『 桜ノ森満開ノ下 八 』



ふと、頬をなでる気配。
見上げると、見渡す限りの満天の桜。
頬を撫でていったのは、風に舞う薄紅の花弁。
珍しい、と思う。
でも、知らない景色ではない。
あれは、いつだったのか。
こんな、桜の景色を知っている。

気付いたら、彼女が立っていた。
別に、桜を見に来たわけではなかった。
ただ、いつも荷を負って歩く道筋に、桜が咲くのだ。
いつもと違ったのは。
彼女が立っていることではなく。
彼女の瞳から、透明な雫が零れ落ちていったこと。
わけがわからないまま。
でも、彼女から視線を外すことができないでいる。
これまでも、これからも。
彼女は、そう言った。
あなたは、桜を愛でる暇さえ、無いのね。
そして、その頬を透明な雫が零れ落ちていった。
後から後から。
まるで、泉かなにかのように。
あふれる雫は、止まらない。
彼は、戸惑うばかりで。
だって、なぜ泣くのか、わからない。
なぜ、彼女が彼の為に泣くのか、わからない。
彼女とは、幼馴染で。
顔を合わせれば喧嘩ばかりで。
嫌い、が彼女の口癖で。
それから、彼女は。
もう少ししたら、嫁ぐことが決まっていて。
相手は、彼ではない。
怒った顔と、笑った顔は、よく知っている。
でも、泣いた顔は知らない。
こんなに切ない表情は知らない。
彼女の涙を見ていると、ただ、胸が痛くなった。
だから、手を伸ばして。
暖かな雫を、その手にうけた。
だけど、彼女の涙は止まらない。
ただ、彼女の頬を、濡らしつづける。
だから、頬にやっていた手を伸ばして。
彼女を、抱きしめた。
君の言うとおり、俺は、きっと。
これまでも、これからも。
花を愛でることなど、無いだろうけれど。
桜を見たら、足を止めよう。
そして、薄紅に染まる天を見上げよう。
きっと、君を、思い出すから。
だから、笑ってくれないか。
彼女の涙は、なぜだか、彼の胸を痛くする。
彼女は、そっと彼を見上げて。
それから、柔らかに微笑んだ。
これまでも、このあとも。
見たことの無い、柔らかな笑み。
だから、彼も、微笑んだ。

あれから、時は流れ続けて。
彼女の言ったとおりに、彼は花を愛でる暇などない日々を送る。
花を愛でるどころか。
彼の行く道は、血塗られた道。
彼を阻むものは、命を失う。
月のかかる橋で、雨上がりの峡谷で。
だけど、桜に行き会ったときだけは。
足を止め、薄紅に染まる天を、見上げる。
緩やかに舞う風の中に、しばし、身を預ける。
彼女が、ふと、微笑んだ気配。
それを感じたら。
彼はまた、前を見据える。
兄と慕う主の為に、一州をこの手にする為に。
行く道は、修羅の道。


〜fin.
2002.04.03 Under the full blossom cherry trees VIII

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蛇足!
桜の下にいるのは、なんと張飛でございます。
『三国志祭り2001』で、「カッコいい張飛が読みたいんです!」という熱いリクエストをいただきまして。
いつも、道化役を引き受けてもらっていたので、正直、困惑いたしました(苦笑)。
でも、張飛だって胸に秘めた思い出のヒトツくらい!というわけで。まだ、劉備たちに出会う前の、肉屋の息子な頃の思い出です。張飛って、感受性は強い気がしております。


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