『 桜ノ森満開ノ上 九 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

近付いてきた気配が、扉の向こうで止まる。
振り返ると、几帳面な声が問う。
「失礼して、よろしいでしょうか?」
「もちろんです」
扉を開くと、控えめに微笑んだ伊籍が立っている。
「ご無沙汰しております。皆から、見に行かぬのは勿体無いと言われまして」
孔明は、頷き返して一歩引く。
「ご自身の目で、お確かめ下さい」
白羽扇の動きに誘われるかのように伊籍は楼へと踏み出し、視線を外へと向ける。
「ほう」
そこで、言葉は途切れる。
細い目が、見開かれている。
月明かりの下、広がる薄白の花弁のじゅうたん。
もう見慣れてきた孔明でも、改めて視線をやれば、しばし言葉を忘れる。
「これは」
言いかかった言葉が、また、途切れる。
さらり、と風が吹き、ゆらり、と花弁が一斉に揺れる。
ひらり、と数枚が舞う。
それが、どこかに消えるまで視線で追ってから。
「これは、想像していた以上に素晴らしいですね」
細い目に笑みを浮かべて、孔明へと視線が向く。
「本当に」
笑みを返してから、孔明はまた桜へと視線を戻す。
「機伯殿のお気に召して、良かったです」
「や、そんな。誰もが、これは見事と思うでしょう」
いくらか照れた声だ。
伊籍は、一歩進んで楼の手すりに手をかける。
「見事というのがふさわしいのか、綺麗という言葉がふさわしいのか、私にはわかりかねますが」
視線がこちらへと戻ったので、孔明は小さく首を傾げてみせる。
「今日は、言葉を選ばずともいいでしょう」
「そうですね、それは返って無粋というものですね」
照れ笑いを浮かべる伊籍に、孔明は軽く首を横に振る。
「ああ、そういう意味ではなくて、ふさわしいと思う言葉をいくらでも、で良いのではないかと申し上げたかったのです。言葉が足りず申し訳ありません」
「あ、これは私の方こそ。いつもいつも、考えてしまうのは性分ですね。最もふさわしい、皆に伝わる言葉は何か、と。今も、せっかくの景色なのに、そのようなことを考えてしまっていて」
そこで言葉を切り、首の後ろに手をやって照れくさそうに笑う。
「ここに来るまでに、色々と聞いたのですよ。それで、気付いたわけです」
視線はまた、一面の薄白へと向けられる。
「こういう時にふさわしい言葉というのは、人それぞれで違うのですね。表情や声や身振りも含めて、なわけですが」
今まで楼を訪れた人をいちいち思い浮かべずとも、孔明の首はあっさりと縦に動く。
「ええ、本当に」
「それでですね、私にふさわしい言葉はどんなものかと、そう考えていたわけです」
また、照れくさそうに首の後ろを撫でる。
「でも、上手くはなかなか見つかりませんね」
「そうでしたか、でも」
伊籍の視線を受けて、孔明は笑みを浮かべる。
「機伯殿がどなたかにお話されたら、きっと伝わると思いますよ」
あの伊籍が言葉を見つけられぬほどに、と。
何より、その目の笑みが語るだろう。
だが、いちいちと言葉にするのは、それこそ無粋だ。
「そうでしょうか」
「皆からも、伝わったのでしょう?」
孔明の問いに、伊籍はいくらか目を見開く。
それから、ゆっくりと笑み崩れる。
「ああ、そうですね。確かに」
笑みを浮かべたまま、視線はまた、桜の海へと戻っていく。
「でも、せっかくですから、心行くまで眺めていくとしましょう。もしかしたら、何か言葉が浮かぶかもしれませんしね」
彼らしい言葉に、孔明の笑みも大きくなる。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2008.03.25 Above the full blossom cherry trees IX

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蛇足
伊籍も初。演義ベースのエピソードより、こんな感じの人かな、と。
シリーズとしてはともかく、祭りスタートとしてはマニアな選択でしたね。


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