『 桜ノ森満開ノ上 四 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

振り返ると、人好きのする笑みと視線が合う。
自然と、孔明の顔にも笑みが浮かぶ。
「お邪魔してもよろしいですか?」
「無論です」
隣へと並んだ孫乾は、周囲を見回してから、視線を孔明へと戻す。
「言葉で言い表してしまうと、勿体無い気がしますね」
階下を埋め尽くす桜だけではない。星を隠すほどでない月明かりが周囲を柔らかに照らし出し、この景色を引き立てている。
それを、綺麗や見事といった一言で言い表してしまうのは、確かに勿体無い。
というより、ただ一言では言い表せないものとも言える。
特に、言葉を選ぶことにかけては細心の孫乾にとっては、そうなのだろう。
この誰もが笑みを返したくなる笑顔と、細心に選ばれた言葉とが、幾度も追い詰められた劉備たちを救ってきたのだ。
日頃から気にかけていなければ、絶妙な言葉など選ぶことは出来ない。
「そうですね、どのような、というのを表そうとすると、どの言葉も陳腐になる気がします」
頷いてから、孔明はいくらか首を傾げる。
ふ、と興味がわいたのだ。
「ですが、どうしても、ということになったら、いかがなさいますか?」
問いの意味は、充分に孫乾に伝わったらしい。
軽く目を見開いてから、苦笑する。
「同じことをお尋ねしようと思っていたのですよ。先を越されましたね」
視線が、桜の海へと向かう。
さわさわと、微かにさざめく花弁が、視界いっぱいに広がっている。
「そうですね、言葉のみで言い表すのは、実に難しい」
口調は、返答を拒否しているものではない。
むしろ、考えを巡らせているものだ。
ややの間の後。
「やはり、言葉のみとなるとお手上げだ」
孫乾は苦笑する。
「顔でごまかすしかないな」
「きっと、相手にも伝わりましょう」
孔明が返したのに、苦笑は大きくなる。
「伝わらなかったら」
水平に手の平が首を横切る。
孫乾が使者に向かうのはそういう時だ。その場では彼自身の首が落ち、ひいては劉備軍の命が危うくなる。
どうあっても、相手に受け入れられねばならないのだ。
仕草に、孔明も苦笑する。
「余人であれば」
孔明の手も水平に横切る。孫乾は軽く首を傾げる。
「そうでもないだろう」
「いえ、私が何を言おうと、含みがあると思われます」
孫乾は、いくらか目を見開いてから、にこり、と笑う。
「適材適所というのがあるから」
ややの間の後、付け加える。
「中の者は、そうではないと知っているし亅
今度は、孔明が目を見開く。
「今更言うまでもないだろうけれど」
いくらか困ったような、照れたような顔で桜の海へと視線を移した孔明に、孫乾の笑みは大きくなる。
「劉備軍にいると、いろいろと変わっていくんだよ」
「公佑殿もですか?」
くすり、と孫乾は笑う。
「少なくとも、使者に立つなどということは無かったろうな。言葉を弄して相手に納得させるなんて、考えたことも無かったから」
「今となっては、天性とさえ思えますのに」
また、笑い声が漏れる。
「何よりの褒め言葉だね」
白く浮かぶ花弁を見つめながら、考える。
確かに、劉備を主君と仰ぐようになってから、自分たちは変化してきた。
でも、それは、自分たちにとって嫌な変化では無い。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2006.03.31 Above the full blossom cherry trees IV

**************************************************

蛇足
孫乾はかなり贔屓です。


[ 戻 ]