『 桜ノ森満開ノ上 陸 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

視線が合うと、おっとりと微笑む。
「お邪魔しても、よろしいでしょうか」
「お邪魔などではありません、どうぞ」
孔明が首を横に振ったにも関わらず、丁寧な仕草で扉を閉めた糜竺は深く頭を下げる。
「それでは、失礼いたします」
余人であれば慇懃無礼に映りそうな丁寧さだが、彼にかかると、とても自然だ。
控えめな位置から、楼の外へと視線を向ける。
桜の花弁の海と、柔らかな月明かりと。
風が花弁を揺らし、どこか甘やかな香りが漂う。
それらをじっくりと見回してから。
糜竺の視線が、孔明の方へと戻る。
「これは絶景ですね」
言ってから、いくらかの間の後、付け加える。
「私が知る限り、これほど見事なものは他に無いでしょう」
「お目に適ったようで、何よりです」
孔明が笑み返すと、ほんの微かに糜竺は首を傾げる。
「ああ、言葉が少々宜しくなかったですね。値踏みするような言い方は相応しくありませんでした」
「いえ、そのような意味のつもりでは」
いくらか戸惑った顔つきになったのは、孔明の方だ。
糜竺は、おっとりとした笑みを浮かべる。
「いやいや、私はどうしても商売人から抜け出せません。ご不快にさせてしまっていないとよろしいのですが」
「不快になど」
首を軽く振り、孔明も微笑む。
「感謝することばかりです」
頭を下げたのに、糜竺は珍しく目を見開く。
ややの間の後。
「やあ、これは参りました。先を越されてしまいました」
しきりに照れくさそうに首を傾げる。
「私がお礼を申し上げようと思っておりましたのに」
「子仲殿が私に、ですか」
孔明が不可思議そうに問うと、いつもの、おっとりとした笑みが戻ってくる。
「ええ、そうですとも。私共の植えた小さな種を、見事に生かして咲かせて下さったことに、ぜひお礼をさせていただかねばと、かねてから思っていたのです」
孫乾とはまた別に使者に立つことが多い糜竺は、赴く相手だけではなく周囲への根回しが実に上手い。
当人は商売人だから、これくらいしかと謙遜する。が、作り上げた人脈は幾度となく物を言った。
むしろ、利用していたのは孔明だ。
「御礼を申し上げるのは私ではないですか」
「いいえ」
糜竺は、大きく頭を振る。
「私は種を蒔くことしか出来ないのです。咲かせるのは相手の方です。そして」
ふ、と視線は眼下の桜へと向かう。
「見事に咲いた花を見る機会は少ないものなのですよ」
ゆっくりと、視線が戻る。
「ですから、咲いた花を見せていただけたことにお礼申し上げたいのです」
ふうわりと、おっとりとした笑みを浮かべる。
「それから、これほどに見事な桜を見せていただいたことにも」
孔明は、ひとつ、瞬きをする。
それから、ゆっくりと笑み崩れる。
「それこそ、私がお礼を申し上げなくては」
糜竺も笑顔で頷く。
「そして、玄徳殿に」
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2007.04.01 Above the full blossom cherry trees VI

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蛇足
初糜竺。伝承が面白いので忘れられないのですが、それから性格を想像してみました。


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