『 桜ノ森満開ノ上 壱 』



扉を開けたなり、風が舞って目を細める。
袖が軽くあおられるが、寒さは感じない。
むしろ、風が暖かさを運んでいる。
空気が甘やかなのは、どこかで咲く花の香りが運ばれてきているのだろうか。
らしくもなく、そんなことを考えたところで背後からの気配に振り返る。
「おう」
磊落な口調で軽く片手を上げてみせた劉備へと、孔明は頭を下げる。
「邪魔しに来たのはこちらなんだから、気にするな」
ごくあっさりと劉備は言い、隣へと並ぶ。
「星見に出ているだろうとは思ったんだが、あまりに見事だったんでな」
彼の視線の動きを追うように下を見やった孔明は、
「ああ」
と、小さく呟く。
見渡す限り、満開の桜。
下から見上げるのと異なり、広がるのは花弁ばかりだ。
風にさざめく様は、この楼が桜の海の上に浮かんだ島のようにさえ見える。
いつの間に、こんなに咲き乱れていたのか。
そもそも、ここに、こんなに桜があったことすら、知らなかった。
甘やかな香りは、この花たちだろう。
浮かんだ表情で、何を思ったのか察したらしい。劉備の顔に笑みが浮かぶ。
「思っていた通りだ、ここからの眺めは素晴らしいな」
「空にばかり気を取られておりましたが」
劉備の笑みが、大きくなる。
「しばらくは、この場は独り占め出来ないだろうよ」
ここからの眺めが素晴らしいだろう、と思う者は劉備一人では無いということだ。
「確かに」
孔明も、頷く。
楼に登ることが許されていれば、誰もが思いつくことに違い無い。
「だからといって、星見の場所を変えたりとかは、するなよ」
「え?」
桜の海へと落としていた視線を、劉備へと戻す。
悪戯っぽい笑みが、こちらを見つめている。
「いつも通り、ここにいろよ」
思ったことを察せられてしまったことは、驚くにはあたらない。が、言われたことには、少々戸惑う。
「ですが」
「わかってて、来るんだよ」
劉備の視線は、また、桜へと戻っていく。
「ここからの眺めが素晴らしいことも、ここで孔明が星見をしていることも」
返しかかった言葉を、喉に押し込める。
桜を見に来る者たちは、皆、孔明がどこで星見をしているかを知っている。
とすれば、いなければ自分達の為に遠慮したかと、気を使うことになろう。
劉備は、それを告げてくれたのに違いない。
ふ、と笑みが浮かぶ。
「はい」
素直に頷いたのに、劉備は、小さく笑う。
「春の夜の幻、といったところかな。全ては夢幻と思うのも、時に悪くはないだろう」
孔明も、視線を桜へと移す。
ゆらゆらとさざめく柔らかな花弁の海は、確かにどこかへと誘っているようにも映る。
「桜の見せる夢でしょうか」
ふわり、と頬を風が撫でる。
「いえ、桜の中で見たい夢、でしょうか」
「さあ、どちらでも有って、どちらでも無いんじゃないかな」
どちらからともなく、視線が合う。
笑みを浮かべたのは、どちらが先であったのか。
「確かに、問うは無粋ですね」
「そういうことだ」
ややしばらくの間の後、呟くように孔明が言う。
「我が君」
「ん?」
見慣れた、暖かい瞳が、こちらを向く。
「ありがとうございます」
「一番乗りしたかっただけさ」
また、ふわり、と風が吹く。
視界一杯に広がる花弁が、柔らかな白でゆらめく。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。

満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。


〜fin.
2006.03.28 Above the full blossom cherry trees I

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蛇足
今年も桜話はやりたいな、と思って始まりました。
満開ノ下以上に、時代考証無視ですね。


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