「長安でお会いする日を、楽しみにしております」
鮮やかな笑みを浮かべると、孔明は背を向ける。
その姿が消えるのを待たず、文若も歩き出す。
「急使を出せ」
張りのある声が、矢継ぎ早に指示を飛ばし始める。


〜fin.
2010.05.09 Once again

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