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幻旅路ノ果テニガ住マウトハ言ウ

 学習と応用


まさか、そう動くとは思わなかったな、とは、後の孔明の弁だ。
正直に言えば、文若自身もこういう展開が待っているとは思いも寄らなかったので、正直、瞠目するより他無い。
自分自身の感情の動きという点においては、特に、だ。
許都に乗り込んできた花が献帝の手を取っているのを見た時には、驚愕で目を見開かんばかりになったが、その後のことを考えたら生温いにもほどがある。
孟徳と共に長安には来たものの、謹慎状態だった文若の前に現れたのは、花だった。
「一緒に来てください、文若さん。漢王朝を立て直すには文若さんが必要です」
真っ直ぐな視線で言い切った花は、続けた。
「玄徳さんと孟徳さんは、仲良くなり、じゃなくて和解しました。私に迎えに行って欲しいと言ったのは、孟徳さんです」
話の意味がわからず、思わず返した言葉は、かつてと変わらぬ一言だ。
「理解不能だ」
それを真正面から受け止めた花は、実にこんこんととしか言いようの無い説明をしてくれた。
長安に孟徳がやって来たのに文若の姿が無いことに驚いたこと、どうしてかと孔明に尋ね、玄徳と孟徳の間に緊張感がある限りは文若の命は風前の灯であると知ったこと、それならばと孟徳と玄徳に互いに仲良くなれないかと直談判したこと。
玄徳はともかくとして、孟徳が何の弾みか納得したらしい。
昨今は、玄徳の執務室に入り浸りなのだと言う。
自分には成し得なかったことを、あっさりとしてのけた少女にある種の嫉妬を感じなかったかと言えば嘘になる。
だが、そんな文若を、花は更に驚かせた。
「孟徳さんは、照れくさくて来れないんだと思います。本当は、文若さんにいて欲しいのに」
「そんなことが」
否定の言葉を言い募ろうとした文若を、花はあっさりと遮った。
「許都で、陛下に一緒に来ないかと言われて断ったのは、孟徳さんのことを思ったからですよね。文若さんも漢王朝を大事にしてらっしゃいますけど、それは孟徳さんと共に、なんですよね」
問いかけのようで、決めつける言葉の数々に文若は、自分の何がわかるのかと眉間の皺を増やした。が、真実を言いあてられてもいて、戸惑いもした。
結局のところ、花の勢いに押された形で、文若は政治表に復帰することになった。
孟徳は、文若の姿を見つけると、いくらか唇をとがらせてみせた。
「遅かったな、いないと困るんだ、これからも頼むよ」
それが心底かどうかはともかく、今はそれで充分だと思えたのだから、花に随分と毒されたものだ。
いなかった間のことは、孔明が要点を抑えて説明してくれた。食えない笑みではあったが、にこやかに言ってのけたものだ。
「前々から、文若殿とは色々と話してみたかったんですよ」
玄徳からも頼りにしているとの類の言葉をかけられ、文若の居場所はあっさりと作られた。
そして、その日から孔明の弟子たる花が、毎日のように文若の執務室に通ってくるようになった。
主に孔明からの案件を届け、こちらからの案件を持って戻る。時には、玄徳、その執務室に入り浸ってる孟徳の元へと行って、孔明を含め五人で議論をすることもある。
ほとんどは、皆の為のお茶などをいれながら大人しくしている花だが、時折、はっとするような意見を言う。
周囲と違い、全くの愛想無しな文若にも、満面の笑みで対応する不思議な存在。
しかも、孔明と執務室で話しているのを見ながら、にこにこと笑ったりするのだ。
「最近、眉間の皺が少なくなりましたよね」
などと言い放ちながら。
相変わらず、文若にとっては理解不能な存在だったが、今思えば不愉快では無かった。
理解不能が理解を試みることに変化し、不愉快では無いがいないと何かが足りない気がするに変化して。
いつから、軽やかに動き回る姿を、視線が追うようになっていたのだろう。
気付いた時には、狼狽した。
感情が、理性を超えて動くことに動揺した。
自分で自分の感情をもてあまして、半ば八つ当たりのように尋ねた。
「なぜ、私の安否など気にかけたのだ。政治のことなら孔明殿がおられるのに」
詰問としか言いようの無い口調に、花の顔は泣きそうに歪んだ。
「自分だけ死んでもいいなんて、考えないで下さい。お願いですから、いなくなったりしないで下さい」
心優しい少女なのだということは、すでに知っていたから、それが恋愛感情から出た訳では無いと独り決めして、余計に苛ついた。
その感情が伝わったのだろう、花はその目にいっぱいの透明な液体を溜めつつ、言い募った。
「文若さんが笑ってくれると、嬉しいんです。師匠と三人でお茶を飲んでる時間が多かった日は、すごく嬉しいんです」
大きな目は、ぽろぽろと雫をこぼし始めた。
「わ、私は、文若さんのことが、好きなんです」
呆然として花の言葉を聞いていた文若は、そのきゃしゃな体を抱きしめた。
「すまない、私の浅慮だった。私も、お前を想っている。だから、泣かないでくれ」
周囲も大いに驚いたが、この結果にもっとも驚いたのは文若だ。

