『 桜ノ森満開ノ上 拾参 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

視線が合うなり、見事なくらいにきっちりと頭を下げる。
「お邪魔をして、申し訳ない」
「いえ、星見は終わりましたから、ごゆるりと」
微笑んで一歩引いた孔明に導かれるように、厳顔は楼へと歩を進める。
と、同時に視界いっぱいに広がる景色に、思わずといった様子で低くうなる。
「ほう、これは」
うっすらと月明かりに照らし出され、ほの白く浮かび上がる桜の海。
息を飲むように言葉を飲んで、ややしぱし。
さら、と風が流れたのに、我に返ったようだ。
「いや、思っておった以上に見事なものですな」
「ご足労いただいたかいがありました」
返された厳顔は、なぜか困ったような表情になる。
孔明が、いくらか首を傾げてみせる。
「どうか、なさいましたか?」
「いや、あまりに見事で」
つ、と視線は花弁の海へと戻る。
「かように素晴らしい景色を、儂が拝みに来て良かったものかと。他に、相応しい御仁が」
言葉は、そこで途切れる。
孔明の口から漏れた、押し殺すような小さな笑いを、厳顔は聞き逃がさなかったのだ。
「これは失礼を」
言いつつ、孔明の顔から笑みは消えない。
「どなたに、ここのことを?」
不信そうになりつつも、老将は素直に返す。
「先ずは漢升殿に、それから翼徳殿、ああ、珍しく雲長殿にも声をかけられました」
老将は、いくらか困ったように眉を寄せる。
「それから、殿にも」
「なんと、言われたのですか?」
白羽扇で隠された口元には、まだ笑みがあるのだろうと思うと困惑が深まるが、素直に返す。
「それは素晴らしい景色だから、訪ねないのは勿体無い、と。言葉は違えど、おおよそそんな意味でした」
「その言葉を贈られたのは、貴方自身ではないですか」
さらり、と言ってのけられた言葉に、老将は目を見開く。
「や、それは」
目の前の軍師は、見たことの無いほど鮮やかな笑みを浮かべてみせる。
「ですから、ご遠慮無く、心行くまで堪能していただくのが、最上かと」
見開いた目は、ゆっくりと笑みの形となっていく。
「なるほど、見事な景色なわけですな」
視線は三度、揺らめく花弁へと向かう。
「本当に、素晴らしい」
ゆっくりと繰り返される賛辞には、万感の思いが込められていて。
孔明は、ただ、微笑んで景色へと視線を向ける。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2009.04.06 Above the full blossom cherry trees XIII

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蛇足
演義での黄忠とカクシャクコンビが大好きです。


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