『 桜ノ森満開ノ上 拾 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

開いた扉の向こうに立つ黄忠が、得手の弓を手にしているのに孔明は軽く目を見開く。
「漢升殿、どうなされましたか」
「殿から、軍師殿がそれがしに用件があるとうかがいましてな。お役に立つことも」
老将とは思えぬ張りの声は、さびもあって独特の響きだ。
が、言葉の途中から孔明が不思議そうな顔つきになっていくを見て、途中で口をつぐむ。
「や、それがしの早とちりであったか」
「いえ、用件はございました。ですが、我が君の言葉が足りなかったようです」
にこり、と微笑み返して、孔明は一歩引く。
「先ずは、こちらへ」
招かれて、黄忠は大股に楼へと歩を進める。どこをどう見ても、その髪と髭が白い以外は、他の将たちとなんら変わらない。
そんな仕草を横目に、孔明は白羽扇で楼の外を指す。
「お詫び代わりにはなりませんが、この景色を漢升殿に」
視線を外へと向けた黄忠は、珍しくその目を軽く見開く。
広がるのは、一面の桜の花じゅうたんだ。
うっすらと吹く風に、さやさやとさざめいている。
「おお、これは見事な」
心からの感嘆の声を漏らしてから、視線だけでなく、体ごと孔明に向き直る。
「ですが、軍師殿。それがしに詫びとは、どういうことであろう?」
真正面から問われ、孔明の顔にはいくらか困ったような笑みが浮かぶ。
「それはですね、幾度と無く、不適切なことを申し上げたことについてです」
意味がわかりかねる、というのを満面に現した目をまっすぐに見つめつつ、孔明は続ける。
「漢升殿が望まれて戦に臨む際、私はいつも懸念を申し上げて参りました」
「おう、軍師殿はそれがしの年齢がお気に召さぬようだ」
少々渋い表情になるのへと、笑みを返す。
「いえ、漢升殿は年齢などには関係なく、十分な力のあるお方ということは、私もよく存じ上げております。ですが、お年のことを申し上げると、通常以上にお力が出る傾向があるようで」
言われた意味を一瞬取りかねたのだろう、黄忠は何度か瞬きをする。
それから、今までのことを反芻してみているのか、どこか考える顔つきになる。
やや、してから。
「ああ、そういうことであったのか」
漢升将軍はお年を召していらっしゃるので、少々心配です。
孔明がそう口にするたび、何を小癪なとばかりに獅子奮迅の腕を振るってきた。
確かに、一言があったが故のがんばりでもあったろう。
「ですが、失礼を申し上げてきたことは事実です。ですから、お詫びする機会がいただきたかったのです。申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる孔明に、黄忠は困ったような笑みを向ける。
「や、戦の為に全力を尽くすことは、互いに本分であろう。我らとて策を用いるのだから、いわんや軍師殿は」
困っていた笑みのまま、言葉を継ぐ。
「それがしは、気にしてはおらぬ。それに、軍師殿?」
「はい」
静かに視線を上げた孔明に、黄忠は手にしている弓で楼の外を指す。
「どうも、今晩も殿の策にまんまとはまったような気がしているのだが?」
にっこり、と孔明は微笑む。
主君へと、黄忠を呼んでくれとは頼んではいない。が、ここへと彼が来るには、そうと言うしか無いと判断したのだろう。
黄忠の勘ぐりは、間違ってはいない。
だが、いつか機会があれば詫びたいと思っていたことも事実で、それを主君が察していたというのも事実のはずだ。
「なんであれ、こちらまでいらっしゃったのです。せっかくですから、愛でていかれてはいかがでしょう?」
言葉に誘われるように、黄忠は、もう一度一面の薄白へと視線を向ける。
「そうですな。これほどまでに見事な景色。用件が済んだと背を向けるには、あまりに惜しい」
それから、微笑んで孔明を見やる。
「むしろ、礼を言わねばならないようだ」
「お礼?漢升殿がですか?」
「そうだ。本当に、気にしてはおらなんだ。が、こうして面と向かって言っていただけて、すっきりとした」
さ、と風が吹き、どこか甘い香りが漂う空気を、大きく吸う。
「それに、このようにすばらしい景色を見せていただいておる」
孔明は、ただ微笑む。
「そのお礼でしたら、我が君に」
「おう、でも軍師殿にも」
「ありがとうございます」
どちらからともなく、遠く広がる薄白の花弁へと視線をやる。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2008.03.25 Above the full blossom cherry trees X

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蛇足
老いてなお盛んであり、そして経験も豊か。
正史にはあまりエピソードが無いですが、演義のそんな人物像が好きです。


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