北東が騒がしい、という報が入ったのは、それからしばらくしてのことだ。
「いつか動くとは思ってましたが」
孔明が軽く眉を寄せると、孟徳も目を細める。
「そうだねぇ、一気に潰すのが得策だと思うけど」
「長安へ来て、漢王朝への忠誠を誓ったうえで協力して欲しいとの要請を蹴ったからには、仕方ないだろうな」
玄徳も不本意ながら、同意見のようだ。花が心苦しそうな顔つきなのを見て、文若が口を開く。
「ここで一気に潰しておけば、周囲も逆らえばどうなるかを知り、恭順を誓う者が増える。また、余力を残して再度の蜂起を許せば、犠牲が返って増える」
「文若殿の言う通りだよ。もっとも犠牲が少なくて済む方法だ」
孔明にも言われ、理解はしたらしく花は小さく頷く。
その後、地勢や相手方の状況などが詳細に検討され、討伐軍を率いるのは玄徳軍、ただし孟徳軍より青州兵をつけるということに決まる。
孔明が、皆に告げる。
「今回の戦には、私が同道します」
「留守は任せてよ」
孟徳が言うと、玄徳が頷き返す。
「ああ、頼む」
その瞳には一点の嘘も無く、本当に信頼し合う仲になったのだ、と文若が改めて感慨を覚えていると、孔明が文若へと向き直る。
「文若殿、うちの不肖の弟子を置いていきますので、後方支援についてご教示願えませんか?未経験なもので」
文若も驚いたが、花も驚いたらしい。
「でも、師匠」
「後方支援というのは、戦においてとても重要な役割を担うものだよ。特に今回は遠征になるからね。文若殿は第一人者だ、色々と勉強になる」
玄徳も、頷く。
「そうだな、文若殿が預かってくださるなら安心して留守に出来る」
「どうだろう、こき使われるのがオチかもしれないよ」
からかうような孟徳の言葉に、文若はいつも通りに眉間に皺を寄せる。が、花はまっすぐに孟徳を見上げる。
「忙しいのは大丈夫です。文若さんの方がずっとお忙しいですし、書簡の整理くらいならお手伝い出来ます。でも、その上に教えていただくなんて」
「いや、引き受けよう。知っておくべきことだ」
文若がはっきりと言うと、玄徳と孔明も笑みを浮かべる。
「では、花を頼む」
「よろしくお願いしますね」
二人が、やけににこやかだったことに、文若はまだ気付いていない。

