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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 


せわしない足音は、彼女のモノだ。
竹簡から目を放さないままに、文若は思う。
なぜだろう、漢の最も重鎮である人物の奥方となる立場の人間のモノであるのに、一向に腹が立たないのは。
一方で、今や共に仕事をする相方とも言うべき相手の弟子だからだろうか。
いや、どちらでもない、と文若は内心で諸手を上げる。
彼女だからだ。
花、という存在だからだ。
主君曹孟徳と、永遠の敵であるはずだった劉玄徳を和解させ、無理だと諦めきっていた漢を復興させる道を開いた少女の足音だからだ。
奇跡をもたらした少女が、今更どんな足音を立てようと、文若が小言を言える立場ではない。
それも違う。
他の周囲が望むよう、文若も彼女らしくあって欲しいと望むのだ。
いつだって心優しい少女の訪ないを、堅物として通っている文若ですらが楽しみにしている。
花が浮き立った足音になる用件とは、なんだろう?と。
扉が開くと同時に視線を上げた文若へと、満面の笑顔が振り向けられる。
「こんにちは、文若さん」
「ああ」
無愛想に返したのに、花は笑顔のまま続ける。
「玄徳さんと師匠から預かった書類、ここに置きますね」
「急ぎはあるか?」
「無いです。あ、でも玄徳さんから伝言があります」
姿勢を正した文若に、花は笑顔のまま告げる。
「直に相談したい案件が一つあるので、お伺いしても良いですか、と」
「それならば、私が伺おう」
生真面目に返し、筆を置こうとした文若を、花は手と言葉で制する。
「あ、違うんです」
「違う?」
謎な言葉に、文若は軽く目を見開く。
「ええとですね」
どう話したものか、というように首を傾げてから、おずおずと口を開く。
「この前、お部屋の話になったんです。置いてある物とか、雰囲気とか、性格が出ますよねって」
言葉は幼いが、言いたいことはなんとなく理解する。
調度やら設えには、どうしても好みがにじみ出る。例え、執務に使う部屋であっても、だ。
「ふむ」
文若が頷くと、花は少し安心したように続ける。
「で、文若さんのお部屋はとても落ち着きますって玄徳さんに言ったんです。だから、一度来てみたいんだと思います」
「落ち着く?私の部屋が?」
思わず、訊き返してしまう。
我ながら、殺風景な部屋だと思うのに。
孟徳の部屋は豪奢な物が多いが、あざとくは無い。玄徳のは必要最低限で立場に相応しいようにしてあるが、どこか安らぐ雰囲気のある部屋だ。
孔明の部屋には、旅で集めたという変わった物が効果的に配置されていて、興味深い。
花がよく回るであろうそれらと比べ、この部屋には、あまりに何も無い。基本的に、必要なものしか置いていないからだ。
部下たる文官たちが、あそこの部屋に行くと仕事しかすることが無い、と陰口を叩いていることも知っている。
だが、花は笑顔のまま大きく頷く。
「はい、じっくりと腰を落ち着けたくなる素敵なお部屋だと思います」
「そう、玄徳様に言ったのか?」
困惑したまま、更に尋ねる。
答えは、当然のように。
「はい、そういう訳なので、いいでしょうか?」
懇願するようにに首を傾げられてしまうと、文若も弱い。
「ああ、ご満足いただけるとは到底思い難いが、玄徳様が望まれるなら」
「ありがとうございます!」
自分のことのように喜ぶ笑顔を見せられてしまっては、もう苦笑を返すくらいしか出来ない。
はずんだ足音が去っていくのを聞きながら、さて、どうすべきか、と首を傾げる。
殺風景は仕方ないが、わざわざこちらまで来るというのをぞんざいに扱う訳にもいくまい。
出来る手配をしてから、また竹簡へと戻る。
ややの間の後。
花の予告通り、己の主君より踏みしめるような足音が近付いてくる。
扉の前で止まると、丁寧に訪ないを告げて入室の許可を待つあたりは、本当にらしいと思う。
「どうぞ、お入り下さい」
返すと、誰もが心惹かれるのがわかる、人好きのする笑みが向けられる。
「邪魔をする」
「いえ、ご用件があると伺いましたが?」
「ああ、たいした事ではなくてすまんが」
たずさえて来た竹簡を、玄徳は丁寧に差し出してくる。
こちらに見やすくしてくるあたりが、らしい、と思う。
「内容を確認していて、一点、気になったことがあってな」
「問題がありましたか?」
「いや、問題というほどではない。だが、もしかしたら、もっと良くなるかもしれない。この内容なら、文若殿がが一番知っているだろう」
