『 桜ノ森満開ノ上 拾壱 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

視線が合うと、皮肉な形に唇を歪める。
端が持ち上がっているから、当人は笑みを形作ったつもりだろう。
「今晩は、孝直殿」
挨拶に、何か返そうと法正はいくらか唇を動かす。
が、その言葉が声になる前に、孔明はもう一つ言葉を重ねる。
「どうぞ」
恐らくは、俺なんぞが顔を出して不快だろう、とか、帰って欲しいならそう言えばいい、だとかいう言葉を霧散させられて、法正は一気に不機嫌に眉を寄せる。
が、彼にしては大人しく、一歩踏み出して楼へと立つ。
皮肉を封じられてしまったせいか、顔つきを強張らせたまま、法正は突っ立っている。
ここで笑えば本気で背を向けかねないだろう、と孔明は表情を抑えたまま、白羽扇をゆるりと動かす。
「今宵はまた、一段と月も美しく」
言葉と動きにつられるように、視線を動かした法正は、珍しく素直に目を見開く。
が、喉で言葉はせき止めたらしい。
飲み下すような、妙な音が鳴る。
広がるのは、孔明が手にした白羽扇よりも白く月に浮かぶ桜の海。
風にうっすらとそよいで、さやさやとさざめいている。
どうやら、言葉を飲み下したままには出来なかったらしく、ほんの小さくだが息が漏れる。
視線は、桜から離れない。
沈黙が落ちたまま、ややしばらくの時が過ぎて。
まだ、視線は外さぬまま。
だが、法正の顔から、強張った表情は消える。
いつもの、どこか皮肉な笑みとも違う、無表情。
「知ってたでしょう?」
確信めいた語調での問いに、孔明はあっさりと頷く。
誤魔化したとこで、法正には無駄なことだと知っている。
「ええ、わざわざ告げる者がおりましたから」
「法に厳正たる主義と思っていたのだが」
再び、不機嫌に眉が寄るのに、孔明はうっすらと笑みを浮かべる。
「そうですね、孝直殿も」
「俺がやったのは」
「真意が露見してようがいまいが、表向きはきちりと法に則っておられましたよ。この点、異論を挟む者はおりますまい」
「だからこそ」
いくらか、語調が強くなる。
その拳が、握り締められている。
「なぜ、そのまま許した?」
睨みつけるように、眦を釣り上げて法正は振り返る。
が、孔明は笑みを消さない。
「貴方のところにも、わざわざ告げる人がいらっしゃったのではありませんか?」
だからこそ孔明が知っていると、法正は確信した。
答えは、更にいくらか寄った眉だ。
「でしたら、私がなんとお答えしたのかも、ご存知でしょう」
静かに、視線を桜へと向ける。
「本当のことを申し上げたのみです」
「だが、俺みたいなのは嫌いでしょうが?」
相変わらず、射るような視線のままだ。
「仕事上信頼するのは、全く別の話です」
孔明も、まっすぐに視線を返す。
「孝直殿の仕事ぶりと能力は、なくてはならないものです。それを、みすみす潰すような愚かな真似はいたしません」
法正は、目を見開く。
が、すぐに皮肉に口の端を歪ませる。
「仕事以外で口をきかねばいい、と」
「確かに、お会いすれば、仕事の話が先行してしまいますね」
返してから、苦笑する。
「すベきことが多いですから」
ふい、と法正は、視線を桜へと戻してしまう。
「ああ、くそ」
吐いた悪態は、けして本当に反吐が出るという風情ではなく、むしろ。
「俺は」
言いかかった口が一度閉じる。
「今しばらく、ここにいてもいいですかね?」
先ほどまでより、少しだけ小さい声。
孔明は、静かに微笑む。
「無論です」
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2008.03.27 Above the full blossom cherry trees XI

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蛇足
法正は、恨みを忘れず必ず報復、というのが印象的。


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