それからは慌しく出征の準備が進められ、玄徳を総大将とする北方討伐軍が出発する。
「後を頼むよ」
孔明の言葉に、文若と花は深く頷いて手を振り続ける。
その姿が完全に見えなくなる前に、文若は花へと向き直る。
「さて、花。ここからが留守居の本番だ」
「はい」
「おやおや、早速か」
一緒に見送っていた孟徳の言葉も、耳に入っているやらいないやら、だ。孟得は肩をすくめると、ま、いいか、と小さく呟いて後にする。
文若の言葉は続く。
「状況に応じて武器や武具も補給せねばならんが、何より大事なのは糧食だ」
「糧食、ご飯ですね」
簡易な言葉に言い換えつつも、花はしっかりと頷き返す。
「それでなくとも戦場となる土地の民は疲弊する。その地から徴収するのは下の下だ」
「はい、だからこちらから送り出すんですね」
「ある程度の余剰は用意しているが、追加が必要だ。だが、この地の民から無理やりに徴収してもいけない」
まるで先生と生徒のように、二人の真剣な会話は続く。
必要な量の見積もり、前もって用意する為の算段、輸送隊の編成の仕方。
それこそ、実に細やかに文若は花への講義を続ける。
真剣な表情で聞いていた花は、なかなかに優秀な生徒のようだ。一手に後方支援手配を仕切ることとなった文若の片腕として、各部署を走り回りながら的確に動いてくれる。
「文若さん、麦の確保の状況です」
書簡を積みながら、欲しい情報を告げてくれる。孔明の弟子というのは伊達ではない、と文若は内心舌を巻くばかりだ。
おかげで、後方支援は実に順調に進む。が、忙しいことに変わりは無い。
日々、目が回りそうな数ヶ月が過ぎた頃。
玄徳から、勝利した、と情報が入る。
わっと、歓声が上がる中、孟徳は文若と花を手招く。
「無事、勝利となったからもうイイと思うんだけどね。玄徳と孔明が花ちゃんをここに残してくれたのは、少しでも二人でゆっくりする時間がつくれるように、だと思うよ」
こそり、と告げられたことに、文若も花も、目を見開く。
すぐに表情を改めたのは文若だ。
「勝利とはいえ、まだ玄徳殿がご帰還になったわけではありません。我々がここでのうのうとしていることなど」
「だから、今までは口出ししないであげたでしょ。一日くらいは休みなさい。じゃないと気遣いが無駄だったって玄徳たちをがっかりさせることになるよ」
指を振ってみせる孟徳へと、文若は深いため息をつく。
「確かに、煩雑さにかまけて花を休ませていなかったことは私の落ち度です。明日は、花には休暇を与えることにします」
「文若さんは」
「私が休む訳にはいかん」
きっぱりと言い切った文若は、誰がなんと言おうと聞かない顔だ。
孟徳が、ため息混じりに肩をすくめる。
「花ちゃんは、休みにしてよ。もし何かあったら、玄徳たちに申し訳立たないからさ、ね?」
懇願する表情に、花は困ったような顔で頷く。
「はい……」
話は終わったとばかりに背を向ける文若を追おうとする花を、孟徳は呼び止める。
「花ちゃん」
「はい?」
素直に振り返って、まっすぐに見上げる花に、孟徳は笑みを深める。
「今回の件で、色々と学んだんでしょう?成果を発揮するといいんじゃないかな。兵法というのはなんにでも応用出来るものだよ?」
花が来ないことに気付いた文若が、不審そうに振り返る。孟徳へと向かった花が、なにやら頷いたのが見える。
「花?」
「今行きます」
素直な返事が返り、なぜか笑顔の彼女が追いついてくる。
「どうか、したのか?」
「孟徳さんが、休日の有効な過ごし方を教えて下さったんです」
あまりに嬉しそうな顔に、それ以上何も言うことが出来ないまま、その日は終わる。

