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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 擬似などではなく


叶を隣に預けてきた、と告げた玄徳は心配そうに花の顔を覗き込んでいる。
それだけではなく、その大きな手を額に乗せて眉を寄せる。
「かなり、熱いな」
ここ一月ほど、とある街に滞在している。
日銭と路銀を稼ぐ為に玄徳が用心棒としての仕事を請け負っている間に、花は叶の面倒を見るだけではダメだ、と決心したまでは、良かった。
多分、としか、今の花には思えないのだけれど。
ともかくも、決意を胸に、隣の奥さんに針仕事を教えてもらい始めたのだ。それなら、叶の世話をしながら家で日銭を稼ぐ手伝いを出来る。
そこまでいかなくとも、自分たちの着物を花がつくろえたら、玄徳の負担を少しだけでも減らすことが出来る。
必死で花は練習した。
少しでも早く上手になりなたくて、少しでも早く玄徳の役に立ちたくて。
なのに、結果はどうだろう。
縫い物が身につくどころか、体調を崩してこの始末だ。
熱があるのが、自分でもよくわかる。
叶から目を離さないくらいしか、出来ることは無いのに。今は、それさえも出来ない。
それどころか、玄徳の仕事を、途中で切り上げてさせてしまった。
邪魔したどころではない。
「ごめんなさい」
花に言えるのは、その一言だけだ。
言っても、何にもならないのだけれど。
「なんで謝るんだ。謝るのはこちらの方だ、無理をさせ過ぎたな、すまない」
困ったような笑顔に、花は必死で首を横に振る。
「違います、玄徳さんは、悪くないんです。私が、何にも出来ないから、迷惑ばかりで」
そう、玄徳は、通常の覚悟では済まないのだ、と言ってくれていた。
あの時。
唯一の漢室の跡継ぎの赤ん坊を助け出したのだと知った時。
皇帝になれるのはこの子だけだからと、小さな赤ん坊を自分の意思なく皇帝にするなんて、野望に満ちた大人たちに利用されるだけの人生なんて酷すぎると思った。
だから、自分たちで守りたい。
花の言葉に、玄徳は、すぐには頷かなかった。
様々なことを、しつこいくらいに確認してきた。
この世界で庶民として暮らすことがどれほどに大変なことなのか。
ましてや皇帝ということがバレたりしないよう、玉璽を手にしていることが知られないよう、逃げ続けなくてはならないというのが、どういう意味なのか。
噛んで含めるように話し続けた。
花が内心で、子供扱いだ、と唇を尖らせたくらいに。
それでも、花の意思は揺らがなかった。
この小さい子を守りたい。
その一心で、一歩も譲らなかった。
玄徳は、やがて頷いた。
元々、彼自身、献帝を傀儡のままにし続けていることに自責があったのもあるだろう。
「わかった、俺たち二人で陛下をお守りしよう」
あの言葉と共に、玄徳がどれほどの覚悟をしたのかなんて、花にはちっともわかっていなかったのだ。
そのことを、花は、ほどなくして嫌というほどに思い知らされた。
この世界で庶民として生きていくことが、どれほど困難か、全く理解していなかった。
あの時、玄徳の確認したことは、控えめなくらいだった。
玄徳に守られていなかったら、何度死んでいたことか、と思う。
いや、生活そのものが出来ていなかった、と言い切れる。
赤ん坊の世話のことだけでなく、旅のことも日常のことも、玄徳の助けなしで出来ることが何一つない。
それはもちろん、今も含めて。
「玄徳さんは、ちゃんと言ってくれました。教えてくれました。わかっていなかったのは、私なんです」
言い募る花の額に、ひんやりとした手が乗る。
「花、それは違う。別の世界から来たお前に、言葉だけで全部伝わるはずがない。それを知っていて、俺はお前を巻き込んで、陛下をお守りする道を選んだ。だから悪いのは俺だ。お前は気にしなくていい」
相変わらず、困惑の顔のままで玄徳が返す。
労わるように、大きな手がそっと頬に触れる。
「だから、泣くな」
いつの間にか、頬を涙が伝っていたことに、その言葉で気付く。
なんて弱いんだろう、とますます悲しくなる。玄徳に謝ってもらうことなんて、何も無いのに。
「ごめ、なさい。お仕事、邪魔しちゃって。この間も、守ってもらって、それから」
「言ったろう?俺の我がままに付き合ってもらってるんだ、お前を守るのは、当然のことだ」
被せるように言われ、花はまた、首を横に振る。なんて優しい人なんだろう。
花のことを責めていいはずなのに。
赤ん坊を二人で守ろう、と言い出したのは花の方なのだから。玄徳の言う通りにしていたら、こんな苦労をさせるはずはなかった。
「でも、でも」
