『 桜ノ森満開ノ上 拾陸 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

扉向こうに気配がした、と思ったなり、声がする。
「失礼しても、いいだろうか」
孔明は、扉を開けながら返す。
「ええ、どうぞ。子方殿」
穏やかに迎えられて、糜芳はいくらか決まり悪そうに楼へと歩を進める。
視線は、床へと落ちたままだ。
「軍師殿にも、お詫びせねばならんと」
「他の方へは?」
「はい、もう」
言いかかって、ためらったように口をつぐむ。
しばしの沈黙の後。
「実のところ、兄貴には、まだ」
半ば命を奪うことになったのを、どこかで耳にしたのだろう。
「それでなくとも、兄貴には面倒のかけどおしで。その、何と言ったらいいのか」
いくらか上ずった声で言い、糜芳はしきりに額の汗をぬぐう。
思うだけで、そんなになるらしい。
孔明は、白羽扇の影で苦笑を殺す。
それから、ほんの少しだけ立つ位置を変える。
「後は、糜竺殿だけですか?」
「はい、いやっ、そのっ」
慌てた視線が上がる。
「軍師殿がお許し下……」
言葉はそこで途切れる。
月明かりの下、鮮やかに笑みを浮かべる孔明と、ほんの微かにだけ色を帯びた、薄白の花弁の海。
「私でしたら、ここまで来て下さった、そのことだけで十分に」
目を見開いたまま、景色に釘付けになっていた糜芳は、ただ頭を下げる。
そのまま、視線は上がってこない。
小さく、肩が震える。
「子方殿」
「はい」
掠れた声が、それでも律儀に返事を返す。
「せっかくいらっしゃったのですから」
止まってしまった言葉に、ためらいがちに視線を上げた糜芳は、改めて息を飲む。
「こりゃ、なんというか」
早口に言いかかって、苦笑する。
「こうやって慌てるから、いかんのですね」
「どうぞ、ごゆるりと」
孔明の穏やかな声に、しっかりと頷く。
薄白の花弁へと、いくらか身を乗り出す。
大きく深呼吸をしてから。
「ああ、こりゃ絶景ですね」
しみじみと言った言葉は、いつか聞いたのと同じで。
孔明は、白羽扇の向こうでそっと微笑んでから、花弁の海へと視線をやる。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2009.04.08 Above the full blossom cherry trees XVI

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蛇足
兄弟の差が大きいイメージです。でも、なんとなく憎みきれない。


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