『 桜ノ森満開ノ上 拾七 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

一向に扉を開けようとはしない彼が、息を大きく吸う気配がすると同時に。
一気に開けてやると、言葉を発しようとした半端なまま、口を開いて立ち尽くしている。
視線が合う前に身を翻せば、伸ばしかかった手が空を切る。
追いかけるように扉のこちら側へと足を踏み出した瞬間。
ざ、と、風が舞う。
舞う、という単語は相応しく無い。
それは、翻弄する、と言った方が正しい。
袖が、裾が、風に弄ばれ、さらわれそうになるのを、馬謖は必死に堪える。
目を強く閉ざしたまま、どうにか拠り所になる場所を見つけて身をすくめて。
耳元を過ぎる音が、急に収まったことに、驚いたように顔を上げる。
恐る恐る、開いた瞼の向こうには。
「あ」
月明かりの下、一面広がるほのかな白。
日の下では薄く色付いているはずの花弁は、今は自ら光を発しているかのような明るい色だ。
先ほどの突風が、嘘のように柔らかにさざめいている。
それ以上の言葉を失って、馬謖はその一面の白に見入る。
いや、何か言おうとする言葉は、端から気色に吸い込まれていっている。
その口元が、金魚のようにぱくぱくと動いているのが何よりの証拠だ。
ややして、嵐のような風に翻弄されてしまった思考も、落ち着きを取り戻してきたらしい。
恐る恐る視線を巡らせ、そして、びくり、と肩を揺らす。
「あ……じ」
言葉は、また、風に遮られる。
どこから急に、と思うほどの突風は、だが、今度はすぐに止む。
思わず袖で顔を覆い、やり過ごした馬謖は、軽く瞬く。
隣の孔明は、涼しげな表情のまま、気色を見やったままだ。
その口元には、微かな笑み。
馬謖は、不意に気付く。
ふさわしい言葉がみつからぬのならば、まだ口を開くべき時では無いのだ、と。
どこか楽しげな孔明が隣にいるだけで、充分なのだ、と。
視線を、月明かりの下へと向ける。
その口元に、穏やかな笑みが浮かんだことには、自身が気付いていないけれど。
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。


〜fin.
2010.03.29 Above the full blossom cherry trees XVII

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蛇足
まだ、言葉に出来るほどに整理も出来なくて。
それでも、会いたくて。


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