[  ]


幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 包まれる


いつもよりも、ずっと早く目覚めたことは、窓から差し込む日の高さでわかる。
まだ仕事へと向かうどころか、朝餉にもずいぶんと間があるはずだ。が、このままもう一度寝てしまうのはもったいない気がして、花は身支度を整える。
それから、そっと扉を開く。
なにか、柔らかに。
そっと、香っているのだ。
ゆっくりと、あたりを見回してみる。
が、香りがしそうなモノは見当たらない。
知っている香りのような気がするのだが、あまりに微かで、判別がつかない。
きっと、少し離れた場所なのだろう。
花は、背伸びをしてみる。
が、当然、その程度では香りの正体はわかりはしない。
一人で出歩くな、とは文若から強く言われているのだが。
好奇心には、どうにも勝てそうに無い。
「ごめんなさい」
ここにはいない人に、そっと謝ると、足を踏み出して庭へと降りる。
周囲を見回しながら、ゆっくりと歩いてみる。
まだ、日が昇りきっていない庭は、少し幻想的な色だ。
まるで、幼い頃に読んだ絵本の中に迷い込んだような。
そう思ったら、なんだか楽しくなってくる。
香りのする宝物は、どこ?
しっとりと朝露に濡れた小道を、花は軽く弾んだ足取りで歩いていく。
柔らかな若芽の小枝を避け、小さく花開いた草を見つけて、思わず微笑んで。
少しずつ、少しずつ。
花を誘った香りが、強くなっていく。
そして。
「あ」
思わず、声を上げる。
白い花が、いっぱいいっぱいに咲いている木々。
「すごい!」
香りの正体は、この花だったのだ。
そして、むせ返るような香りに包まれて、初めて気付く。
「これって、もしかして」
小さく呟いたところで、木々の向こうに数人の人影があることに気付く。
「おはようございます」
声をかけてみると、向こうの人々も口々に挨拶を返してくれる。中で、少々恰幅のいい男が、目を軽く見開く。
「おや、お嬢ちゃん」
いつも、文若のことを気遣ってくれている料理人だ。
ちょうどいい、と花は近付く。
「この花ってもしかして、お茶の?」
「そうそう、茉莉花って言うんだよ。こうして摘んで乾かして、お茶と一緒にするのさ」
「茉莉花って言うんですか」
文若の好きな茶が、どうやって作られるかを知って、花の顔には笑みが浮かぶ。
探し物は、文若の好きな花茶の香りだった。
まさに、宝物だ。
もうしばらく香りに包まれていたくて、でもただ眺めているのでは申し訳ない、と言葉を継ぐ。
「あの、お手伝いさせてもらってもいいですか?」
「そりゃ、私らは助かるけどねぇ」
「じゃあ、ぜひ」
すると、一緒にいた下使いらしい者が、小さな籠を貸してくれる。料理人に摘み方を教えてもらって、早速に摘み始める。
花弁を手にする度、ふわり、ふわり、と香りがかすめる。
この花弁が、やがて文若が柔らかに微笑むお茶になるのだ、と思うと、自然と笑みがこぼれてくる。

やがて日もだいぶ昇った頃。
朝餉も届く頃だから、と料理人に声をかけられて花弁摘みを終えた花は、茉莉花の枝をかんざしにともらった。
足取り軽く、来た道を戻っていくと。
「花?」
いくらか気忙しげな、聞き慣れた声に視線を上げると。
「文若さん?」
「早くにお前が起きたようだ、と使用人が言うので、朝餉を共にと思ったのだが」
きっと、花がいないことに気付いて、探しに来てくれたのに違いない。
「ごめんなさい。いい香りがしたので、何なのか気になって。そうしたら、文若さんの好きな花茶に使うのだったんです」
首をすくめつつも、手にした枝を差し出してみる。
「嬉しくって、つい。お花摘みを、お手伝いしたら花かんざしにって。この間あつらえていただいた着物に似合いそうかなって思うんですけど」
今にも小言を始めそうな顔つきだった文若の表情は、ぽかん、としたものになり、どこか困ったようなものに変わっていって。
そして。
「?!」
抱きしめられた、と気付いたのは次の瞬間だ。
「確かに、私の好きな香りだ」
耳元で低く言われて、どきり、とする。
「あ、あの」
「お前から、私の好きな香りがする」
花弁を摘んでいる間に、あのむせ返るほどの香りが移ったらしい。ではなく、いや、この状況は。
とてつもなく恥ずかしいというか、照れるというか。
間違いなく、今、全身が真っ赤だ。
「これ以上、好きにさせてどうする気だ?」
耳元でささやくのは反則だ、と思う。何も考えられなくなりそうだ。
でも、大事なことは伝えたい。言わなければ伝わらないこともあると、知っているから。
「そ、それは、おあいこだと思います」
「おあいこ?」
抱きしめる力をやっと緩めてもらい、合った視線の先には不可思議そうな文若の顔。
答えを言わなければ、諦めないのは知っている。
だから、勇気を振り絞って、そっと言う。
「そんなこと言われたら、私も、もっともっと文若さんのことが好きになってしまうからです」
ささやくような声の応えは、優しく降るような口付けだ。


〜fin.
2010.05.03 Wrapped in the fragrance

[  ]