怒ってくれた方が、いっそ楽だと思う。なんて愚かな子供なんだ、と。
玄徳は、旅が始まってからも、ずっと優しかった。
何も知らない花に、一つ一つ丁寧に必要なことを教えてくれた。
その優しさが、返って今は辛い。
しゃくりあげ続ける花を、玄徳は心底困った顔で見つめる。
「花、俺は」
親指で、伝う涙をすくいながら、玄徳が言う。
「こうして、お前と叶との三人で旅を出来て幸せなんだ。普通の家庭というものを持つというのはどういうものか、と思っていたからな」
いくらか驚いて、花は瞬きをする。
玄徳が、普通の家庭に憧れるなんて。
でも、すぐに気付く。これは、弱っている花を元気付ける為の、玄徳の優しい嘘だ。
「玄徳さん、嘘なんて吐かないで下さい」
花に返されて、今度は玄徳が瞬きをする。
「だって、玄徳さん、困っている人を見たら放ってはおけないでしょう?いつかは、絶対に同じこと、していたはずです」
玄徳は、困った笑顔になる。
「確かに、そうだな」
あっさりと頷くのは、彼らしい潔さだ。親指は、もう一度涙をすくう。
「だから、こうして陛下をお守りするという理由でもない限り、俺は普通の家族というものを経験することは無かっただろう。仕事から帰った時に、待っててくれる家族がいるということがどれほど暖かいか、俺は知らずにいた」
「雲長さんや、翼徳さんがいるじゃないですか」
「そうだな。皆、俺の家族みたいなものだ。大事だという気持ちに嘘は無いし、命を賭すというのも本当だ」
懐かしい名に、玄徳の顔は主君としてのものに、一瞬、戻る。
が、すぐに柔らかい笑みになる。
「だが、妻と子が待っていてくれるという温かさは、全く別のものだ」
「そういうことに、してる、だけ、ですよね」
これ以上の優しい嘘に耐えられそうになく、花は眉を寄せる。
玄徳の表情も、また困ってしまったモノになる。
でも、こんな優しい嘘は辛い。かつての自分の愚かさを思い出してしまうから。
ああ、そうだ。
今のこの状況は、生死に関わる決断を、少しでも浮かれてしてしまったことへの罰だと思う。
自分を責め続けるのは、一つ、とても後暗い理由があるからだ。
「わ、私、謝らなきゃいけないんです」
何を言い出したのか、というように玄徳は首を傾げる。
花は、大きく息を吸う。
もう、玄徳が優しい嘘を吐かなくてもいいように、言わなくては。
「叶を守るって決めた時、玄徳さんに、俺の妻ということになるんだぞって言われて、私、嬉しかったんです。何も出来ない私を信じてくれて、優しくて、かっこよくて、誰にでも好かれる玄徳さんの奥さんになれるんだって。嘘でも、嬉しかったんです。こんなことでもなかったら、私、絶対に玄徳さんと一緒だなんて、無いはずだから、だから」
なのに、玄徳の言葉があまりに優しくて、辛くて。
もう、隠してはおけない。
玄徳が、目を見開いている。
やっぱり、迷惑なんだ、と花は思う。
当然だ、こんな迷惑をかけてばかりの子供に、こんなことを言われて。
ややしてから、玄徳はそっと、また、涙をすくう。
「お前には、迷惑になるだろうと言わずにいるつもりだったんだが」
まっすぐに、見つめられる。
「俺は、花と叶のことを、本当の妻と子だと思ってる。大事なんだ」
花は、二度、三度、瞬きをする。
「もちろん、叶を陛下だということを、忘れたことも無いが」
照れたように、早口に付け加えられる。
何も言えないままでいる花に、また、困ったような視線が向けられる。
「こんなことに巻き込まれなければ、元の世界に戻って、大事な人を見つけて幸せになっているはずのお前に、こんなことを言うのは酷いよな」
そっと、もう一度、頬を撫でられる。
「だが、あんなことを言われてしまったら」
更に、もう一度。
「嘘じゃなくて、本当の家族になりたいんだ。花、お前と」
「ほん、とうに?」
玄徳が、苦笑を浮かべる。
「こんな嘘はつけない」
そうだ、玄徳は、そういう人間だ。
玄徳だから、叶を二人で守りたいと思ったのだ。
さら、と前髪が撫でられる。
「花、好きだ」
「わ、たしもです。玄徳さんのことが、大好きです」
胸が詰まって、また涙があふれる。
「もう、泣くな」
また、親指が動く。
「うれしくて」
しゃくりあげながら言うと、そうか、と微かな声が返る。そっと、優しく頬を撫で続けられる。
少しずつ、落ち着いてくるのがわかる。
暖かい、とても大事な手。
いつも、花を守ってくれる手だ。
「玄徳さん」
「ん?」
優しい笑顔。
「ありがとうございます」
微笑んだ花の唇に、優しい温もりが降ってくる。


〜fin.
2010.05.16 They become a real family.

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