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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 


本の空白は埋まったのに、文若が自殺した、という一文が消えない。
最近、花の頭の中はそのことでいっぱいだ。
文若は文若で、なにか考えることがあるらしく、いつもより一層眉間の皺が増えているし、口数も少ない。
執務室に落ちるのは、沈黙だ。
文若と孟徳の溝が日々深まっていくばかりらしいのは、知っている。
そのことに、文若が酷く悩んでいることも。
何か大きい音を立てたら、ぴん、と張り詰めた何かが切れてしまうような緊張感。
唯一、微かに緩むのはお茶を淹れる時間だけだ。
今日も、少しだけ、と休憩時間になる。
いつも文若を気にかけている料理人が、特にと用意してくれた茶葉で、お茶を淹れる。
比較的ゆっくりと香りを楽しんでいた文若が、ぽつり、と口を開く。
「休暇を取るといい」
「え?」
花は、目を瞬かせる。
「最近、とみに忙しかったからな。お前も良く働いているし、休みを取るといい。明日にでも」
相変わらずの四角四面の口調だが、どこか優しさが含まれていると思うのは、花の気のせいだろうか。
その視線に、痛みがあると思うのも。
「でも、文若さん」
文若さんはどうするんですか、と訊きたかったのに、あっさりと声を被せられる。
「一日程度、一人でどうにかなる」
だから、と文若が続ける。
「お前は、休みを取りなさい」
それは、有無を言わさない口調で、花はただ、頷くしかない。

なぜ、突然、休暇などと言い出したのか。
どうしても花には納得がいかず、むしろ落ち着かない。
休暇と言われたからには、下手に手伝いなどに行かない方がいいのだろう。そう思うのに、気になって仕方が無い。
どうしよう、どうしよう。
ぐるぐると何度も考えて、あ、と思う。
いつも、文若のことを気にかけている料理人に頼めば、茶葉をもらえるだろう。
休憩をしませんか、と言うくらいなら、眉間の皺が数本増える程度で済むかもしれない。
思い立ったらいてもたってもいられず、すぐに厨房へと向かう。
「ああ、お嬢ちゃん。今日はどうしたんだい?文若さん、なにかあったのかねぇ?」
いきなり不安気に問いかけられて、花は目を見開く。
「文若さんが、どうかしたんですか?」
「いや、いつもなら必ずお嬢ちゃんが来るし、お茶をご所望されるのにね、今日は白湯が欲しいとおっしゃるから。しかもご自身でいらっしゃったしね」
胸騒ぎがする。
花は首を横に振る。
「私、文若さんのところに行ってきます!」
「頼むよ、お嬢ちゃん」
料理人の声を背に、花は走り出す。
必死で、文若の執務室へと走るが、いかんせん丞相府は広い。ましてや、高官である文若の執務室と厨房の距離といったら、だ。
やっと、執務室が見えてきた、と思った瞬間。
かしゃん、と何かが割れる音。
音がしたのは文若の執務室と気付いた途端、足はもっと早くなる。
もつれるようになりながら、駆けて、おとないを告げることなく扉を開け放って。
目に入ったのは、赤。
赤い花弁が、床に散っている。
いや、違う。
これは。
認識する前に、ごぼ、という鈍い音がする。
視線を上げると、机に手をかけ、膝をつく文若の姿がある。
その唇の端から伝うのは、床に落ちているのと同じ赤だ。
「文若さん!」
絶叫に近い花の声に、真っ青を通り越して白くなった文若の顔が動く。
驚愕に、目が見開かれる。
「……は……な?」
掠れたそれは、ほとんど音にならない。
床に散った陶器も、血も気にせず花は膝をついて文若を助け起こす。
「文若さん!何が起こったんですか?!何を飲んだんですか?!」
文若は、力なく首を横に振るばかりだ。
白湯で飲むもの。文若の口から溢れる赤。
答えはヒトツ。毒をあおったのだ。
花は、我に返って立ち上がろうとする。
「いま、お医者さんを!」
その瞬間。
ぐ、とどこに残っていたのだと、思われるような力で腕を掴まれる。
「……い、い」
「え?」
文若は、意識しないと力が抜けそうになる手で、花の腕を掴んだまま離そうとしない。
「も……い、い」
いいなんてこと、あるわけがない。
文若を助けたくて、自殺なんてさせたくなくて、この世界に留まり続けていたのに。
「ダメです!こんなの、文若さん、ダメです!」
必死に叫ぶ花の声が届いているのかいないのか。
「か、え、なさ、い」
その言葉が、どれだけ必死に綴られたものなのか、その顔色を見ていればわかる。
「も、と」
最後まで綴ることが出来ず、ごぼ、と嫌な音がして、また文若の口から赤が溢れ出す。
「文若さん、文若さん!」
ふ、と合わなくなった視線に、花は必死で名を呼ぶことしか出来ない。
視界が滲んで、どうしようもない。
必死の声に引き戻されたかのように、文若の視点が一瞬、花の目に合う。
「……な……」
ふらり、と白い大きな手が、花の頬を掠める。
最初に溢れた赤を拾ったのか、その手のひらは染まっていたけれど、花には関係ない。
必死の思いで、その手を掴む。
温度を、無くしていく手を。
「文若さん、嫌です!お願いです!」
酷く困ったような顔。
だが、力を失って、腕を掴んでいた手は落ちる。
「文若さん!」
視点が、合って無い。
体温が、消えていく。
「文若さんッ!」
花が掴んでいる手の指先が、微かに動く。
「……………」
もう、口さえまともには動かない。
「文若さん!文若さん!」
もう一度、指先が動く。
「は、な」
その掠れた一言だけが、やけにはっきりと聞こえて。
す、と瞳から色が消える。
瞼が落ちる。
花の小さな手に包まれていた大きな手が、ずるり、と外れる。
「……ッ!」
もう、花の呼ぶ声も、言葉にはならない。
赤の中、慟哭の声だけが響き続ける。


〜fin.
2010.04.20 Poison

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