翌日、珍しくも文若の執務室に自分から来た孟徳は、不思議そうな顔になる。
「あれ、花ちゃんいないの?」
「休暇を与えるべきだとおっしゃったのは、孟徳様と存じますが」
眉間の皺をいくらか増しながら文若が告げると、孟徳はけろり、と言う。
「うん、名目はね。でもなんだかんだ理由を付けて手伝いに来るかなって思ったんだけど」
ここまで言われたら、孟徳が何か仕掛けたのだと文若にもわかる。花は妙に笑顔になっていた理由でもあるのだろう。
「昨日、呼びとめて何をおっしゃったんです?」
「えー?」
一度はもったいをつけたいような顔つきになった孟徳だが、花がこの場にいない以上、自分の仕掛けは失敗したと判断したのだろう、肩をすくめてみせる。
「文若から学んだこと生かせばって、言っただけ」
「…………」
今度は、文若が不審そのものの顔になる。
「どうしたの、文若」
「いえ、あの後、花は孟徳様から有意義な過ごし方を教えられた、と言ったのです」
孟徳は、おや、というように目をみはる。
「へーえ、じゃ何かの役には立ってるのかな?何してるのか、ちょっと気になるけど」
「部屋に行ったりしては」
「しないしない、俺だって、馬に蹴られる趣味は無いしね。でも花ちゃんがいないなら俺も戻ろうっと」
完全に仕事を無視した発言を残して、孟徳はにこやかに文若の執務室を後にする。
残された文若は、花は一体どんなことに学んだこととやらを生かしているのかと考えかかって、首を横に振る。
今は、目前に山積している仕事を片付けねばならない。それでなくとも花がいないのだ、のんびりしている暇はない、と竹簡を手にする。
そのまま、仕事に没頭していく。
どのくらい時間が過ぎただろうか、そっと扉を開く者がいることに文若は気付く。
「誰だ」
「私です、花です」
驚いて、視線を上げる。そして、いつの間にか灯がいる時間となっていたことに気付く。文官の誰かが点けていてくれたらしい。
その灯りの向こうに花が立っている。
「どうした、このような時刻に」
「きっと、文若さんはまだ仕事をしてらっしゃるのだろうな、と思ったんです」
確かに、彼女の予想は当たっていたわけだが、娘が一人出歩く時間ではない、と説教を始めようとしたところで、花の手に盆があることに気付く。
「夜食を作ってきました。良ければ、いかがですか?」
視線が落ちた先に気付いたのだろう、花は照れたように微笑む。
文若は、数回、瞬きをする。
「お前が、作ったのか?」
「はい、芙蓉と雲長さんに、ずっと料理を教わっていたんです。二人ほどではないですけど、酷くもないと思います」
ずっと重そうな盆を持たせていることに気付き、机上の書類を片して場所を開ける。
置かれた器からは、暖かな湯気が上がっている。
粥に具材をいろいろと入れたものらしい。
「夕飯、食べてないだろうな、と思って……」
文若のことを思って作ってくれたことは確かなので、笑みを向ける。
「ありがたくいただこう」
「はい、どうぞ」
花も、嬉しそうに笑みを返す。
添えられていたれんげを手に、すくってみる。なるほど、具材もほどよく柔らかくなっているようだ。
遅い時間に食べることを配慮して、花が工夫してくれたのだろう。
口にすると、やさしい味が広がる。
「美味いな」
素直に出た一言に、ぱっと花の笑みが大きくなる。
「良かった!」
もちろん、作ってもらった夜食も美味しいのだが、花の笑顔が加わると一層美味しい気がする、などと考えた文若は慌てて器へと視線を戻す。
やがて、すっかり夜食が片付いた後。
花の淹れてくれたお茶を手にしながら、ふ、と思い出す。
「そういえば、花」
「はい?」
「孟徳様に有意義な休日の過ごし方を教えてもらったと言っていたが、今日はどのように過ごしたのだ」
孟徳の目論見は外れて、花は執務室には来なかった。
だが、昨日の花は、明らかに有意義に過ごす方法を見つけた表情だったのだ。彼女の思う有意義が、どのようなものであったのかは興味がある。
問われた花は、なぜか頬を染める。
「ええと、その、ですね、恥ずかしいんですが」
その上、頬を両手で覆ってしまう。
不思議そうな顔つきになる文若に、花は隠しておけないと思ったのか大人しく口を開く。
「夜食の準備してました」
「え?」
文若は、思わず訊き返す。
「これは、一日かかりだったのか?」
「いえ、そうじゃなくて、料理人さんに好みの味を教えてもらったりとか、材料は何がいいか考えたりとか、そういうことです」
自分の為の夜食に、あれこれと心を砕くことが有意義と言われて、悪い気などするはずはないが。
「だが、どこが学んだことを生かしたことになるのだ?」
「兵站の基本は、兵糧と教えていただきました。人は戦でなくても、ご飯がなければ大変ですよね」
まっすぐに文若を見つめて言い切った花は、また頬を染める。
「文若さん、誰かがいないとすぐに寝食忘れちゃうから」
いくら朴念仁の文若といえど、こういう風に言われれば、学んだことにかこつけて自分のために夜食を用意することにしてくれたのだ、と理解出来る。
文若の好みに合うよう、さまざまに心を砕きながら。
自然と、笑みが浮かぶのがわかる。
「花」
頬を染めたまま顔を上げた花は、視線が合うとさらに赤みが増す。
「とても美味しかった。礼を言う」
「文若さんが残さず食べてくれたので、私も嬉しいです」
返ってきた笑顔があまりに優しくて、眩しくて、なにより愛しくて。
世界で、もっとも優しい笑みが浮かんでいればいいと思いながら、抱き寄せる。


〜fin.
2010.05.25 Learning and application exercises

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