『 桜ノ森満開ノ上 弐 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

背後の扉が開く気配に、柔らかに振り返る。
視線が合うと、関羽は穏やかな笑みを浮かべる。
「邪魔をする」
「いえ」
孔明の隣に並んで、視線を下へとやった関羽は、いくらか目を細める。
「ほう、見事な」
本質的には、無口なのだと知ったのはいつ頃だったろうか。いつだったか、あれやこれやと常に話している張飛と一緒のことが多いおかげで、それなりに口数があると思われがちなのだ、と苦笑していた。
子供相手に、学舎のようなものをしていたこともあるというから、話をするのが嫌いというのでもないのだろうが。
孔明自身もあまり口数がある方ではないので、この場を支配するのは沈黙だ。
さらさらと、緩やかに桜の波がさざめく音の他は、何も聞こえない。
いくばくか、そんな時間が過ぎ行ってから。
「問いたいことがある」
「何でしょう?」
穏やかに返され、関羽は開きかかった唇を、一度閉ざす。
が、決めたのだろう。はっきりと口にする。
「あの時、俺を斬るつもりだったろうか?」
関羽を斬るといえば、一度しかない。赤壁での戦の後、許昌を指して奔る曹操を逃がした一件だ。
追撃の命を下す時、孔明は、関羽は恩を受けたことを忘れず曹操を逃がすだろう、と予言した。
それゆえ、出撃させぬ、と。
必ず討つ、と告げた関羽は、誓紙を書くことで出陣を許された。
が、結局は予言通り、誓紙に書かれた言葉を破ることとなった。
曹操を見逃した、ということを知った時の孔明の激昂は、静かであっただけに誰もが震え上がった。
切り捨てよ、との言葉に、膝を折らんばかりになったのは主君たる劉備だ。
今までの功に免じて、しばし処断は待ってくれ、との説得に、ようやく孔明も折れたのだ。
あの時、劉備があれほどまでに取りなさなければ。
「無論、斬りましたよ」
さらりと、孔明は返す。
「軍令違反のみならず、誓紙破りも犯したのですから」
にこやかにさえ見える顔で言われ、関羽は苦笑する。
「なるほど、確かにそうだな。では、兄者が取りなすことは?」
孔明の顔に、笑みが浮かぶ。
「雲長殿は、いかが思われていらっしゃる?」
問い返されて、いくらか困った顔つきになる。
「さて、兄者と過ごした時間は長いつもりでいるが」
視線が、空を見上げる。
「あれは、兄者らしくあったようでもあり、そうでなかったようでもあり……まぁ、兄者は見えぬ方だから、と言ってしまえばそれまでなんだが」
相変わらず困ったような顔のまま、視線が孔明へと戻ってくる。
なるほど、どうにも読み解けぬ劉備の態度を、孔明なら解けるか、と問うたわけだ。
はっきりとした笑みが、孔明の顔に浮かぶ。
「我が君は、雲長殿はどうされると思っていたでしょうか」
それは、問いであり、答えだ。
いくらか目を見開いた関羽は、次第に笑み崩れる。
「参った」
劉備も孔明も、何もかもわかっていたのだ。
笑んだまま、関羽は桜へと視線をやる。
「では、あれで良かったのだな」
「はい」
孔明も、白く浮かぶ花弁を見やる。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2006.03.29 Above the full blossom cherry trees II

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蛇足
普通では面と向かって訊け無さそうなことを、訊いてみました。


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