『 桜ノ森満開ノ上 伍 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

扉の向こうから覗いた悪戯っぽい笑みは、視線が合うか合わぬかという間に、拍子抜けだと言いたげに変わる。
「やっぱ、気付かれたなー」
「憲和殿も扉を開けたなり、私がすでに振り返っていたと気付かれたではないですか」
穏やかに孔明が返すと、扉を後ろ手に閉めた簡雍は肩をすくめて、くくっと笑う。
「お互い様ってぇ?まぁ、そういうことにしときますかねー」
笑顔のまま、首をひょこんと傾げる。
「お邪魔じゃあ無ぇですかー?」
「星見なら、終わりましたから」
に、と簡雍の笑みが大きくなる。
「そんなら、堪能さしてもらおっかな ー」
言ったなり、楼から思いきり身を乗り出す。
「やぁ、すっげぇやー」
眼下に広がるのは、見渡す限りに広がる桜の花弁たち。
まるで、海だ。
月に照らされて、ほの白く浮かび、さざめいている。
「こりゃ、見に来ないのは損だねー」
満面の笑みで振り返ったのへと、孔明も笑みを返す。
くくっと声を立てて笑ってから、簡雍は、また桜を見やる。
「俺ねぇ、礼を言いたくてねー」
「え?」
いくらか戸惑った孔明の声を聞いているのかいないのか、簡雍は楼からはみ出した手をぶらぶらとさせながら言う。
「こういう時にぃ、学が無ぇのは困るんだよなー。ありきたりのありがとうじゃねぇんだけどなー」
しきりに首を傾げる。
「なんつぅのかな、そりゃもう、とてつもなく、すげぇ、山盛り、たくさん……何か足りねぇなー」
一瞬の間の後。
「んんと、すげぇがものすごくとてつもなく山盛り」
弱りきった顔が、心底情けなさそうに振り返る。
「そういうのってぇ、何て言やいいんですかねー?」
ひとつ、瞬きをしてから。
孔明は、笑み崩れる。
「とても感謝して下さっているということは、充分にわかりました」
「そうかぁ」
簡雍は、ぱあっと笑顔になる。
「すげぇがものすごくとてつもなく山盛り、ありがてぇんだー」
面映そうに、孔明は首を傾げる。
「ですが、それほどに感謝していただけるようなことをした覚えが無いのですが」
それでなくとも大きな簡雍の目が、更に見開かれる。
「えー?ああぁ、そうかー。俺の勝手な事情っていや、そうだもんなー」
照れくさそうに、首を撫でる。
「いやまあ、それだ。その、俺の仕事が生きたってぇことなんだけど」
わかるか?と上目使いが問う。
簡雍の仕事といえば、情報収集だ。孫乾や糜竺が得てくるのとは別口の。
そういったことには縁が無いと思わせる何かがあるらしく、人の口が緩むらしい。
簡雍自身も、必要な情報を持っているのが誰かを見極める能力があるようだ。
当人が言うところによれば、臭いがするらしい。
だが、それは孔明が加わる以前からのことだ。
彼の得た情報のおかげで九死に一生を得たことは、一度や二度では無いはずでもある。
皆が生きてくるには、彼の情報は必須だった。
「俺がなんか嗅ぎ出してくるっしょう?前はねぇ、それは死んじまうかどうかのぎっりぎりのとこでしか役立たねぇのなー」
に、と笑みが浮かぶ。
「でもさぁ、ほら、なんつぅの、いろいろに使ってくれるっしょー?」
生死の境ではなくて、皆が前に行くために。
「それだけの価値のある情報でしたから」
孔明は、笑顔を返す。
「私こそ、お礼を言わせて下さい。それこそ、すげぇがものすごくとてつもなく山盛り」
くくっと簡雍は笑う。
「嬉しいねぇー」
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2007.03.31 Above the full blossom cherry trees V

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蛇足
初簡雍です。磊落で開けっぴろげで、でもどこか食えない、という印象があります。


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