玄徳の見込みは、間違っていない。確かに、文若が得意とする内容だ。
相応しい人間だと目したら、まっすぐに信頼を向けてくれるのは玄徳にとっては当然なのだろう。ならば、その信頼に応えるまでだ。
真剣に竹簡に向き直りつつ、玄徳の話を聴く。
なるほど、確かに玄徳の言うことには一理ある。が、それだけでは少し足りない。
「何点か、確認させていただいてよろしいですか?」
「もちろんだ」
頷き返す玄徳に、質問を重ねながら、己の思うところを述べていく。
確かに、孟徳のようにすばやい回転は無いかもしれない。だが、民の視線と心の理解という点では、間違いなく玄徳が群を抜いている。
そうでなくては、こんな発想は出てこないだろう。
だからこそ、最上の形にしたいと思う。
諦めるしかないのだ、と。死をもってしか、軋轢から逃れる方法は無いと思っていた。
そうではない現実が、今、ここにある。
理想としてきた何もかもを、事実に出来る可能性を手にしているのだ。想定以上の環境で。
ひどく多弁になっていた、と気付いたのは、ややしてからだ。
「あ、これは。私の意見ばかりを申し述べてしまいまして」
「いや、やはり文若殿に相談に来て良かったよ。あれだけの話で、ここまで具体的に考えてもらえるとはな」
屈託の無い笑みを返され、いくらか目を見開いてから。
ごく、自然と表情が緩むのを、感じる。
玄徳という人間は、堅物としか評されない文若ですら、どこか緩ませる。しかも、それは嫌な感覚ではない。
「左様でございますか?このような形でよろしいようでしたら、まとめて後でお持ちいたします」
「そうだな、ここまでにしてもらったんだ。文面にしてもらっておいた方がいいだろう、仕事を増やして済まないが、よろしく頼む」
自然な動作で頭を下げる玄徳を制しつつ、文若は頷き返す。
「私の仕事ですから、お気になさらず」
「そう言ってもらえると、ありがたいな。さて、これ以上邪魔しても申し訳ない」
と、動こうとしたのを、どう制したのか文若自身もわからない。
だが、止めていた。
「もしよろしければ、茶でもいかがでしょう?」
玄徳は、いくらか驚いた顔をする。
が、すぐに、笑み崩れる。
「文若殿のお茶を、俺に?それは嬉しいな。是非、と言ってもいいだろうか」
まさか、満面の笑みを返されるとは思わず、文若の方がむしろ目を見開いてしまう。
「そのように、期待していただくに値するかはわかりませんが」
いくらか面映くなりながら返すが、玄徳の笑みは相変わらずだ。
「恥ずかしながら言ってしまうと、これを期待していたんだ」
「私の、茶をですか?」
「ああ、孔明も花も、口を極めるのでな」
どのように評されているのやら、と文若はなにやら恐縮の思いを抱く。
だが、確かに玄徳の部屋で供されるお茶は花が淹れるばかりで、自分は手を動かしたことが無いかもしれない。
なんせ、皆との議論に忙しく、そんな暇は全く無いので。
「玄徳様のご期待に応えられるとは思えませんが」
返しながら、準備を始める。
もしかしたら、程度での準備だったが、待っていてもらったとなればひそやかに力も入る。
茶器を運んできたところで、扉向こうに気配がやってくる。
「我が君、やはりここにおられましたか」
遠慮なく顔を出したのは孔明だ。弟子たる花も一緒だ。
すぐに、笑みを浮かべる。
「おや、お茶にされるところでしたか?」
「師匠、狙ってましたよね?」
花が困ったように言うが、孔明はどこ吹く風といった表情だ。
「まさか、そんな。我が君と文若殿に用件があったから来ただけさ」
「もう、でも、確かに文若さんのお茶はとっても美味しいですけど」
などとやり取りしている後ろから、さらにもう一人だ。
「玄徳、ここにいたのか、探したよー」
間違い無く、漢で最も切れ者の男とは思えないのんびりした声は、文若の主君たる孟徳のモノだ。
「ああ、すまん。文若殿がお茶を淹れてくれるというので、つい」
「え、文若が?」
いくらか細まった目と、視線が合う。
「まさか、皆の分が無いなんて言わないよね?」
「ございます、問題ありません」
返しながら、文若はなるほど、と思う。
この殺風景な部屋ですら、訪なう人によって、落ち着くモノと変じるのだろう。
丁寧に茶器を動かしながら、密やかに文若は微笑む。
玄徳と彼を慕う皆が集っているこの部屋は、柔らかに華やいだ彩だと確信出来るから。


〜fin.
2010.08.28 Color

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